それでもたぐり寄せて歩く
お風呂から上がるともう菜々美さんは部屋に居なくて、凌しか居なかった。
凌はまだ濡れている私の髪の毛をタオルで包んで「乾かしてあげる」とリビングのソファーに座らせた。
さっきまで菜々美さんと凌が座って話をしていた所に座らされるのが何かイヤで、
「ううん、寝室で自分で乾かす。使ってみたいトリートメントがあるの」
と断った。
すると凌は、
「じゃあそれを俺がする。詩織のために何かしたいんだ、寝室にあるの?」
と向かったので、私も一緒に寝室に入ることになった。
前に買ったけど使っていなかったトリートメントがあって助かった。
取り出すとそれを凌は両手に出して私の髪の毛に塗り、
「おー、良い匂い。詩織の髪の毛は真っ黒でサラサラで綺麗だよな」
菜々美さんは金髪だけどそれはいいの?
それは気にせずに抱けたの?
私の知らないところでああいう風にふたりで話していたの?
仕事だと言ってふたりで会って、私が知らない話をしていたの?
今日だけ? 実は私がいない時にいつもああやってふたりで話していたの?
楽しそうに笑顔で?
私がひとりだけ何も知らなかったの?
ぐるぐる考えている言葉が出てきそうになり、唇を噛む。
人の妄想は限りが無く、真っ白な布にたった一滴の墨汁で黒く染まる。
私は母親の機嫌をとり続ける幼少期を過ごした。何をしたら母親が喜ぶか、何をしたら母親が怒るか、考えて考えて先を読んだ。
その時何度もミスをした。それを救ったのが数字という裏付けであり、統計だった。
この状態の母親にそれをすると、これくらいの確率で怒られる。外的要因はこれ。その結果こうなった。
私は不安定要素しかない母親相手に、数字と統計で戦い、自我を保った。
その弊害として残ったのが、小さな言葉ひとつ、動きで要らないことまで予測してしまうこと。
LINEの文字ひとつ、帰って来る電車が一本違う、新しいスマホに変えた。好みじゃないスマホカバーをしている。見たことない壁紙、その写真どこで撮影したの? ひとつのことで色々と考えてしまう。
でも凌と結婚して愛されて、そのクセがやっと抜けてきた……そう思っていたのに、やっぱりダメ。
こんな自分が嫌いで仕方が無い。無駄なのに、心痛めるだけなのに、何の実証もないのに。
こんなこと私の心になにひとつ有効ではない。
DNA検査の結果しか信じない。
有効ではないデータで私を壊す必要はない。
なんとか立て直して、笑顔を作り、
「……凌が綺麗って言ってくれるから、切れない」
「切らなくて良い。ほら乾いた。サラサラで重たくて触り心地がいい」
凌は私の髪の毛に軽くキスをした。
私は振り向いて凌にしがみ付く。すると凌は私を抱きしめて、
「……やば。風呂上がりの詩織柔らかくて良い匂い。クソ俺も風呂はいっときゃ良かった。てか詩織まだ食事……ん」
私は話している凌にキスをした。
凌がしたくなるように、自分から甘く舌を吸い、誘うように身体を押しつける。
凌はそれを受け入れるように私を強く抱きしめてそのままキスを続ける。舌を転がして、何度も唇を離して、私を確認するようにキスをする。
そのまま首筋に唇を移動させて、
「したい」
私はそう凌が言うように動いたのに、そう言ってくれたことに満足して凌を突き放し、
「まだご飯食べてないよ。凌が作ったご飯食べたい。お腹すいたの、疲れちゃった」
「うーーー……。じゃあ食べたら。その間に風呂入ってくる」
「うん」
私は頷いて凌から離れた。
大丈夫、私は私を取り戻した。だからちゃんと聞ける。
私は凌を見て、
「……凌はボカロとか聞くの? 私と一緒にいるときにそんな話全くしないじゃない」
「え? ああ、聞くというか、ゲームかな。ほら俺結構ゲームするだろ」
「! そうだ。なんか指でスマホをすごい速度で押さえるゲームしてたわね」
「すごい速度で押さえる。詩織がいうとゲームがそういう扱いになるの面白いな。そう集中する感覚が面白くて結構するんだ。詩織とも太鼓の達人とかしたじゃん」
「……確かに」
「音ゲー好きなんだよな。またゲーセン行こうか。俺結構好きなんだよ」
「ゲームセンターって、何にお金を出させたいのか思考が透けて、あんまり好きじゃないのよね」
「詩織らしい」
そう言って凌は私の頭にキスをして台所に戻り、夕飯を仕上げて出してくれた。
さっきまで心臓が「私はここにいる」ってずっと暴れていたけれど、今は落ち着いていて、大きく息を吸い込んで吐き出した。
そうだった。凌はゲームをよくするから、それでボカロの曲を知ってるのね。
確認せずに暴走して凌を傷付ける所だった。それに私は凌が菜々美さんに取っている冷たい態度をやめてほしいと本気で思っている。
浮気をしていないなら、胸を張って、客人として対応してほしい。凌はそうしていたのに。
仲良く話しているふたりを見たら見たで、こんなに胸が苦しい。
冷静な顔して仲良くしてなんて言って、本心は全然そんなこと思って無い。
「……もう本当に、感情なんていらない」
凌が作ってくれた鶏の照り焼き定食を食べた。
自分が愚かに感じて辛い。凌はこうしてご飯を作って待っていてくれたのに。
ため息をつきながら食事をしていると客間のドアが開いて菜々美さんが部屋から出てきた。
そして軽い足取りで歩いて私の横に席にチョコンと座って、
「……疲れた? 邪魔? ひとりで食べたい? 話しても良い?」
機嫌を窺うように私を見て言う。
私はさっき苛立ってしまった置き場のない気持ちもあり、笑顔を作って菜々美さんを受け入れて、
「大丈夫。菜々美さんはもう本当に匂いが平気なのね」
「そうなの。なんかこうずーーっとお腹の真ん中に向かって匂いが入り込んできて、私のなかをぐるぐるかき回すみたいに気持ち悪くて、それをすっきりさせたくてトマトばっかり食べてたけど、そのぐるぐるが少しずつ減ってるのが分かるの。ぐるぐるが退いた所に胃があって、ご飯食べられるって言ってるの」
「……すごく分かりやすいような、分からないような悪阻の終わりの説明ね」
「横でトマト食べていい? 詩織さんが買ってきてくれたトマト、待ってたの」
「切ろうか?」
「はいっ!」
そう言って菜々美さんは椅子で背筋を伸ばした。
私は立ち上がってトマトを洗って皿に並べて菜々美さんの前に出した。
菜々美さんはフォークでそれを刺して、美味しそうに食べた。
「んーー、でもやっぱりこのトマトは美味しい。本当にこのトマトだけで生き延びました、ありがとうございます」
「他にも色んなトマトがあるのよね。私全然知らなかったわ。良かった、入院とかにならなくて」
「あっ、美穂さんの病院に転院決まりました。でもあの……びっくりするような金額で……あの……でも美穂さんが笑いながら、あなたは人質だからそれでいいのって、すごく良いコースに勝手に設定を……美穂さんに全部説明したんですね」
菜々美さんはトマトを食べながらモゴモゴと私に言った。
美穂には私が全額出すとは言ったけど、オール個室対応の一番高いコースにしたのね。
誰がそこまでしろって言ったのよ……と思うけど、中期以降に産院を変更してねじ込んでいるんだから、私の都合だ。
私は苦笑して、
「美穂のいう通り。あなたは人質よ。だから私のお金で産んでDNA検査をしましょう。それで私の気が済むから」
「美穂さんのクリニック……すごくきれいで、トイレも広くて……あの産院のトイレ、リボンマートの私が住んでた寮と同じ広さです」
「それはちょっと……リボンマートの寮のほうに問題があるわ」
「あの。さっき話していたのは、こういうゲームです。これ」
リボンマートの話をしていたのに、菜々美さんは突然ポケットからスマホを取りだして、音ゲーの画面を見せた。
話がぶっ飛んでいて、驚くけれど『さっき話していた』……つまり菜々美さんは私がふたりの会話を玄関で聞いたことに気がついている。
それで気を遣っているから、邪魔? とか、嫌い? とか聞いてきたのだ。
それは、昔母親の機嫌を必死にとった自分にどこか重なって胸が締め付けられた。
私は菜々美さんを見て、
「……知ってるわ、ゲームね。でも私、ゲーセンもゲームも嫌いなの。時間とお金の無駄よ」
「詩織さんらしい……詩織さんらしいです……今から私は詩織さんがいうことを全て当てます」
「それも時間の無駄だと思わない? 私がここにいるのに、私が答えたほうがいいじゃない」
「はい、ええ……その通りすぎて」
「わざと取れないように設定されてるクレームゲームが一番苦手なのよね。あれはきっと取れる値段設定が1500円程度かしら。取れるか取れないかの興奮を狙ってると思うんだけど、感情を煽られてるようで気分が悪いわ。でもぬいぐるみの可愛さは分かるわ。だったら1500円出してもっとしっかりしたものを購入すべきよ。可愛いぬいぐるみで感情を煽る商売システムが好きじゃないの」
私がそう言いながら食事をすると菜々美さんはそれを静かに聞いて、
「ゲームはその時に楽しいからしてるだけで何か得たくてしてるわけじゃないっスよと言おうと思ったけど、違いますね。詩織さんは、可愛いぬいぐるみが適当に扱われるのがイヤなんですね」
菜々美さんはトマトを食べ終えて私を見て言った。
私は軽く頷いて、
「そうかも。顔があるものを適当に扱いたくないのよね」
「優しいから痛い部分が広いんだ。それは損だけど、私はそういう詩織さんが好き」
私を見て真顔で、なにひとつ変なことじゃないように、まっすぐに菜々美さんは発する。
私は「好き」だなんて人に向かってはっきり言わないので驚いてしまい、サラダを口にねじこみながら戸惑い言葉を探す。
「……えっと、そういえば貴女のファンの女性が、下北沢のライブハウスのオーナーと連絡を取ってくれたの。産後落ち着いたらどう? って言ってくれてるみたい。見に行く?」
私がそういうと菜々美さんは目を丸くして、
「……え、マジですか。マジで言ってますそれ」
「東京で歌っていくのをモチベーションに、勉強をして、生活を整えていくのが良いと思うの」
「マジっすか! え、マジっすか! え、超モチベになります、そんなの夢ありまくりです!」
そのテンションに笑えてしまい、私は普段使わない言葉で、
「超モチベ、大切ね」
「超人生やる気になってきました!! マジっすか!」
「まずは明日三人で会いましょう。下北沢」
「下北沢行ってみたかったんです!」
「そう、良かった。私も行ったこと無いわ」
菜々美さんは「マジっすか! 超嬉しい勉強します、東京で働きます!」と客間に消えて行った。
凌が作ってくれた夕飯は美味しくて、ドアを開けた時の違和感はちゃんと拭えた。
無駄に爆発しなくて良かった……と私はお皿をシンクに運んで片付けた。
それでもシンクには、凌だけじゃなくて、どうやら菜々美さんも凌が作ったご飯を食べたのか……二組の皿がもうシンクにあって、私はそれをガチャガチャと音を立てて軽く洗い、食洗機に並べた。
うちはふたり家族のはずなのに三組のお皿があり、それを望んでいたのに間違っている気がして、私はシンクを強く磨き続けた。




