第1話 鍵のかかっていた部屋
気づけば、光はすでに天井に固定されていた。
淡い紫を帯びた光文字が、部屋の空気をうねらせていた。
“主観者 刻印済”
文字は発光しているのに、熱はない。ただ、皮膚の裏側がむず痒くなるような、ひどく知覚的な光だった。
息を吸うと、粉末状の魔素が喉に引っかかった。
この部屋には“魔法”が染み込んでいる。いや、魔法そのものが部屋を形成しているのかもしれない。
僕は床からゆっくり起き上がった。
金属ではない。木材でもない。床は、意思を持った何かの背中のように微かに脈動していた。
目の前に、淡い青の制服を着た案内役が立っていた。
名札には、カリ=ナミ=ルとあった。肩書きは「指導役」。
教師という言葉は、使われていなかった。
「お目覚めですね、主観者さま」
彼女の声には“調律済み”の感じがあった。まるで、必要な感情だけを再構成して発声しているような。
僕は喉を潤し、声を出そうとしたが、言葉の選び方を忘れていた。
その代わりに、額がうずいた。
指先を当てると、そこには刻印があった。
円の中に左右非対称な炎の紋。まるで、火種が歪んだまま閉じ込められているような形。
「ご案内いたします。あなたの認定はすでに済んでおります」
「え? ……何の、認定?」
問いは、僕の口から零れ落ちた。
「登城審査──イン=リス=ラ通過認定です」
「イン……リス……?」
「この魔導教育城の最下層をそう呼びます。あなたはすでに、主観者として分類されました」
彼女の説明は、説明のかたちをしているだけだった。
僕の理解は関係ない。
「そうなっているから、そうなのだ」という、純粋な制度だけがそこにあった。
歩き出すと、足元の床材がわずかに体温を帯びていた。
この城が生きているのか、それとも、僕がこの城の一部になったのか。
どちらでもいいのだと、城が囁いている気がした。
廊下の壁は無音だった。
けれど、何かが“話すのをやめている”気配がした。
そこには沈黙ではなく、意図的な不在があった。
曲がり角を二つ抜けたところで、扉が開いた。
そこは「模範解答儀」の会場。
大理石にも似た灰色の床には魔紋がびっしりと刻まれていた。
天井には浮遊する符字灯が揺れ、空間にわずかな低音を響かせている。
それは“正解音”と呼ばれているらしい。
生徒たちはすでに整列していた。
すべての身体が等間隔。
すべての声帯が“調律済み”。
制服の青が、誰の目にも同じ色をしていた。
正面には模範解答獣がいた。
獣といっても、その輪郭は曖昧だった。
まるで答えそのものが具現化したような、透明な形状。
「ギムム三原則は?」
「ゼイヒ、ゼイヒ、ゼイヒ」
全員が一音ずつ、寸分違わぬ抑揚で唱えた。
“正しい音”だけが、この部屋で許されている。
問いは存在しない。問いはあらかじめ、消されている。
ただひとり、列の中央にいた生徒だけが──
「ぜ……い、ひ」
その声がわずかに揺れた瞬間、床が光った。
魔紋がひとつ、彼の足元から浮き上がる。
次の瞬間、生徒は“音ごと”消えた。
誰も驚かない。
模範解答獣は、次の問いを待っている。
「次、どうぞ」
まるで何も起きなかったかのように。
「ギムム適合判定、不適合一名。記録済」
カリ=ナミ=ルは、そうだけ言った。
僕は口を開きかけた。けれど、喉が痛んだ。
あの声を聞いた瞬間から、僕の中の“問い”が引き剥がされている気がした。
──これは教育じゃない。
でも、教育“ではない”とも、言い切れない。
そんな“なにか”がここにはあった。
模範解答儀を終えると、カリ=ナミ=ルは何も言わずに歩き出した。
彼女の歩幅は一定だった。音はなく、足跡も残らなかった。
階段を下りるごとに、空気が変わっていく。
“音”が重たくなっていく。
光が、押しつぶされるように低くなる。
歩くたびに足元の石床がわずかに発光し、それが周囲の霧に吸い込まれていく。
最下層──校長室層、“カエ=ラズ”。
封印主座層と呼ばれるこの場所には、言葉を発してはいけない規則がある。
そのため、ここで話すことは「無鍵者黙示」と呼ばれていた。
扉は大きかった。
青白い金属のようなものでできていて、中央には“カエ=ラズ”の印が刻まれていた。
火と水と時間を逆流させたような文様。見ているだけで頭の奥がズキリと痛んだ。
カリ=ナミ=ルはそこで立ち止まり、僕に軽く頷いた。
その瞳は、少しだけ迷っているように見えた。
僕は、扉に手をかけた。
──回った。
鍵は、かかっていなかった。
最初から、どこにも“鍵”などなかったのだ。
扉は、重たい音もなく、ゆっくりと開いた。
中には、何もなかった。
……いや、正確には、“すでに全てが終わってしまった空間”があった。
書類も、机も、記録も、誰かの痕跡もなかった。
ただ、床にぽつんと、焦げた木片が落ちていた。
それは、誰かが何かを燃やしたあと、残ったもの。
形は不揃いで、側面に古びた文字が焼き残されていた。
僕は、思わず手に取った。
──“マッチ”。
それは、かつて僕が使っていた名だった。
記録から消された名前。呼ばれることのなかった名。
すでに存在しない“僕”の、火種。
その瞬間、どこかで火花が散った気がした。
小さく、だが確かに、音がした。
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この記録の裏側について、
少しだけ“僕自身のこと”として語ったものがあります。
noteの「燃えかすマッチ」で、検索してみてください。
書き手の火が、どうやって灯ったのか──
もし気になったら、そちらものぞいてもらえたら嬉しいです。