第三部 火なき焔
人の世において、最も残酷なものは何か――
戦か、飢えか、あるいは裏切りか。
だが、長き乱世を眺めておりますと、もう一つの答えが浮かび上がります。
それは「時」でございます。
時は英雄を塵に変え、誓いを風化させ、
いかなる義も、いずれは試練へと変えてしまう。
『もう一つの日ノ本』第三部。
ここに描かれるのは、旅立った遜大の弟子たちが初めて知る現実。
理想だけでは人は救えず、
剣だけでは世は変えられぬという、あまりにも重い事実。
灰の国を離れた彼らの前に広がるのは、
新たな戦、新たな欲、新たな絶望。
それでも歩みを止めぬ者たちの物語を、
どうか静かに見届けていただきたく候。
春の風は冷たく、乾いていた。
小幡の里を離れてから数日。遜大の弟子たちは、人気の薄い街道を黙々と進んでいた。山の端に残る雪はまだ白く、だが里へ吹き下ろす風には、どこか血の匂いにも似た荒んだ気配が混じっている。
先頭を歩く蒼馬は、一度も振り返らなかった。
師の墓を背にした瞬間から、彼の中で何かが固まっていた。
「……妙だな」
沈黙を破ったのは七瀬だった。
「村を抜けるたび、同じ顔を見る」
「同じ?」
紗月が問う。
「飢えた顔だよ。戦が終わったってのに」
確かに、どの村も疲弊していた。田は荒れ、井戸は浅く、子供の泣き声すら弱々しい。戦火が去ったはずの地に、安堵の色はない。
蒼馬が低く答える。
「戦が消えたのではない」
「……形を変えた、か」
誰もが師の言葉を思い出していた。
⸻
やがて一行は、小さな城下町へと辿り着く。
門前から漂う喧騒は、異様だった。活気とは違う。焦燥と欲望が混じり合った、濁った熱気。
通りには商人が溢れ、浪人がたむろし、銭を巡る怒号が絶えない。武具屋よりも高利貸しの店が賑わい、人の列は米蔵ではなく帳場へ伸びていた。
七瀬が顔をしかめる。
「……なんだ、ここは」
「平和の都よ」
紗月の声には皮肉が滲む。
「刀の代わりに銭で斬り合う場所」
その言葉を裏付ける光景が、すぐ目に飛び込んできた。
町の一角。数人の農民が跪き、役人に詰め寄られている。
「払えぬ、だと?」
役人の声音は冷え切っていた。
「ならば差し出せ。労役か、娘か」
群衆は目を逸らす。誰も止めない。止められない。
蒼馬の足が止まった。
「……やめろ」
その一言は、風を裂いた。
役人がゆっくりと振り向く。
「何者だ」
「通りすがりだ」
「ならば通り過ぎよ。これは法だ」
蒼馬の目が細くなる。
「法とは、民を生かすためにある」
「生かす? 違うな」
役人は嗤った。
「従わせるためにある」
⸻
抜刀は、一瞬だった。
護衛の侍たちが前へ出る。だがその動きは鈍く、どこか粗雑だった。
七瀬が応じる。
「……軽いな」
斬り結んだ刃の感触に、違和を覚える。
「雇われだ」
紗月が即座に見抜いた。
「銭で集めた刃」
戦場で鍛えられた武士ではない。金で動く兵。忠義なき戦力。
だが数は多い。
剣戟が響き、悲鳴が上がり、町は混乱へと沈んでいく。
⸻
やがて城から兵が出た。
統制された足音。鎧の擦れる音。圧倒的な現実。
蒼馬が即断する。
「退くぞ」
「なっ……!」
七瀬が叫ぶ。
「ここで退けば、あの連中は――」
「巻き込む気か」
蒼馬の声は厳しかった。
「この場で戦えば、民が死ぬ」
歯噛みしながらも、弟子たちは従った。
背後に残る泣き声を、振り切るように。
⸻
夜。
焔は小さく、揺れていた。
誰もが口を閉ざしていたが、やがて七瀬が拳を地へ叩きつけた。
「……結局、何も変わらねぇ」
「変わっている」
蒼馬が静かに返す。
「だからこそ、我らは勝てぬ」
敵が明確であれば斬れる。だが、秩序や制度は斬れない。
刃では届かぬ戦。
⸻
紗月が呟いた。
「師は……この時代を見ていたのか」
風が吹いた。
焔が揺らぐ。
その瞬間、誰もが錯覚した。
背後に、あの男が立っているかのような気配を。
⸻
翌朝。
弟子たちは再び歩き出す。
敗北を抱えたまま。
答えなき道へ。
火なき焔を胸に。
おまけ
春の兆しが差し込む頃。
遜大の弟子たちは、小幡の里を後にしていた。
先頭を歩くのは、最年長の門弟・蒼馬。
寡黙で、遜大の剣を最も忠実に継いだ男である。
「……妙だな」
呟いたのは、隣を歩く若き門弟・七瀬だった。
「何がだ」
「戦が減ったはずなのに、人の顔が明るくねぇ」
街道沿いの村々は確かに静かだった。
だが、その静けさは平穏ではない。
田畑は荒れ、笑い声は消え、
人々はどこか怯えた目で彼らを見ていた。
「戦が消えたのではない」
後ろから声が落ちる。
女門弟・紗月である。
「形を変えただけだ」
その言葉の意味を、彼らはすぐに知ることとなる。
⸻
辿り着いた城下町は、異様な熱気に包まれていた。
刀ではなく銭。
血ではなく契約。
商人たちが声を張り上げ、浪人が群れ、
力なき者が力ある者に搾り取られている。
「……戦より酷ぇな」
七瀬が顔を歪めた。
町の一角では、痩せ細った農民たちが跪いていた。
年貢の取り立てである。
役人の声は冷たかった。
「払えぬ? ならば娘を差し出せ」
瞬間、空気が凍る。
蒼馬の足が止まった。
「やめろ」
低く、しかしはっきりとした声。
役人が振り向く。
「何者だ」
「通りすがりの、ただの亡霊だ」
遜大の弟子――その名は伏せられた。
だが、次の瞬間には剣が抜かれていた。
⸻
騒ぎは一瞬で広がった。
役人の背後に控えていた護衛の侍たち。
剣戟。怒号。悲鳴。
弟子たちの剣は鋭かった。
だが、彼らの胸にあったのは違和感だった。
「……こいつら、武士じゃねぇ」
「雇われだ」
紗月が冷静に見抜く。
「銭で動く刃……か」
戦は終わっていなかった。
ただ、誰のための戦かが曖昧になっただけだった。
⸻
やがて増援が現れる。
城の兵。
蒼馬は舌打ちした。
「退くぞ」
「見捨てるのか!」
七瀬が叫ぶ。
蒼馬の目は揺るがなかった。
「違う。ここで戦えば、守るべき民を巻き込む」
歯噛みしながらも、弟子たちは退いた。
背後で泣き崩れる農民たちの姿を、振り返ることもできず。
⸻
その夜。
野営の焔は小さかった。
誰も口を開かぬ。
やがて七瀬が吐き捨てる。
「……何も変わってねぇじゃねぇか」
「変わっている」
蒼馬が静かに言う。
「だからこそ厄介なのだ」
遜大は言っていた。
“最も厄介な敵は、刀を抜かぬ敵だ”
権力。銭。恐怖。
刃なき戦。
⸻
紗月が空を見上げた。
「師は……これを知っていたのか」
誰も答えない。
だが、風が吹いた。
焔が揺れる。
まるで、既にいないはずの男の気配のように。
第三部は、敗北の章でございます。
弟子たちは強い。
だが世の理は、剣の強さだけでは崩れない。
敵なき戦ほど恐ろしいものはなく、
正義なき秩序ほど人を追い詰めるものはない。
遜大の教えは、果たしてこの時代に通じるのか。
それとも、彼らは新たな義を見出さねばならぬのか。
旅はまだ半ば。
焔なき火の中で、彼らは何を選ぶのか。
次なる部にて、さらなる転機が訪れます。
またお付き合いいただければ、これ以上の喜びはございません。




