第五部 ラスト 『春、灰の彼方へ』
戦の世において、人は何をもって「義」と呼ぶのか。
剣を振るうことか、主君に殉ずることか、それとも生き残ることか。
『もう一つの日ノ本』は、名の通り「もしも」の歴史である。
だが、この物語で描きたかったのは奇抜な運命ではなく、戦の陰に埋もれていく人の心であった。
灰に覆われた国。
焼け野を歩く者たち。
勝者でありながら空虚を抱えた武将、奥平信昌。
勝ちも敗けも、栄光も滅びも、時の流れの前では等しく脆い。
それでも人は、守ろうとし、信じようとし、次の世へ何かを託そうとする。
本篇「春、灰の彼方へ」は、その終幕であり、同時に新たな始まりの物語でもある。
戦の後にも続く、静かな戦い――生き方を選ぶという戦いの記録として、ここに記す。
第五部 ラスト
『春、灰の彼方へ』
春の朝は、不思議なほど音が少ない。
小幡の里を包む空気は澄み、遠くの山々は淡い霞に溶けていた。冬の名残を引きずる冷気はすでに薄れ、代わりに、土と若葉の匂いが満ちている。
奥平信昌は、まだ人影のまばらな城下を歩いていた。
供も連れず、鎧もまとわず、ただ一人。
かつてなら考えられぬ姿であった。戦の世に生きる武将が、無防備に町を歩くなど。
だが今、この里には剣呑な気配がない。
それだけの血と屍の上に築かれた静寂であるとしても――確かに、平穏はあった。
道端では、早くも畑を耕す農夫の姿がある。
瓦礫の残っていた一角には、新たな家屋の骨組みが立ち上がっていた。
人は、生きる。
焼かれようと、奪われようと、何度でも。
「……強いものだ」
信昌は誰にともなく呟いた。
己の強さなど、彼らの前では取るに足らぬ。
数えきれぬ命を背負い、なお歩き続ける民こそ、この国の本当の礎なのだろう。
城門を抜け、少し外れた丘へ出る。
そこには、小さな石碑が並んでいた。
名も残らぬ兵、帰らなかった若者、行き場を失った者たち。
戦のたびに増え続けた墓標は、いまや風景の一部のように静まり返っている。
信昌は一つの石の前で足を止めた。
刻まれた名を、指でなぞる。
かつて共に笑い、怒り、戦った男。
勝利の陰で失われた、数多の声のひとつ。
「……お前の望んだ世は、これであったか」
問いかけても、答えはない。
ただ、春の風が吹き抜けるだけだった。
そのとき。
背後で、かすかな足音がした。
振り向けば、一人の若武者が立っている。
まだあどけなさを残す顔立ち。だが、その眼差しには迷いのない光が宿っていた。
「殿」
深く頭を下げる。
信昌は小さく目を細めた。
「……行くのか」
若武者は頷いた。
「はい。この地を出ます」
「戦を求めてか」
「いえ」
はっきりとした声だった。
「戦のない場所を探しに」
信昌は、わずかに息を呑んだ。
かつての自分には決して言えなかった言葉。
いや、言おうとすら思わなかった願い。
「愚かな望みと思うか」
「思いませぬ」
信昌は即答した。
「だが、険しい道だ」
「承知の上」
若武者は微笑した。
「それでも、誰かが歩かねばなりませぬ」
沈黙が落ちる。
春の光の中で、信昌はしばし彼を見つめていた。
遠い日、ある男と交わした会話が脳裏をよぎる。
――義とは、戦場の中だけにあるものではない。
ならば。
この若者の選択もまた、ひとつの義なのだろう。
「……好きに生きよ」
信昌は静かに言った。
「この国はまだ未完。
ならばお前たちの歩みが、次の形を決める」
若武者は深く、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
やがて背を向け、歩き出す。
振り返らぬその姿を、信昌は黙って見送った。
止めぬ。
引き留めぬ。
それがいまの己にできる、唯一のことだった。
丘の上に、再び静寂が戻る。
空を見上げる。
澄み渡った青の向こうに、過去の炎も、灰も見えはしない。
戦の時代は終わらぬ。
人の欲も、争いも、尽きることはない。
それでも。
それでもなお、剣を置き、別の道を選ぶ者がいる限り――
この国には、まだ希望と呼べる何かが残っている。
信昌は目を閉じた。
風が頬を撫でる。
それは、かつて戦場で味わった荒々しい風ではない。
命の気配を孕んだ、穏やかな春の風だった。
「……義か」
小さく笑う。
答えなど、生涯出ぬのかもしれぬ。
だが、それでよいのだろう。
人は迷い、悩み、それでも選び続ける。
その果てに残るものこそが、義と呼ばれるのなら。
奥平信昌は、再び歩き出した。
灰の記憶を背負ったまま。
まだ見ぬ日ノ本の彼方へ。
――もう一つの物語は、ここに静かに幕を下ろす。――
灰の国から始まった物語は、春の風の中で幕を閉じた。
だが、作中でも語られた通り、義に終わりはない。
時代が変わろうと、争いの形が変わろうと、人が選択を続ける限り、義は常に揺れ動き続ける。
奥平信昌も、遜大も、名もなき兵も、皆それぞれの義を抱えて生きた。
その正しさを裁くことは、誰にもできない。
だからこそ、この物語には明確な答えを置かなかった。
読者それぞれの中で、誰の義が心に残ったか――それが唯一の結末である。
もしまた筆を執る日が来るならば、
別の地で、別の時代で、あるいは同じ世界のどこかで、再び彼らは歩き出すだろう。
ここまで物語を共にしてくださったすべての方へ、深い感謝を…。




