背中にも顔があるのなら
「おはよう、詩織、パン、バターでいい?」
「おはよう、凌。うん、この前買ってきた紀伊國屋のジャムまだある?」
「俺が全部食べちゃった。今日買ってくる」
「じゃあバターの上にハム!」
朝起きると凌がもう朝ご飯を作ってくれていた。
パンとコーヒーと簡単なサラダ。凌が私を抱いてくれるようになってから、夜深く眠れるようになった。
そして前は目覚ましより前に起きていたのに、最近は目覚ましでなんとか起きている。
よく眠れていて朝から気持ちが良い。そして眠るようになった私と立場を交代するように、なぜか凌が早起きになった。
朝早く起きて仕事をしたり、朝ご飯を作ってくれてる。
今日は洗濯機も回してくれたみたいで、助かってしまう。
椅子に座って出してもらった朝食を食べていると、客間のドアが開き菜々美さんが起きてきた。
「おはよう、菜々美さん」
「おはようございます」
「匂い大丈夫?」
「はい、最近かなり楽になってきて気持ち悪さは減りました。でも部屋にいます」
そう言って菜々美さんはすぐにトイレに向かった。
私は朝食を食べながら、昨日の菜々美さんの歌は良かった……と思い出していた。
ライブ会場のような、整った環境で聞いてみたいと素直に思えるほどに。
全く知らない曲だったので、タイトルをネットで調べて見たら機械音声が歌っている同じ曲が流れてきた。
同じ曲なのに菜々美さんが歌っていたときのようにワクワクせず、やはり菜々美さんの歌が良かったのだと素直に思った。
そういえば笹木さんが東京にいるプロデューサーが……みたいなことを言っていた気がする。
妊娠中のライブは危ないけど、産後落ち着いたら大丈夫なのでは。
笹木さんにLINEしてみようかなと思いつつ洗濯物を干していると、菜々美さんがトイレから出てきた。
私はふと気がついて、
「ねえ、菜々美さん洗濯物どうしてるの?」
干している洗濯物のなかに菜々美さんのものが全くないから気になったのだ。
菜々美さんは私のほうを見て、
「近くのコインランドリーで洗ってます」
「私たちの洗濯が終わったあとの洗濯機を使えばいいじゃない。そこにあるのに」
「止めろって俺が言ったんだ。うちの家電を勝手に使ってほしくない」
私たちが話していると、台所から来た凌がピシャリと冷たく言った。
私は慌てて、
「コインランドリーだって他人が使ったあとのものを、使っているのよ。同じでしょう」
「俺と詩織の洗濯物を洗っているところで、他人の服を洗ってほしくない。詩織だってそう言ってたじゃないか。俺の親がここに泊まって洗濯をしようとしたら嫌がったじゃないか」
私は突然何の話が始まったのか分からず驚くが……確かにそういうことがあった気がする。
たぶん結婚したばかり……五年前の事だと思う。
結婚してここに引っ越してきてやっとふたりで暮らせると思ったのに凌の両親が二日と言ったのに三日も四日も居て、もう帰ってほしかった。
だから「洗濯をしても良いかしら?」と聞かれて「え?」と答えたのだ。
それを聞いて凌の両親は「よく考えたら邪魔だわ!」と帰って行った。
そんなの今この瞬間凌に言われるまで忘れていた。
私が驚いていると横にいた菜々美さんは首を振り、
「いいんです、全然。というかすぐそこにコインランドリーありますし。洗濯と病院くらいしか行く所ないし、全然良いです。置いてもらえるだけで」
「ここに置いてるのは私の意志よ。むしろ菜々美さんはここから出て千葉の寮に入ろうとしてたの。それを我が儘で止めたのは私」
「あのですね。だからって一緒に住んでる人が不機嫌になることを、他に解消する手段があるのに、ゴリ押しするのは、ただケンカの元になるだけです。でもですね、私は詩織さんにそう言われて嬉しいってことだけは伝えて部屋に戻ります」
そう言って菜々美さんは客間に戻っていった。
凌は洗濯物を干し終えて、私の前に席に座った。
どうしようもなく居心地が悪い。それでもこれはきっと……、
「……ごめんなさい。凌がイヤだと言ってることを、たぶん……私は自分を正当化したくて……強く言ったわ」
「……ごめん。俺もたぶん……五年前のことを引っ張り出したりして……あの時言いたかったけど……飲み込んでたんだな」
私は驚いて顔を上げる。
凌がそんな風に素直に謝ったことは無かった気がする。
ううん、きっと私が素直に謝ったから、凌も謝ったんだ。
凌はぽつりと言う。
「ひょっとして俺たち、小さな地雷をたくさん埋めたマンションで暮らしてる?」
私はなんて言ったらいいのか分からず、それでもなんとなく私らしく、
「……知ってる? 地雷処理ってひとつなら45,000円。でも地雷って埋まってる数がひとつじゃないから総額15万円くらいかかるのよ」
私がそういうと凌はくっと表情を甘く歪ませて、
「いやちょっとまってくれ。どうしてこの流れでリアルな金額が出て来たんだ」
「地雷の種類にも地形にも除去方法にも左右されるって……知識で逃げたいだけ……この嫌な空気から……本で読んだことあるから……」
違う、そうじゃなくて。私は凌の手に触れた。
「……自分がどうやって逃げて来たか見えてきた。凌が嫌なこと、分かってないことたぶんたくさんした」
私がそう言うと、凌は優しく眉毛を下げて私の前の席から横に移動してきて、
「俺もだ。ていうか口にするまでそんなこと気にしてたの忘れてた」
私たちはソファーで手を繋ぎ、そのまま台所に移動して一緒に朝ご飯を食べた。
コーヒーメーカーが、小さな地雷たちが踏まれてぽすんぽすんと爆発するように、そこからコーヒーが染み出すように、ゆっくりと苦い音を落としている。
「ふう」
最近クリニックにくると落ち着く。
自分ではじめた三人の生活だけど、やっぱりアンバランスの塊で安心できない。
今まで逃げてきた言葉や過去が真っ黒な顔して私を見てくる。
逃げて来た自分を認識するのも辛いし、同時に凌の気持ちも見えて苦しい。
でも仕事場は違う。無駄がなく美しく整えられた空間。余計なものがなにひとつなく、全てがあるべき場所に置かれている。
髪の毛一本帽子から出せず、完全消毒されたエプロンに一日の大半を包まれているのが心落ち着くなんて! と美穂には笑われたけど、最近ここが私の居場所だと強く感じるようになった。
顕微鏡を覗いて見えるのは、卵子。
まわりに膜をまとって本来の姿が見えない。
私は丁寧にそれを剥がして、精子を迎えられる姿に整えていく作業が一番好きだ。
一秒だって無駄にできない、本来身体の中にあるべきものだ。ここにいるのが間違っている。
突然触れてごめんね。でも綺麗にして精子に出会えますように。綺麗にしてあげるからね。
卵子に触れているときが、人生で一番優しく動けていると断言できる……この時間が好きだ。
ただ指先に集中する時間……心地が良い。
「……首が痛い」
休憩時間に首を揉んで肩を回していると、スマホにLINEが入っていることに気がついた。
それは朝LINEしておいた笹木さんからだった。
『セブンが歌ってくれるなら、私全然プロデューサーに橋渡ししますよ! ベビーシッター代金だって私がバリバリ出しちゃう!!』
と元気に書いてあった。
完全にスポンサーで笑ってしまう。
笹木さんは続ける。
『正直なこと言ってしまえば妊娠中のライブだって正直全然問題ないと思いますけどね。ビヨンセもアリシア・キーズもゴリゴリやってて海外じゃ多いというか、当たり前ですね』
私は少し驚く。
『そうなの?』
『むしろ強い女のアピールとして使われてます。そもそも日本は臨月直前まで満員電車にぶち込んで産休取らせないくせに趣味は取り上げるなんて鬼なんですよ! おっと、義母に言ったのと同じことを詩織さんに言ってしまいました。でもまあ日本ではクソ叩かれるんで妊娠中のライブは無理です。産後全力サポート体制に入りましょう! セブンにずっと歌ってほしいんで繋ぎます。箱持ってるプロデューサーに聞いてみますね』
そして『任せてください!』と力強いスタンプを押して笹木さんは去って行った。
少なくとも、笹木さんと同じくらい、菜々美さんの歌をまた聴きたいと思っている女がここにもいる。
それを菜々美さんに伝えたいと思った。
私はスマホをポケットに入れて背伸びして、また私の聖域に向かった。
消毒液に包まれた空間が、一番落ち着く。
「遅くなっちゃった」
クリニックの掃除をしていたら受精卵が気になる分割をはじめて、先生に確認を取ったりしていたら残業になってしまった。
結婚もせず、生活をすべて捨てられるなら、私はずっとクリニックにいたいと思ってしまう……本来はワーカーホリックだと思う。
仕事が好きとかではなく、受精卵が気になるのだ。ただ様子をずっと見ていて、少しでも情報を得たいと強く思ってしまう。
結婚してなかったら今頃私のほうが疲労で倒れている。
今日は遅くなったのもあり、当然だが菜々美さんの姿は庭にない。
ここまで遅くなる前に菜々美さんに鍵をしっかり渡せて良かったと安堵しつつ部屋に向かう。
鍵を入れて回したら、閉まった。
なんと開いたまま生活していたようだ。
凌は神経質で、家にいる時も鍵をしっかりと閉める。
菜々美さんが開けっぱなしにしてるのね? 私は苦笑しながら鍵を再び回して、今度こそ開ける。
そして中に入ろうとドアを開くと、ふたりの話し声が聞こえてきた。
「千本桜はもはやレジェンドですよ。あれは逆に歌うのに向いてないです」
そう話しているのは菜々美さんだ。
「そんなこと言ったらワールドイズマインだって歌うのには適してないだろう」
「いやいや、ワールドイズマインは歌うためのボカロですよ」
「その差は何なんだ? 俺にはさっぱり分からない」
凌は軽く笑った。
凌が、菜々美さんと話して軽く笑っている。
朝洗濯物を一緒に洗うなと言っていた凌が、菜々美さんと笑いながら「私が知らない話をしている」。
楽しそうにふたりで、ふたりだけの話題で話している。
心臓がバクバクと大きく動いて息が苦しい。
私はわざと音を立てて扉を思いっきり開いて、
「ただいま!」
すると菜々美さんが台所に走ってきて、
「おかえりなさい、詩織さん。寂しかった」
そう私を見てまっすぐに言った。
私はそう言われて、突き飛ばすべきか、抱きしめるべきか、その場で泣くべきか、もう一度家から飛び出すべきか分からず、手に持っていたトマトを差し出した。それを受け取った菜々美さんは笑顔になり、
「嬉しいです、ありがとうございます。でも私、悪阻終わったかも! なんか食欲あるんです、なんと食欲があるんですよ!」
「……良かったわね。じゃあそのトマトはみんなで食べましょう」
私がそういうと菜々美さんはトマトが入った袋を大切そうに抱きしめて、
「いえ、詩織さんが私のためだけに買ってきたものなので、私がひとりで食べます」
「傲慢ね」
「傲慢ですよ。欲しいものは必ず頂きます」
そう私を見てまっすぐに菜々美さんは言った。
トマトのこと? 凌のこと? この家? 私のポジション?
思考がグルグルして、私は着替えを持ってお風呂に籠もった。
自分の真ん中にぐるぐるとしたものがあって、それが何なのかはっきりしているけど、口に出すと色が変わる気がして風呂の中に沈めた。




