壱. 隠里(かくれざと)
耳慣れた潮の香りが、肌を刺す寒さの中で、かえって痛々しく思えた。
ここは九州の僻地、薩摩の奥深くに隠された漁村、「潮待ちの里」。平家一門の、文字通り「残骸」たちが身を寄せ合う、仮初めの安息の地である。
里の唯一の灯りである焚き火の周りに、十数名の男女が集まっていた。彼らの顔は痩せ、衣服は粗末だが、その瞳の奥には、かつて都を治めた公達や女官たちの、誇り高き血脈が未だに燃えている。
「今年もまた、春が来る……」
一人の老いた女が、震える声で呟いた。彼女はもとは建礼門院徳子に仕えた女房であったが、今は海藻を採り、魚を捌く日々を送っている。
その言葉に、最も深く頷いたのは、里のまとめ役である青年、平維盛の末子、六代であった。
「春は、京に咲くものだ。我らの春は、壇ノ浦に沈んだ」
六代は、十代の若さにして、里の誰よりも深く、その悲劇を背負っている。父、維盛は入水し、祖父、重盛の代から続いた栄華は、弟や叔父たちと共に、あの関門の渦潮に消えたのだ。
彼は静かに立ち上がると、波打ち際へと向かった。遠く、闇に溶け込もうとする沖合から、微かな潮騒が聞こえてくる。それは、かつて数千の平家の船団を乗せて揺れた波の、遠い残響のようだった。
「兄上、今宵もまた、あの話か」
背後から声がした。六代の異母弟で、名を清親という。彼は里人の中で唯一、戦の記憶を持たない世代だ。
六代は振り返らず、ただ波を見つめたまま言った。
「清親。あれは『話』ではない。あれは『誓い』だ」
清親は口を噤んだ。里では、源氏の名を口にするだけでも罰せられる。ましてや「復讐」など、口にするのも恐ろしいほどの、禁忌の言葉であった。源氏の追討は執拗であり、里の者たちは常に、潮が引くように静かに生きることを強いられていた。
六代は潮の満ち引きを見定めているかのように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「我らは、生き延びた。命を惜しんだのではない。平家の血を、そして平家の怨念を、この世に残すために、生かされたのだ」
彼は懐から、錆びた小さな小刀を取り出した。それは、壇ノ浦で沈んだ祖父・維盛の形見である。
「源頼朝、源義経。彼らが京で泰平を享受する限り、我らの春は来ない」
六代の細い体が、決意の炎を宿したかのように震えた。
「潮待ちの里は、潮を待つ場所ではない。出航を待つ場所だ」
彼は小刀を海に向かって掲げ、闇の中で鋭い銀の光を放たせた。
「潮騒の残響が止む時、平家の怨念は、京の都を焼き尽くす炎となる。……今、動き出す。源氏への復讐を果たす、その日のために」
六代は里の人々に向かって宣言した。その静かな声には、一門の未来を背負う者の、冷たく、揺るぎない覚悟が宿っていた。
「潮待ちの里は、今日より、「再興の砦」となる」




