第四部 灰の行方 ― 義の終わり、あるいは始まり ―
本作『もう一つの日ノ本』は、史実という太い幹から伸びた、もう一つの枝の物語である。
戦が終わってもなお消えぬ火。勝者でありながら癒えぬ空虚。守るという行為に潜む残酷さ。
それらを抱えた人々が、なおも歩みを止めなかったなら――その想像から、この物語は生まれた。
義とは何か。
刃の鋭さか、志の高さか、それとも誰かの名もなき日常を守り抜くことか。
確かな答えなど用意されていない。
ただ、灰に覆われた時代にも、確かに息づいていた「人の選択」を描きたかった。
これは英雄譚ではない。
敗者も、迷う者も、弱さを抱えた者も、すべてが時代の中で生きていたという記録である。
静かな焔の物語を、どうか最後まで見届けてほしい。
第四部 灰の行方 ― 義の終わり、あるいは始まり ―
雨は、音もなく降っていた。
山野を越え、いくつもの荒れた村を過ぎ、遜大の弟子たちは再び小幡の地へ近づいていた。湿った空気の中に漂うのは、土の匂いではない。焼け残った木と、煤と、微かな血の気配。
七瀬が足を止めた。
「……おかしい」
先に見える里の輪郭が、霞んでいる。霧ではない。灰だ。
蒼馬の胸に、嫌な確信が落ちる。
「急ぐぞ」
⸻
小幡の里は、沈黙していた。
かつて人の声が満ちていた広場は黒く焦げ、土塀は崩れ、井戸の周りには無数の足跡が刻まれている。戦ではない。襲撃。略奪。無秩序な暴力。
紗月の喉が鳴る。
「……誰が」
答える者はいない。
だが、答えはすぐ現れた。
⸻
瓦礫の陰から、微かな呻き。
蒼馬は駆け寄る。
倒れていたのは、見知った顔だった。小幡の足軽――若い兵だ。胸を押さえ、血に濡れ、辛うじて息を繋いでいる。
「何があった」
兵は震える唇で言葉を絞る。
「……兵では……ない」
「何?」
「旗も……名も……ない……」
七瀬が息を呑む。
「野盗か」
兵は首を振る。
「違う……もっと……」
その言葉は、最後まで続かなかった。
⸻
静寂の向こうから、足音。
重く、揃い、だがどの家の紋も背負わぬ鎧の群れ。
蒼馬の目が細まる。
「……傭兵」
紗月が低く呟く。
「国でも家でもなく、銭で動く軍」
この時代の、新しい暴力。
⸻
敵は言葉なく迫った。
理も義もない。ただ任務としての殺意。
七瀬が歯を食いしばる。
「一番、性質が悪ぃ」
剣戟が、灰を巻き上げる。
⸻
数は圧倒的だった。
弟子たちは奮戦する。だが、違和があった。
敵は怯まない。怒らない。恐れない。
まるで人ではなく、機構。
蒼馬の脳裏に、師の声が蘇る。
――義なき刃は、止まらぬ。
⸻
その時だった。
灰色の戦場に、一筋の焔が走る。
敵の只中を裂く、眩い光。
七瀬が目を見開いた。
「……殿?」
⸻
そこに立っていたのは、奥平信昌だった。
鎧は煤に汚れ、息は荒く、だがその眼には確かな光が宿っている。
「遅れたな」
短い言葉。
だが、その背にある疲労と覚悟は重い。
⸻
「なぜここに」
蒼馬が問う。
信昌は静かに答えた。
「守れなかったからだ」
その声に、虚勢はない。
「守れぬ義など、義ではない」
⸻
再び戦いが始まる。
今度は、意志を持つ焔があった。
信昌の剣は、怒りではなく責任に燃えていた。
弟子たちは悟る。
この男は、まだ折れていない。
⸻
長い戦の果て。
最後の敵が崩れ落ちたとき、雨は止んでいた。
だが、里は戻らない。
焼けた現実だけが残る。
⸻
七瀬が呟いた。
「……これで終わりか」
信昌は首を振る。
「違う」
彼の視線は、遠く荒野を向いていた。
「ここから始まる」
⸻
蒼馬が問う。
「何が始まる」
信昌の答えは、あまりにも静かだった。
「義を、もう一度定め直す時代だ」
⸻
誰も言葉を発せなかった。
義は戦で示されるものではない。
だが戦が消えたわけでもない。
では、何をもって貫くのか。
⸻
灰に覆われた大地の上。
焔は消えていなかった。
ただ、形を変えようとしていた。
終わりの焔ではない。
問いとしての焔。
生き方としての焔。
⸻
遜大の弟子たちは歩き出す。
信昌とともに。
答えなき時代へ。
新しい「義」を探す旅へ。
灰の向こうへ。
ここまで読んでいただき、心より感謝申し上げる。
『もう一つの日ノ本』は、戦の物語でありながら、できる限り戦そのものを描かぬよう意識した。
なぜなら本当に書きたかったのは、「戦の後」に残された人々の姿だったからである。
歴史は常に勝敗で語られる。
だが、その陰には語られぬ選択や、記されぬ痛みが無数に存在する。
奥平信昌も、遜大の弟子たちも、決して万能の存在ではない。
彼らは迷い、悩み、時に間違いながら、それでも前へ進もうとした。
義とは、完成された理念ではなく、揺れ続ける問いなのかもしれない。
時代が変わっても、人が生きる限り、その問いは消えない。
もし本作の中に、何か一つでも心に残る焔があったなら、作者としてこれ以上の喜びはない。




