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もう一つの〇〇  作者: マーたん


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「義に殉ず――井伊直盛、最後の戦場」

「井伊直盛」登場エピソード



本文:


夏が来る前の空は、どこか重苦しい。

雲一つない晴天。風はなく、地は乾いている。

それでも軍勢は進む。幾百の足音が大地を踏み鳴らし、槍が太陽を弾いて光る。

その先頭に、井伊直盛はいた。


井伊家、二十二代目当主。

代々今川に仕え、忠節を誓い、戦功を重ねてきた家柄。

だが、今目指すこの地――「桶狭間」では、その忠義の結末が待っていた。


「義元様……この道は、正しきや否や」

誰に問うでもなく、直盛は口を開く。


馬上の姿は凛としている。

緋色の甲冑に身を包み、兜には家伝の朱の房。

家臣たちはその背に従い、怯える様子も見せない。

彼らは知っていた。直盛が退くことはないことを。


「直盛様」

家老・鈴木三郎が横に並び、声をかけた。

「前方の丘にて、不審な煙あり。尾張勢が待ち伏せしているやもしれませぬ」

「……そうか」

直盛は空を見上げる。

空は青い。あまりにも、静かで、無垢なほどに。


「義元公の命に従い、我らは進軍する。退けば、士道に悖る。

……この赤備えは、決して引かぬ」

「はっ」


桶狭間――それは、戦ではない。

もはや、天が定めし「罰」だった。



◆ 一週間前・駿府城


義元の私室は静かだった。

扇で頬を仰ぎながら、義元は文机の前で一枚の書状をじっと見つめていた。

直盛はその前に跪いていた。


「尾張を攻める、と……」

「うむ」

義元の目はやや濁っていた。

だが、その声音には迷いがなかった。


「三河は我が手にあり。織田信長は若僧にすぎぬ。

この好機を逃せば、再び尾張を窺う機はない」

「ですが、殿……」

直盛は言葉を選びつつ、進言する。

「織田方は地の利に明るく、兵は数に劣れど士気は高いとか。

しかも、殿自らご出馬なさるとは……」


義元は、筆を置いた。

「直盛。そなたは古き者だな」

「は……」

「そなたは、義を貫く。それゆえ、我に仕え、我を案じ、我が身を気遣う。

だが――」

義元は立ち上がり、部屋の障子を開けた。外には、駿河の山並みが広がる。


「時代は、忠義を持ってしても変わらぬ」

「……」

「ならば、我が身を賭けて、天下を睨まねばならぬ。

そなたは、それでも我に従うか?」


直盛は、一度だけ目を伏せ、深く、深く頭を垂れた。


「我が命、この赤備えとともに、義元公に捧げ申す」



◆ 戦場――桶狭間


雨が降るはずの季節だったが、その日は降らなかった。

空は晴れ、兵の息づかいすら聞こえるほど、静けさがあった。


「織田勢、山裾より接近!」

伝令の叫びが戦列を駆ける。

直盛は馬を駆る。


「怯むな! 今川の旗を掲げよ! 我らは主君の盾だ!」


火がついたように、戦が始まった。

矢が飛び、槍が交錯し、太陽が血を照らす。


赤備えの井伊軍は、先陣に立っていた。

その鮮烈な赤は、敵に恐れられるはずだった。

だが、今は――真っ先に狙われる色だった。


「囲まれております!」

「構わぬ、進め!」


乱戦の中、直盛は自ら馬を下り、地を蹴って突撃する。

剣を抜き、兵を斬り伏せる。

次の瞬間、左肩に槍が突き刺さる。

だが、それでも直盛は倒れなかった。


「道を開けええぇっ!」


部下たちが命を張って道を作り、直盛は前へ進む。

目指すは、主君・義元の本陣。


だが、――遅かった。


本陣は崩れ、旗は倒れ、戦は――終わっていた。



◆ 義元の骸の前で


「……義元公……」


主の亡骸の前に、直盛は膝をついた。

兜が外れ、髪が乱れていた。

今川の若き獅子は、無残な姿で横たわっていた。


「無念……にございますか……」

直盛は、義元の顔に手を当てた。

冷たい。まだ戦が終わって間もないのに、こんなにも……。


「この命、殿のために……」


直盛は、ゆっくりと立ち上がった。

彼の周囲には、もはや十人もいない。


「井伊直盛、ここに討ち死にいたす!」


突撃。


もはや意味のない突撃。

だが、それは直盛なりの“けじめ”だった。


敵兵を数人斬ったところで、背後から槍が突き刺さる。


血が噴き出す。

視界が揺れる。


だが、直盛は倒れない。


「まだ……終わらん……」


今川家の忠義は、ここで潰えるわけにはいかぬ。


そう思ったときだった。


「井伊、やめろ!」


声が飛ぶ。


その声に、直盛は振り返る。

見慣れた顔。かつて義元の下にいた、浪人・梨鍋遜大の姿だった。



◆ 再会――そして最期


「お前……なぜここに……」

「俺は、もう今川に属していない」

遜大は剣を抜き、直盛の前に立つ。


「これ以上の死を増やすな。義元公はもういない」

「……貴様が、義元公を斬ったと聞いた」

「……ああ」


直盛の眼が、静かに揺れた。


「ならば……斬られに来た」

「バカな真似はやめろ!」

「いや……これが、我が義だ」


直盛は、自ら兜を外し、血に濡れた顔をさらす。


「義元公の死を看取れたのは、貴様か……。それだけで、もうよい」


遜大は剣を構えた。だが、その剣は震えていた。


「俺は……お前を殺したくない」

「だが、俺は死にに来た。違うな……“生き様”を貫きに来たのだ」


その言葉とともに、直盛は突撃する。


刃が交差する――


だが、次の瞬間。


遜大の剣は、直盛の胸を貫いていた。



◆ 終焉


「……遜大……」

「直盛……!」


「俺の義は……これで、貫けた……か……?」


遜大は何も言えなかった。

直盛の胸元に手を添えたまま、彼の最後の息を感じていた。


直盛の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「……井伊の……名を、頼む……」


それきり、直盛は動かなかった。


緋色の鎧が、地に崩れる。

血に染まり、しかし、静かだった。



◆ エピローグ


後日。

遜大は、一振りの槍を携え、遠江の小さな祠に佇んでいた。


「お前の義は、俺の胸に刺さったままだ」

彼は、静かに槍を地に刺し、深く頭を下げた。


「……義を捨てぬ男よ。安らかに眠れ」


吹き抜ける風の中、赤い布がはためいていた。


それは、井伊の赤備えの一部だった。






次回も楽しみに

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