第二部 風の帰還 ― 遜大の弟子たちの旅立ち ―
戦が終われば、すべてが静まる――
人はそう信じたがるものです。
だが、刃が収まり、狼煙が消えた後にも、なお消えぬものがある。
それは、地に残る焼け跡ではなく、人の胸に降り積もる“灰”。
この物語『もう一つの日ノ本』は、勝者でも敗者でもない者たちの物語。
名を歴史に刻まぬ者たちが、それでも己の義を探し、歩き続けた記録でございます。
第二部にて描かれるのは、かつて“鬼神”と恐れられた男、梨鍋遜大の弟子たち。
師を失い、帰る場所をなくし、それでも前へ進むしかなかった者たちの姿。
風は目に見えぬ。
だが確かに吹き、誰の上にも等しく流れる。
果たして彼らは何を見、何を選ぶのか。
これは、剣の物語であると同時に、生き方の物語でございます。
しばし、風の行方にお付き合い願えれば幸い。
第二部 風の帰還 ― 遜大の弟子たちの旅立ち ―
小幡の里に春が来ても、空の色はどこか淡く、冬の名残を引きずっていた。
雪解けの水は田を潤し、山々は新たな芽吹きを見せている。だが、人の心だけが、未だ戦の灰を払いきれずにいた。
里外れの丘。一本の老松の下に、三つの影が並んでいた。
「……師は、最後まで笑っておられたな。」
最年長の男が呟く。名は蒼馬。遜大の筆頭弟子にして、かつては最も苛烈な剣を振るった男である。深い傷の走る頬が、静かな風に撫でられていた。
「笑っていたというより、諦めていたのでは?」
そう返したのは、女剣士の志乃。細身の太刀を背負い、眼差しは鋭い。だがその奥には、消えぬ迷いが宿っている。
「違う。」
三人目の若者が首を振った。名を**蓮太**という。まだ少年の面影を残す遜大の末弟子。彼だけは、頑なな確信を抱いていた。
「師は、諦めるような人ではなかった。」
沈黙が落ちる。
丘を越える風はやわらかい。だが三人の胸に吹く風は、未だ行き場を見つけていなかった。
遜大――梨鍋遜大。
戦場で“鬼神”と恐れられ、晩年には“義を語る剣”と呼ばれた男。
その最期を見届けたのは、この三人だけだった。
「師の遺言……覚えているな。」
蒼馬の問いに、二人は頷く。
――「風になれ」
それだけだった。
意味を問う暇もなく、遜大は静かに息を引き取った。
「風、か……」
志乃は空を仰ぐ。雲は高く、流れは速い。
「留まらず、縛られず、ただ在るもの。……そういう意味でしょうか。」
「あるいは。」
蒼馬が続ける。
「どこへでも吹き、誰にも止められぬもの、か。」
蓮太は拳を握った。
「俺は、探したい。師が言った“義の行き先”を。」
蒼馬はわずかに目を細める。
「探して、どうする。」
「継ぐんです。」
即答だった。
「剣じゃない。生き方を。」
その言葉に、志乃の表情が揺れる。
「……甘いわね。」
だが声音はどこか優しい。
「義で腹は膨れない。理想で人は守れない。」
「それでも。」
蓮太は退かない。
「師は最後に、それを俺たちに託した。」
風が吹いた。老松の枝が鳴る。
蒼馬は長く黙したのち、ふっと笑った。
「……よかろう。」
低く、だが確かな声。
「ならば風になれ。だが覚えておけ。風は自由だが、時に人を傷つける。」
志乃もまた、小さく息を吐いた。
「結局、行くしかないのね。」
三人の視線が交わる。
「行き先は?」
志乃の問いに、蒼馬が答える。
「北だ。」
「北?」
「武田の残滓、未だ燻る。戦は終わっていない。」
蓮太の胸が高鳴る。
「……戦いに行くのか?」
蒼馬は首を振った。
「違う。」
静かな否定。
「戦を終わらせに行く。」
その言葉は、かつての彼なら決して口にしなかったものだった。
志乃が目を細める。
「変わったわね、蒼馬。」
「変えられたのだ。」
即答だった。
「遜大という男にな。」
丘を下る三人の背を、春の風が押す。
その姿は、確かに“帰還”ではなく、“旅立ち”のそれだった。
⸻
小幡城。
奥平信昌は、城門へ向かう三つの影を遠目に見ていた。
「行かせるのですか。」
家老・山中宗衛門が問う。
「止められぬ。」
信昌は短く答えた。
「彼らはもはや、誰の家臣でもない。」
「危険ですぞ。」
「承知の上だ。」
信昌の眼差しは静かだった。
「だが……あの者たちは、遜大の弟子だ。」
宗衛門は言葉を失う。
「義の形を知る者たちよ。」
風が城下を渡る。旗が揺れる。
「この乱世に必要なのは、剣ではないのかもしれぬな……」
信昌の呟きは、誰にも届かぬまま消えた。
⸻
北へ向かう山道。
蓮太は振り返る。
「未練か。」
蒼馬の声。
「……少しだけ。」
「それでいい。」
志乃が言う。
「未練のない者に、義は語れない。」
蓮太は小さく笑った。
「師なら、何と言うだろうな。」
蒼馬は空を見上げる。
「決まっている。」
風が吹く。
「――走れ、小僧。風は止まらぬ。」
三人は歩を進める。
灰の国を抜け、新たな戦の気配漂う地へ。
それは、遜大の意志を継ぐ者たちの――
静かで、果てしない旅の始まりだった。
遜大の弟子たちは旅立ちました。
敵を討つためでも、名を上げるためでもなく、
ただ“戦を終わらせる”という、あまりにも曖昧で、あまりにも重い志を抱いて。
乱世において義を語ることは容易ではありません。
力なき義は踏みにじられ、剣なき理想は嘲笑される。
それでもなお、人は問い続ける。
何のために生き、何を守るのか、と。
この第二部は、言わば「始まりの物語」でございます。
帰還ではなく、出発。答えではなく、問い。
彼らが辿る道は、決して平坦ではなく、
むしろさらなる矛盾と苦悩へと続いていくことでしょう。
風とは、止まらぬもの。
そして物語もまた、止まらぬもの。
次なる章にて、再び彼らの行く末をお届けできればと思います。
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。




