表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もう一つの〇〇  作者: マーたん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/61

もう一つの日ノ本 ― 義を継ぐ者たち ―

戦国の世は、勝者の影にこそ真の義が宿る――。

 『もう一つの長篠』、その幕間として描かれるのが本篇「灰の国にて」である。

 長篠の戦いで名を馳せた奥平信昌。しかし彼の胸に残ったのは、勝利の誇りではなく、無数の亡骸の記憶だった。

 武田を討った後も続く、飢えと悲しみの日々。

 人を生かす義とは何か。戦の果てに何を守るのか。

 本作は、灰に覆われた国でなお人の道を探す者たちの記録である。

第一部 灰の国にて




 甲斐の山々を越えた西の果て、小幡の里。

 長篠の戦いから幾月。あの血風の記憶が、なお人々の夢を汚していた。


 焼けた野はまだ黒く、風が吹くたびに灰が舞う。

 それでも人々は鍬を振るい、黙々と生きようとしていた。

 戦が終われば、また始まる。生きるための戦が――。


 奥平信昌は、崩れかけた土塀の上から、沈む陽を見つめていた。

 頬を打つ風に、焦げた木と血の匂いが混ざっている。

 あの日、長篠の地で見た死の色が、今も瞼の裏から消えぬ。


 「殿、また避難民が――」

 背後から声をかけたのは、家老の山中宗衛門であった。

 顔の半分を火傷に覆われながらも、今もなお主君に忠義を尽くす男だ。


 信昌は振り返り、静かにうなずく。

 「受け入れよ。だが、飢えをしのぐ穀も限られている。冬までは……もたぬかもしれん。」


 宗衛門は、唇をかみ締めるようにして答えた。

 「それでも、見捨てることはできませぬ。殿も、それをお望みではないでしょう。」


 信昌は目を閉じた。

 遠く、かつての主・今川義元の最期を思い出す。

 “義は、剣の先ではなく、人の心に宿る”――あの遺言めいた言葉を。


 「……そうだな。見捨てることは、俺にはできぬ。」


 それが奥平信昌という男の“弱さ”であり、“義”でもあった。



 夜が来た。

 冷たい霧が山から降り、小幡の村を包む。

 飢えた犬の遠吠えが響く中、信昌は灯火を掲げ、避難民の中を歩いていた。


 囲炉裏のそばで、母が子に粥を分け与えている。

 その粥は、麦粒が数粒浮くだけのものだった。

 「殿さま……ありがとうございます」と、母が涙ぐむ。


 信昌は首を振った。

 「礼を言うのは、まだ早い。わしらがこの冬を越せてこそ、恩も義も語れる。」


 彼の言葉に、宗衛門が静かに笑った。

 「相変わらずお優しい。ですが、民はその優しさに救われております。」


 「救いか……」

 信昌は小さくつぶやいた。

 「戦で死んだ者には、もう救いはない。残された者が生きねば、意味がない。」


 その声には、どこか痛みが混じっていた。



 翌朝。

 山々の向こうから、甲斐の残党が接近しているという報せが届く。

 かつて武田の旗を掲げた者たちが、飢えをしのぐために略奪を始めたのだ。


 「殿、我らも備えねば!」と宗衛門が叫ぶ。


 信昌は静かに頷いた。

 「剣を取るのはやむを得ぬ。だが、憎しみのためではなく、生きるために振るえ。」


 その声は、戦国の修羅を越えた者の静けさを帯びていた。



 その夜、小幡城の一隅で、若き侍たちが剣を磨いていた。

 彼らは皆、遜大りなん・そんだいという一人の師の弟子でもあった。

 戦を嫌いながらも、義のために刃を持つ――その精神を受け継いでいる。


 「遜大殿がここにおられたら、なんと言うでしょうね」

 若者の一人がつぶやくと、信昌は小さく微笑んだ。


 「“人を斬るより、人を活かせ”――きっとそう言うだろう。」


 焚火が、彼らの顔を赤く照らした。

 炎の揺らめきの中、信昌はかつての友・遜大の背を思い出す。

 武に生き、義に殉じたあの男の声が、今も胸の奥で響いている。



 やがて、冬が来た。

 雪が降り、飢えた民が次々と倒れる。

 しかし、小幡の者たちは誰も諦めなかった。


 信昌は自ら山に入り、獣を追った。

 血にまみれながらも、村に肉を運ぶ。

 その姿を見て、子どもたちは“灰の国の殿”と呼んだ。


 ある夜、宗衛門がそっと尋ねた。

 「殿……義とは、なんでございましょう。」


 信昌は焚火を見つめたまま答えた。

 「義とは……己を責め続けることだ。」


 宗衛門が目を見張る。


 「人を責めず、運を責めず、己を責める。

  それでも立ち上がる。

  それが、“義”の形なのだと思う。」


 外では雪が静かに降り積もっていた。

 小幡の里は、白い闇に包まれながらも、確かに生きていた。



 数年後――。

 春の風が再び山を渡るころ、小幡の村には緑が戻った。

 民の笑い声が絶えず、子どもたちは剣の稽古をしている。

 その剣には、誰をも傷つけぬよう祈りが込められていた。


 信昌は丘の上で、遠くを見ていた。

 あの日の灰は、もう風に散っていた。


 「遜大よ……見ておるか。おぬしの“義”は、ここに息づいておるぞ。」


 風が頬を撫でた。

 それはまるで、かつての友が微笑んでいるかのようであった。

灰の降る小幡の里で、信昌が見出したもの――それは“義は人に宿る”という静かな真理だった。

 剣に生き、剣を越えた男・遜大の精神は、信昌の中で生き続ける。

 そしてその火は、弟子たちへ、民へ、子どもたちへと受け継がれていく。


 『もう一つの長篠』という名の通り、この物語は「もしも」というもう一つのふみである。

 だが、その“もしも”の中にこそ、我らの心が求める真実が潜んでいるのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ