私はあなたを離さない
「詩織さん、変だよ」
「菜々美さん、逃げるつもりでしょ」
「……いんや?」
菜々美さんは私をまっすぐに見て眉毛だけ上に動かして言う。
凌と話をした次の日、私は仕事を終えて菜々美さんをホテルに迎えにきていた。
菜々美さんは椅子に座ったまま動かない。
そして静かに、
「もう凌さんは関係ないよ。たぶん別の男だって思い出したし」
「その人に連絡は取れるの?」
「……いんや?」
再び眉毛を同じように動かして言った。
正直何が本当で何が嘘なのか、何も分からない。
最初は凌としかしてないと言っていたのに、今は全く違うことを言っている。
でもこれは「状況が変化しているからそう言っているのだ」と私は理解する。
現時点で分かっているのは、菜々美さんは「凌の子どもを妊娠したと思って我が家にきた」「重い悪阻で仕事を首になり、居場所を失った」「凌としていたと断言している」「凌の私物を持っていた」だ。
私は菜々美さんの横に座り、
「調べたら凌ほど状態が悪い精子でも自然妊娠している文献を見つけたの。もちろん世界に数人の奇跡だけど、可能性はゼロじゃない」
「?! ゼロって言ったじゃん」
「そうね、ただ私は凌の全ての精子を毎日毎日欠かさず全て検査していたわけではない。検査した中はゼロだった。それは嘘じゃない」
私がそういうと菜々美さんは「はー……」とお腹の中の息を全部出す自分を入れ替えるような深呼吸をして、
「球技ってクソじゃん?」
「……そうね、球を投げ合って何が楽しいのかわからない」
「……はじめて心の奥底から詩織さんと意見があった」
そう言って菜々美さんは、もう逃げられない、そう諦めたような苦笑をした。
どうして精子の話をしている最中に球技の話になるのか分からないけど、鷹が飛ぶ井の頭公園を散歩した私にもう怖い物はなかった。
菜々美さんは話題が飛ぶ。でもそれは何かに関係がある話なのだ。
菜々美さんは爪をはじきながら続ける。
「中学生の時にバスケの授業があってね、それがすごく嫌いで。ゴールに投げる球全部入らなかった。先生に怒られて居残りさせられて、ゴールに入るまで帰るなって言われて。私夜中までひとりでボール投げてたの、外で。四時間くらいずっとしてたかな。夕方だったのに日が暮れて、月がゴールの向こう側に見えて、真っ赤だったの。いつも白いのに真っ赤で。真っ暗な空にひとりだけ真っ赤で浮かんでて、淋しそうだった。だから月に向かってボールを投げたの。でも失敗して」
「……この話の流れだと成功するけど」
「ムカついて先生の顔にボール投げつけて帰ろうと思ったら職員室の鍵が閉まって誰もいなかったの」
「普通に最悪な話ね」
「だから住所録で先生の住所を調べて、家に行ったの。そしたら家の外にバスケットゴールがあって。中から家族団らんの声が聞こえてきたの。信じられないくらいムカついて、外にあったボールを家の外にあるゴールに投げたら、網が外れてぶっ壊れて落ちたの」
「あはははは!」
「でもボールはちゃんと入ってた、はじめてゴールにボールを入れられたの。そんな感じの話?」
「全然違うわ。何を聞かされてるのか意味がわからない。全然違うけど、菜々美さんらしい」
私がそう言うと菜々美さんは私の方をみて、
「詩織さんはどうして球技をクソだと思うの?」
「凌がサッカー見るの好きで、何度かサッカーをする所に一緒に見に行ったんだけど、延々と45分もボールを蹴り続けるからトイレに行けなくて困ったの」
「それはサッカーの長さがイヤなんじゃん」
「45分走り続ける……それも長い距離よ、端から端まで。こんなことをしながらボールを蹴るなんてベストパフォーマンスが出せないんじゃないかと思って調べたら、1800年代のイギリスで疲れるけど死なない長さが45分だと分かって、その長さにしたって出てきたの。本当かどうか分からないけど、死にそうなくらい疲れた姿を見せるなんて変態よ。だからもうサッカーは見に行かないと凌に伝えたらドン引きされたの」
「あははは! 詩織さんらしい」
「でしょう?」
私は軽く笑った。
それでも私は凌と一緒にいたくて。
子どもがいない夫婦なら趣味を一緒にしないと長続きしないと周りに言われて、サッカーを何度も見に行った。
正直45分じゃなくて20分なら、戦略と人の配置と全世界を使ったマネーゲームだと思えば面白い気がするけど、トイレに行きにくい構造は現場で盛り上がるのがメインの興行上、変更したほうが良いと思う。
私は菜々美さんを見て、
「私はね、凌が好きなの」
「……うん」
「凌が菜々美さんとセックスしてないと信じたいし、菜々美さんのお腹にいるのが凌の子どもではないと、この目ではっきり見たい。私は事実しか要らない。菜々美さんのしたという話も、他の男だという話も、電気シェーバーの袋を忘れていったのがどこなのか、全部証拠が取れないから要らない。私を苛立たせる証拠になり得ないものは何一つ要らない。ただ菜々美さんのお腹にいる子どもが凌の子どもじゃなかったら、もうそれで全てを忘れる」
そう言い切ると、菜々美さんは私を見て目を丸くして、とうてい信じられない、はじめてみた珍生物に話しかけるように声を高くして、
「そんなに簡単に心を切り替えられるんですか?」
私は続ける。
「その時になってみないとわからない」
「……そりゃそうだ。素直っスね」
「現時点で出来るのがそれしかないから。可能性を残したまま貴女を手放すと、それが一生気になる。事実を知らないと、もう凌と一緒にいられない、離婚になる。だから菜々美さんの子どものDNA検査が必要なの、つまり菜々美さんが連絡取れなくなると困る。でも貴女は逃げようとしている。子どもさえ産めれば良い、もうめんどくさい、この人たちと関わりたくない。そう思ってるわね?」
「鋭っ……まあええ、そうですね、そこまで言われると認めます、そう思ってます」
「鋭くて頭が良くて先が読めて隙なんてないの。それが私だから諦めて。自分勝手で財力もあるわ」
「ひえ……」
怯えてた声を出したけれど、全くそうおもってない、怯えた声で笑っている菜々美さんの手を私は握った。
「そして、あなたを気に入っている」
「あらまあ」
「私は人生で積み重ねた知識と、それに基づいた仕事がある。でもその声も、言語センスも、歌もない。人間なんて持ってるもので生きていけばいいのよ。歌えばいい」
私がそう言うと菜々美さんは静かに首をふって、
「それは詩織さんだから言えること。歌うためには仕事して生活して安定しないと歌なんて娯楽だよ」
「菜々美さん、高校出てる?」
「出てないです。中学の時におばあちゃんが死んじゃって、そのまま中学も途中から行ってない。そのまま家無くなって、寮がある店を転々として生きてるの」
菜々美さんは平然と言った。
市役所から菜々美さんに書類の束が渡されていたんだけど、その中に中学校からの卒業証書があった。
それを見た時に、菜々美さんは中学校の卒業証書を受け取れない状態にあったんだと思った。
その状態で高校に通っていると思えない……そう気がついていた。
私はスマホをいじって画面を見せる。
「高校卒業認定試験って知ってる?」
「試験~?」
「菜々美さん、これから子どもをひとりで育てていくのよね?」
「……うん」
「リボンマートみたいな寮は子連れ不可よ。頼る人もいない状態でどうするの」
「……生活保護?」
「産後はもちろんそれでいい。でもその後は? 中卒の時点で仕事は限られる。ここから出産まで8ヶ月ある。一教科でも取りましょう。高校卒業認定試験は何年かかってもいいの、国語だけでいい、次の年に数学でいい。子どもを育てるみたいに、自分も育てなさい。そうじゃないと仕事がないわ。子どもに自分みたいな人生歩ませたいの?」
私がそう言い切ると菜々美さんは私のスマホの画面を見て、
「……中卒って言えなくて、高卒って嘘ついて仕事してた。リボンマートもそう。でも……ずっと……良くないなって思ってた」
「そう思えるなら頑張れるわ。働きながら通信高校って手もある。子どもに自分みたいな嘘ついてほしい?」
私がそう言うと菜々美さんは首をふり、
「……やだ。こんな人生絶対だめ。こんな人生を生きたら駄目だよ」
「だったら養育する立場になるあなたがまず変えないと。話しながら思ったけど、なんか私地域の相談員みたいになってきてるわね」
「ママだよ。詩織さんは、私のママ。私ママが居なかったから、正直今、怒られて嬉しい」
そう言って菜々美さんは目は甘えているのに、口元を膨らませて不満げに私を見た。
私は首を振り、
「私は自分が凌と離婚したくないの。その証拠が、菜々美さんのお腹の中に入っているだけよ」
「そんな人がここまで私のこと色々考えてくれるなんて、やっぱり私の人生そこまで悪くないかも」
「だから、うちの部屋に戻るわよ。千葉の四人部屋には入らない。私は貴女を逃がさないわ。自分のために」
「……分かった。もうこうなったらDNA検査しよう。それで詩織さんが安心するなら」
菜々美さんは金色の長い髪の毛をさらりと揺らして私のほうを見た。
菜々美さんのことをあれこれ心配しているように、たくさんの言葉を飾ったけれど、本心は本当にそれひとつ。
凌の子どもではないと、その身体で見せてほしい。私はそれだけがほしい。
そう思って説得をはじめたけど、菜々美さんが残ると決めてくれて妙に安心していた。
「高校卒業認定試験……参考書のゾーン、懐かしいわ」
ホテルから出て我が家に向かう帰り道、大きな本屋さんに寄り高校卒業認定試験の参考書を購入することにした。
私が何冊か見ていると横からそれをのぞき込んだ菜々美さんが、
「勉強は好き。知らないことを知れる」
「菜々美さんは頭がいいわ。私はバカと話すのが嫌いだけど、菜々美さんと話しててもイライラしない」
「でも先生たちには嫌われたな。おばあちゃんがクセ強でよく学校に怒鳴り込んできたから、まあそれかなと思ってるけど」
それを横で聞きながら、私は自分の両親のことを思い出していた。
私の両親はふたりとも医者で、医者の道ではなく胚培養士として働き始めた私を今も認めていない。
環境がここまで整い、知能もあるのに医者の道を選ばないなんて怠慢だとも言われた。
でも私は医療行為より、命の誕生が好きだ。本当に受精卵を美しいと思うし、そこから人が生まれることを、この世界で一番の奇跡だと思っている。
すべてが謎に満ちていて、美しく、力を感じる。
私は参考書を菜々美さんに渡して、
「怒鳴り込んできたおばあちゃんはもう居ない。ここからは菜々美さんの人生よ」
「それは強者の理論だよ。生まれた瞬間からスタートポジが人よりマイナスだった私には地獄みたいな言葉。でもここでひねくれても得がない。あ、これ詩織さんっぽい。今私詩織さんぽかった」
私が言いそうな言葉を言う菜々美さんに少し笑ってしまう。
菜々美さんは参考書を抱きしめて、
「せっかくだから、その横で生活させてもらって、その感覚、味わってみる」
「そう、学も金もないのなら私にしがみ付きなさい。そして私の自尊心を満たしなさい」
「あはははは! もう爽快だよ。ねえ、私ちょっと、入り口の所にあったレモンティー飲んでみたい。テイクアウトして?」
「飲めそうなの?」
「匂いは美味しそう。無理だったら詩織さんに押しつける」
「まあ何でも飲んでみるのはいいわ。まずは本を買いましょう」
私と菜々美さんは本屋で一番簡単そうな参考書を購入して、温かいレモンティーを買った。
菜々美さんは五月が終わり梅雨が迎えに来たような曇り空の下、それを「お、いける」と飲んだ。
酸っぱいのに甘い香りが漂う空の下で。




