参. 鬼界ヶ窟の深淵
六代は、里人の恐怖と懐疑の視線を受け止めながら、冷静に言い放った。彼の瞳には、すでに人の世の理とは隔絶した、深遠なるものが映っているかのようだった。
「その通りだ。この鬼界ヶ窟には、人の世よりはるか昔、深淵なる空からこの地に落ち、封じられた存在がいる。里の者たちが『鬼』と呼んで畏れる、真の名を『クトゥルー』という」
周囲のざわめきが、一瞬にして冷たい静寂へと変わった。里人たちは、単なる山神や妖怪の類ではなく、根源的な恐怖の対象の名を聞かされたのだ。
「クトゥルー……それは、まさか、都で密かに語られていた、『異界の神々』の伝説か?」清親は、その名に戦慄しながらも、興味を抑えきれずに尋ねた。
六代は深く頷いた。
「平家は、その力の源泉を人ならざる者たちに求めた。清盛公が日宋貿易を推し進めたのも、ただ富のためではない。海を渡り、異国の秘宝と、そして、異界の知識を求めたのだ。鬼界ヶ窟は、その知識と、『彼ら』を繋ぐための『鍵』が隠された場所だ」
その夜、里の最年長の女房が震えながら、六代に古い巻物を差し出した。それは、清盛が厳重に隠し持っていたとされる、異様な記号と図形が記された『古写本』であった。
「六代様……これは、清盛公が『海神の盟約』と呼んでいたものです。これを開く時、もはや人の道は……」
「我らに、人の道など残されていない」六代は断言した。
六代は、選ばれた数人の屈強な若者と清親を伴い、鬼界ヶ窟の最も深い洞窟へと向かった。洞窟の奥深くには、古代の巨岩に刻まれた、見る者の精神を冒涜するような、おぞましい紋様が広がっていた。
六代は巻物を広げ、そこに記された、人の喉では発音不可能な『言語』を、震えることなく唱え始めた。それは、星辰の配置が特定の軌道を描く時にのみ、異界へと通じる、召喚の儀式であった。
「Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah'nagl fhtagn...」
呪文が響き渡るにつれて、洞窟内の空気は粘着質になり、異常な重力と寒気が彼らを襲った。そして、最も深淵なる場所から、音とも振動ともつかない、巨大な『囁き』が、直接、彼らの魂に響き渡った。
それは、恐怖、狂気、そして、途方もない知識の奔流であった。
「……我らの要求は、ただ一つ」六代は、狂気に晒されながらも、鋼の意志で叫び返した。
六代がクトゥルーから得ようとするものは、単なる武力ではない。それは、源氏を滅ぼすための、三つの根源的な力であった。
ひとつ、時空を歪める『秘匿の術』
源氏の追討の手を完全に掻い潜り、鎌倉の厳重な警戒網を、まるで存在しないかのように通り抜けるための異界の技術。
ひとつ、人々の心を狂わせる『幻惑の波動』
源氏の兵士や、京の公家たちの精神に干渉し、彼らの間で疑心暗鬼と内部崩壊を引き起こすための、精神操作の力。
ひとつ、異形なる『従者』
人ならざる姿と能力を持ち、人の世の刀剣では傷つけられない、強力な『眷属』。彼らを、平家の復讐の尖兵とする。
六代は、自らの魂の一部を代償として、この邪悪な神と契約した。
儀式が終わり、六代が洞窟から出た時、彼の瞳の色は、それまでの青年の色ではなく、夜の海のような、深遠で、何もかもを見透かす色に変貌していた。
彼はもはや、ただの平家の残党ではない。
「京へ……鎌倉へ。源氏が、人の世の理で築いた全てを、人の理を超えた力で、崩壊させる」
六代の背後には、闇夜に溶け込むような異形の影が、無言で付き従っていた。




