モヒート
ある日シュワっと、私はあなたから産まれる。ヤシガニみたいに手足をわきゃわきゃ動かしていると、疲れ切って青ざめたあなたは、私の頬をそっとつまむ。こんなにも長く一緒にいたのに、あなたの過去を驚くほど知らない。遡れば、あなただってヤシガニの一人だったはずなのに、あなたは最初からあなただったようで。
ある朝、産院を出ると、その足であなたは部屋探しを始める。駅前で手広くやっているような、陽なたの不動産屋にはどこもあしらわれて。ひとびとのにぎわいの中心から、重心から、一歩一歩遠ざかっていく。あなたの肩に食い込む、抱っこ紐の重み。歩いて、私にご飯を与えて、歩いて、私のおむつを替えて、荒れ野に出て、狼が吠えていて、戻って、歩いて、陽は残照を残すのみとなる。
もうすぐ夜が来てしまう。困った。どうしよう。どこにも帰れない。
そんな時にだけ見えてくる、浮かび上がる、アパートがある。いつもはしっかり景色に紛れ込んでいる。石ころ、草、アリ、誰も余り気に留めない。靴の中に入っても、風にそよいでいても、腕にのぼってきても、気にしない。私たちの帰る家。
ある日私はタイガーマスクに貰ったランドセルを背負っていて、クラスメイトに自分の家を知られるのが恥ずかしい、そんな時もあった。誰も見てないのに、物語の主人公が尾行を撒くように、遠回りして猫が歩くようなところを通って帰った。
「今日は遅かったな。デートか?」アパートの前でたむろってるみんなが私に言う。
みんな自分以外、何も持ち寄ることができなくて。どの部屋も生活を飾るものは何も無くて。売れるものはもう全て売ってしまったから。今はただみな、引き取り手の無いものだけを抱えて、暮らしている。嘘も売ってしまったから、嘘のない人たちだった。
ある夏、太陽の逆鱗が逆立ち、うだるような暑さがアパートに来て、理由もわからず私たちはただぐったりしている。それぞれの部屋の入口の扉は全開で、閉まらないように紐でしばってある。でもプライバシーは守りたいから、みんなすだれやのれんを掛けている。
みんな、昼には夜を、夜には秋を待ち望みながら一日一日しのいでいる。そんな私たちの毎日の楽しみ、それは夕方アイスを買いに行くことだった。
歩いて、国道沿いのドラックストア、何でもある、眺めるだけなら。輝くショーケース越しに頭を集めてみんなで熱心に見て、でもみんなの分を買うとなるとそんなに選べない。特売、氷菓、ラクトアイス、そんなところであって。アイスの値段、プラス消費税。毎日あなたが、それは私の晩ご飯代だったのだけど、机に置いていった予算内に収めようと、レジを通す前に私たちは考える。一円の位まで計算しようとするのだけど、みんな言うことが違って言い合いになる。
私はいつもチョコミントのアイスを買った。
夜、仕事から帰ったあなたはいつも、部屋の半分しか開かない窓を開いてゆっくりたばこを吸っていた。あなたの唇からこぼれる煙は夜空に昇っていくように見えて、煙と雲の区別がつかなかった私は、雲とはこう出来ている、そう思っていた。
あなたを見つめながらアイスを食べていると、あなたは私を認めて、「あんたいつもそれ齧ってんね」そう言う。
たまたま私の生まれた季節がちょうどよかった、だからなのか、誕生日の日、帰ってきたあなたのリュックにはぎっしりミントの苗が詰まっている。アパートの土地はとてもとても硬く乾いていたから、この苗を植える土地を探して私たちは家を出る。
こんな風に何かを探しながら二人で歩く、それは本当に久しぶりのことだった。
水たちが勾配に導かれるように、私たちも歩き尽いて河川敷に立っている。周りから一段低くなった展けた土地から眺める街並みは、まるで古い絵を見ているようで。
その誰も専有することのできない土地を、100円ショップで買った短いスコップで掘り返して、私はあなたと二人で幼いミントを植えた。
それから度々、時には毎日、私は熱心に河川敷に通い、ミントたちの成長を見つめた。すくすく育つその姿は、まるで私の友だちのようで。
ミントがすっかり大人びたある日、街に激しい雨が降った。真夜中、怖いくらい屋根を打つ雨音を聞きながら私は、ずっとミントたちのことを考えていた。
すっかり雨が上がったある日、私は走って河川敷に行く。がっこうの、用務員のおじいさんのように穏やかだった川は赤黒く増水して、河川敷を飲み込んでいる。
不安でいっぱいになりながら、毎日川を見守った。ある日地面が姿を現すと、ミントはすっかり無くなっていたのだった。私は泣いた。
家でも涙を流していると、そんな私を見てあなたは呆れたように言う。
「あんたね、ミントの命は土の中にあるの。こんなことじゃ無くならないの」
半信半疑のまま次の年、何事もなかったかのようにミントはその数を増やして、わさわさと揺れている。
サンタクロースのやわらかな嘘には誰よりも早く気づいていたのに、あなたがスーパーマンではないということに別に嘘もつかれてないのに私は、ずっと気づくことができなかった。あなたはなんでも出来る。すごい。そう私は信じきっていた。
私の消防士、私の警察官、私の裁判官、私の記者、私の司書、私の医師、私の銀行員、私のコック、私のパティシェ、私の小説家、私の漫才師、私の歌手、私のネイリスト、私の歯科衛生士、私のあんま師、私の三助、私のおとうさん、私のおかあさん。
20才になった日、あなたは私のバーテンダーにもなった。歩いて、二人で、しじみを買って、ラムを買って、ライムを買って、炭酸水を買って、ミントを摘む。
始め私とあなたが植えたミントは、いつの間にか河川敷の地を広く覆うほどになっている。今まで何度飲み込まれても、何度刈られても、ときが経てば、土の中にある私たちの眼からは不確かなこの命は、兆しを見せてはいつも地の上でわさわさと揺れてきたのだった。
そのちいさな貝たちが、ゆっくりゆっくり砂を出しているその隣で、私とあなたは心ゆくまで、たっぷりとモヒートを飲む。
ある日うっかり私は家を出てしまった。外に探しに出てしまった。もっと光り輝くものがあるのではないかと。
私たちは何も確認しなかった。
ある日シュワっとあなたは去った。
思い立つと私は、ミントを摘んでモヒートを作って、あなたの写真に添える。
すっきりして
爽やかで
清涼で
香り立ち
時に甘く
あなたの名を呼ぶ
喉に心地よく




