夜明けを歌うなら
菜々美さんを連れて家に帰ってくると、部屋の電気が点いて無かった。
凌、家に居ないのかな……そう思って部屋の電気を付けたらリビングの椅子に凌が亡霊のように座っていた。
驚くけど、覚悟を決める。
「菜々美さんをホテルから連れてきたわ」
私がそう言うと凌は床を見たまま、
「近くに住む家を準備する。俺が金を出す」
私は凌の隣の椅子に座り、菜々美さんには手をサラリと動かして客間に入るように促す。
菜々美さんはチラリと凌を見て素早く客間に入って鍵を閉めた。
その音を聞いて私は凌を見て、
「何度も話したけど、もう決めたのよ。こんな行動をする女を愛せない、現時点で離婚したいっていうなら、私は離婚を選択する」
「……詩織、おかしいぞ」
私は覚悟を決めて、
「おかしくていい。ただ知りたいの。結果を見てそれで自分を納得させたい」
「変だろ、得体も知れない女と同居するなんて!」
「浮気してないと、菜々美さんとセックスしていないと、絶対的に証明できるのは菜々美さんのお腹の中の子どもだけ。していないなら、自信を持って暮らせばいい。それで私が信じると言っているのだから」
凌はずっと床を見ていたけれど顔を上げる。
それは完全に無気力で、焦点もあっていない。
こんなのいつもの凌じゃない。いつもだったら心配になるけど、違う。
私は続ける。
「これ以上凌を疑いたくない。私……電動シェーバーの袋を見つけた時、絶対に凌が浮気したと真っ直ぐに思った。きっと調べれば調べるほど何か出てきて、枝葉のようにそれは広がって、凌を包む全てが嘘に見えてくる。それは今だけじゃなくて過去にも広がって全てを覆い尽くす。あの時は? あの日は何をしてたの? こんなことばかり言う私をどんどん嫌いになるでしょう。そんな時間を過ごしたくない。答えがそこにある、もうそれだけを信じる。もし過去にしていても、もう……過去は見ない。無駄に傷つくだけだわ」
正直凌が菜々美さんとしていて、私には触れてなかった……これが一番キツい。
凌を傷付けたくなくて黙っていて、それでも触れて欲しくて。
怖くてそれでも好きで……ずっと考えていた過去の私がすべて殺される。
「知りたくない、もう考えたくないのよ」
私がそう言うと凌は覚悟を決めたように首を振って顔を上げて、
「……分かった。俺は今日からうまれ変わる。詩織が教えてくれたんだ、俺にだって可能性があること。俺は詩織との子どもがどうしてもほしい。でもさ……俺も調べたんだ、詩織に言われて運動率0%で妊娠した夫婦を。みんな離婚してて……結局疑うんだろ、運動率0%で妊娠なんて嘘だって。俺は詩織に信じてほしいから、今日から向き合う。正直……逃げてた。詩織はいつだって正しくて……いや今もだけど。それが……ちょっと怖い」
ゆっくり気持ちを言葉にするように話していたけれど、最後に音が消えるように凌は吐き出した。
これは本音だ。
結婚前は「しっかり自分を持っている詩織が好き」だと言っていたけど、生活を共にして数年。
私は自分のペースを崩すことを嫌う。凌が同僚夫婦と旅行にいくからどうだと誘われても仕事を優先した。
気になる受精卵がある時はクリニックから離れたくなかった。凌と話すより美穂と話すほうが気楽で、結婚した意味がないと感じた日もある。
むしろ結婚したからといってこれ以上何を話せば良いのか分からずにいた。
きっと結婚したことに甘えて、その場から動けてなかった。
私は凌の手を握って、
「……今日は一緒に買い物にいって、一緒に食事を作らない? 同じことをちゃんとしたい」
「詩織」
「私も逃げてたと思う。だって性欲がない男の人なんていないでしょう。それなのにどうして私に触れないのかなって。でもそれを話そうとすると凌は逃げていくし、怖い。言うから逃げるの? だったら言わなくていい、凌は同居人、それで生きて行ける、一生それでいいと思い込んできた。でも凌としたいだけじゃなくて……ただ好きな人に抱きしめられて、大切にされてるって思いたいの。そう感じたいだけなんだよ。したいんじゃないよ、凌が特別だから、特別な人としかしないことをしたいんだよ」
ちゃんと伝えたくて、分かってほしくて、これが目の前に垂らされた最後の蜘蛛の糸のように感じて、必死に言葉を選んでそれを掴む。
何度も凌の手を握りながら言葉を絞り出す。
「でも怖くて、自分を守るのに必死で、それに気がつかれたくなくて言葉も強くて、自分を曲げられない、こんな自分がイヤにもなる、可愛くない、こんなんじゃ嫌われちゃう……本当は弱くてダメ人間なんだよ」
「詩織、ごめん、愛してる」
凌は私の手を自分の頬に持っていき、そのまま私にキスをしてきた。
甘くて優しくて、私が大切だとしっかりと分かるキス。
ゆっくりと抱き寄せて唇を離して、私を見て、優しく微笑んで、再びキスをする。
気持ち良くなってきて凌にしがみ付くと、客間の方からカチャ……と扉が開く音がした。
菜々美さんが部屋から出てきた。気持ちを伝えたくて必死だったけど、まだ夕方の16時。
甘い時間には少し早い。
私はなんとなく凌から離れようとするけど、凌はむしろ強く私を抱き寄せて、キスをしながらそのまま寝室に連れ込んで押し倒した。
「したい」
「凌……でもまだお風呂入ってないし、晩ご飯も食べてないよ。あとでゆっくり……」
「今どうしてもしたい」
そう言って凌は私の首に深く痕が残るようにキスをした。
私は喘ぎながら、
「……痕がのこっちゃう」
「残してる」
そう言って凌は私を強く抱きしめた。
カタン……と廊下の奥から音がする。菜々美さんが起きている、トイレに入って流す音が聞こえている。廊下を移動して台所でお水を飲んでいる。
凌に首にキスをされて、そのまま胸に触れられながら、菜々美さんが部屋の中をどう移動しているか分かってしまう。
凌に抱かれているのに、菜々美さんの視点で抱かれている自分を見てしまう。
寝室のドアが完全に閉じていない。寝室と客間は離れてるけど、それでも声が漏れてしまうのは間違いない。
それでも私の中の私が「別に聞かれてもいいじゃない」という。私たちは愛し合っている夫婦で、そんな夫婦は平日に突然セックスをするものだ。
それがどこか誇らしくて幸せで、そんなことを見せつける私は間違いなく最低な女だと分かっているが、心の奥底のどこかで、凌は菜々美さんを抱いたのかもしれないと、間違い無いと私が囁き、そいつの首を背後から折って殺す。
そこで聞かれてたって、なんの問題もないじゃない。
だって私たちは愛し合っている夫婦なんだものもの。
激しく突かれて濁る意識と、今まで生きてきた中で一番の快楽を感じたセックスに、愚かに汚く、そのまま果てる。
快楽は幸福の色をしていない。
「寝ちゃった……びっくり。深夜一時よ。晩ご飯も食べてないし、お風呂も入ってないし、明日の準備も何もしてない。私たち明日も仕事なのよ」
「付き合ったばかりのころはこんなだっただろ」
「もう結婚して五年なの。それに明日の朝一はカンファレンスが……」
したあとそのまま眠ってしまい、枕元で明日のスケジュールを知らせるアラームで起きた私は、そのままスマホを掴んでベッドから出ようとする。
凌は私をベッドに引き戻して、
「黙って五年前に戻って。出会ったばかりのころの詩織を思い出した」
そんなこと言われると、私が今まで積み上げてきた五年間が無駄だったように聞こえて、少しむくれる。すると凌は私の頬にキスをして、
「ベッドの上だけでいい。それで俺は詩織を抱ける、抱きたいんだ、ずっとそう思ってた」
そう言って凌は私に再びキスをした。そう言われてどこか……私は結婚した五年間に、凌に正論ばかり言ってきたと気がつく。
でも仕事で得たものもあまりに多い、私自身を形成したのもこの五年の仕事だと断言できる。
私は私の首に再びキスしている凌を抱きしめて、
「……もうこのまま寝て、明日は5時に起きる」
「それがいい。悪いが俺は……7時まで寝る」
「裏切りものーー!」
私がそう言って凌の顔を引っ張ると、凌は目の前でポロリと涙を落とした。
それは突然、凌の意識という世界から突然剥がれ落ちたよう速度で。
私はそれに驚いて、確認するように凌の目尻に触れる。
しっとりと指先が濡れる。
「ごめん、本気で言ってない」
「違う。愛してて」
凌は真顔で再び涙を落として言う。
それは泣いているのではなく、まるで雨上がりに歩道を歩いていたらふいに落ちてくる滴のように、どこから落ちてきて、どこにあったのか分からない滴のように。
私は凌の涙を両手で包み、
「……寝よう? 抱っこしてあげる」
「……して」
凌は私の胸の間に顔を入れて、ストンと静かになった。
そして私に抱きついてゆっくりと力を抜いて眠り始めた。
私はスマホのアラームを五時に設定して、空腹すぎるお腹を抱えてそのまま眠った。
こんな夜が甘くて、汚くて、最高で最悪で、愚かで心地良いのを忘れていた。
「詩織さん、おはよう」
「菜々美さんおはよう」
朝五時に起きて台所でパソコンを立ち上げてカンファレンスの準備をしながら朝ご飯を食べていたら菜々美さんが起きてきた。
昨日しようと思っていた全てのことが何もされてなくて、正直時間との勝負だ。
溜まったメールを見てキーボードを叩く。
「ごめんね、朝からうるさくて起きちゃった?」
「ううん。朝はうるさくない。夜はうるさかったけど」
私は菜々美さんのその言葉に指をとめて、菜々美さんを見る。
菜々美さんは私の前の椅子にトスンと座り、
「でもこれは宿泊費として聞いといてあげる。だって愛し合ってる夫婦の家に無料で泊まらせてもらってるんだもん。それにお勉強とご飯もセット」
そう言って菜々美さんは高校卒業認定試験のテキストを見せてきた。
昨日買ってきた参考書は、もう漢字のページが終わっていた。
私はそれを見て、
「……すごいじゃない」
「勉強してるほうが気持ち悪くないって気がついたの。驚き。寝てるほうが視界が回ってるの」
「え、じゃあ勉強しましょう」
「うん。ここでしてもいい? 仕事の邪魔しないから」
「むしろ同じ机に勉強する人がいると助かる。どうぞ。トマトまだ食べなくて平気?」
「まだ要らない。ありがとう」
そう言って菜々美さんは私の対角線上の席に座り、テキストを開いてカリカリとノートに書き込み始めた。
パッと見た感じノートの文字も美しいし、やっぱり菜々美さんは勉強する機会を奪われただけで、地頭は良い感じがする。
菜々美さんは漢字をひたすら書きながら、
「私はおばあちゃんを家で看取ったの」
「……大変だったわね」
「おばあちゃんは死ぬときに、ずっと寒いって言ってた。うちはメチャクチャ貧乏だったから暖房をケチってたけど、おばあちゃんがもうダメだって分かってから、私はそれをやめたの。その日は雪が降った寒い日だったから、部屋の暖房は30度に設定していた。それでもおばあちゃんは寒い寒いって言った」
そう言って右手に持ったシャーペンをクルリと回して、
「暖房を点けすぎて私は汗をかいていたけど、それでもおばあちゃんと同じ布団に入ってた。おばあちゃんは室温三十度でも寒い寒いって布団の中で震えていた。身体の表面は汗をかいているのに指先が氷みたいに冷たくて。触れたら私の指先がくっついて皮膚が剥がれ落ちそうなほど冷たくて、触れたら離れられなくなる。そう思うほど冷たくて。それでも私はおばあちゃんにくっついて体温を送り続けた。そしてずっと歌ってた」
「歌?」
「そう。話し言葉は途切れるけれど、歌は途切れない。だったら話しかけるより歌ったほうがいい。でもこんな時、どんな歌を歌えばいいんだろうって。死に合う歌ってなんだろうって。でもよく考えたら人生で最後に聞く曲を選べる人って少ないんじゃないかと思って。おばあちゃんは最後に私の歌が聞けて幸せなんじゃないかと思って、私が作った歌をずっと歌いました。窓から見えた太陽が沈んで、梟が鳴いて雨が降ってそれが止んで。一晩も二晩も、ずっとずっと歌いました。喉が枯れて息しか出なくなって、血の味がしてもずっと」
菜々美さんはクルクルと回していたシャーペンをクッと握って顔を上げて、
「人と眠るのって良いですよね」
と言ってノートに戻った。
どう反応すべきか分からない内容だけど、それでも菜々美さんはそうやって気持ちを言葉にして詩を書いている人だと思い直す。
私はパソコンに文字を打ち込みながら、
「骨伝導って知ってる?」
「ヘッドホンとかのですか?」
「そう。あれは骨に振動で音を伝えてるの。菜々美さんが手を握って歌い続けた歌は、おばあさんに最後まで届いてるわ。人と眠るのは良いわね」
「……なるほど。して良かったです。というか、詩織さんに話して良かった」
「なんでも話して。当分同居人よ。それに私、菜々美さんの話を聞くのが好きよ」
「金持ち貧乏人の地獄に興味を持つ……なかなか悪趣味ですね」
「そうよ、金持ちなんて暇なんだから」
「それにしてはすごい速度で仕事を進めてる……」
「今だけよもう大変なんだから! 話しかけないで! ほら勉強!」
私たちは朝の五時からそんな会話をしながら作業を進めた。
当たり前に奇妙でそれでも静かで、どうしようもなく落ち着く朝。




