『影と策謀 ―佐久間信盛と明智光秀、交わらぬ忠義―』
佐久間信盛――
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天正三年、京・本能寺の冬は、例年にないほど冷え込んでいた。
佐久間信盛は、庭に咲き残った白梅をじっと見ていた。
その眼差しには、かつて桶狭間で見た霧の白さが重なっていた。
彼はすでに織田信長に追放され、京郊外での隠居を余儀なくされていた。
「……殿は、相変わらずすべてを呑み込み、そして棄てるか」
声に出さず、唇だけが動いた。
そんなある日、一通の文が届いた。差出人は、明智光秀。
今、信長の政権で重きを成す智将である。
『佐久間殿。かつて殿を支えたその眼で、今の政をどうご覧か。
政治とは、ただ戦に勝つだけではなし得ませぬ。
機会あらば、一献交わしとうございます。』
文面は礼儀正しく、しかしどこか挑むような匂いがあった。
信盛は、ただ一言だけ返した。
『酒などより、影のほうが深く酌み交わせましょう。』
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日を改めて、二人は洛外の古寺で対面した。
信盛は灰色の羽織をまとい、光秀は紫の直垂に控えめな裃姿であった。
「して、なぜ私に会おうと?」
信盛の問いに、光秀は一瞬だけ笑みを浮かべる。
だがその目は、冬の夜のように冷えていた。
「殿の下にて忠義を尽くした者が、皆散っていく。
佐久間殿。あなたはそれでも、信長様を憎まぬのか?」
「……憎まぬ。あの御方は、天を目指していた。それだけのことだ」
信盛は茶を一口すすった。
「私は地を這い、殿の背を守った。だが殿は、誰の背も見てなどおらん」
光秀は目を伏せた。
「ならば……あなたは、殿の行く末に疑念を抱かぬのか?
朝廷を軽んじ、仏を焼き払い、民に重税を課す。
あなたの“忠義”とは、そのような暴君にも通じるのか?」
その言葉に、信盛はふと立ち上がり、柱を背にした。
「違う。私は“人”に忠を捧いだのではない。“焔”に捧げたのだ。
織田信長という、混沌に差す光。善悪ではない。歴史を燃やす男に――」
光秀は、握りしめた拳を緩めた。
「……なるほど。ならば私は、“火を鎮める者”となろう。
この国を燃やし尽くされる前に、私はその焔を断たねばならぬ」
信盛の目が一瞬、鋭く細められる。
「その覚悟があるのなら、もう語る言葉はない。
お前の“策謀”は、私の“影”とは交わらぬ」
光秀は静かに立ち上がった。
「交わらずとも、共に信長を見上げた者として、せめて――」
「誤解するな、明智殿。お前は“見上げた”のではない。
“見限った”のだ。それが、お前の忠義の限界よ」
光秀の瞳に、ほんの一瞬、怒りと痛みがよぎる。
だが、すぐに消えた。
「いずれ、歴史が我らを裁くでしょう」
「いや。歴史など、風に書かれた砂文字よ。
殿がすべてを燃やし尽くせば、何も残らぬ」
二人の男は、互いに一礼し、何も言わずに寺を去った。
その背を、冬の風が冷たく吹き抜けていった。
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天正十年六月、本能寺の変。
織田信長、討死。
そして同月、山崎の戦にて、明智光秀、敗死。
佐久間信盛は、その報を京の寺で静かに受け取った。
ただ、誰にも聞かれぬ声で、こう呟いた。
「影も、策も、焼けたか。――残ったのは灰と、夢の残り火のみ」
白梅が、再び風に揺れていた。
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(了)
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『灰の霧に、名もなく ―佐久間信盛・桶狭間回想録―』
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天正十年六月。
本能寺は炎に包まれ、天下人・織田信長は討たれた。
その報せを受け、山科の一角に隠棲していた佐久間信盛は、静かに箪笥の引き出しから、古びた黒革の太刀袋を取り出す。
中に納められていたのは――
「……あのときの、焔か」
彼の声は低く、湿っていた。
袋から現れたのは、かつての戦、桶狭間の戦いで佩いていた脇差。
傷が深く、刃の冴えはもはやない。だが、その切先には忘れえぬものが刻まれていた。
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――永禄三年五月十九日。
濃霧が尾張の谷を覆っていた。
織田信長は千余の兵を率い、今川義元の大軍二万五千に挑もうとしていた。
「殿、この策は……」
誰もが唇を噛んだ。
だが信長は、笑っていた。まるで祭りの朝のように、目を輝かせていた。
「戦は“数”ではない。“機”を見よ、信盛」
そう言われた佐久間信盛は、黙って頷いた。
彼に与えられたのは、信長本隊の背後を守る影の部隊。
前へは出ぬ。勝ち名乗りも挙げぬ。
だが、もし伏兵があれば、真っ先に命を散らす――その役だった。
「影の盾、か……我が役目らしいな」
そのとき信盛の隣にいた若き兵が、震える手で握る槍を見せた。
「佐久間様……俺たち、本当に、生きて帰れるんでしょうか」
信盛はただ、柄に巻いた赤い布をそっと見せた。
それは、戦のたびに亡き弟の形見として巻いていたもの。
「帰れるさ。お前たちは、守るべき“背”がある限りな」
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やがて、霧の中を駆ける敵の一隊を発見。
今川軍の別働隊――信長の後方を突こうと、動き出していた。
「……来たか」
信盛は、静かに声を上げた。
「構えろ! 殿の背を斬らせるな! 一歩も通すな!!」
地鳴りのような鬨の声が、谷に響く。
剣戟。血。叫び。
信盛の脇差は、三人目の敵兵を斬ったところで刃こぼれを起こした。
だが、なお立ち止まらず、体ごとぶつかり、相手を地に伏せた。
敵の鉄砲隊が火蓋を切ったとき、信盛の部下――あの若き兵が、彼の前に立った。
「佐久間様……俺……!」
叫びは、銃声にかき消された。
若者はその場に崩れ落ち、信盛は何も言えず、ただ手を伸ばした。
「……名を、聞いておけばよかったな」
霧は晴れ始めていた。
その向こうで、織田信長が義元の首を挙げたという報せが、こだました。
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――信盛は、静かに脇差の鞘を戻した。
あの日、誰も自分たちの戦を語らなかった。
勝ったのは信長であり、名を挙げたのも信長だった。
だが、信盛はそれでよかった。
「名などいらぬ。あの背を、守れたことが……“忠義”という名の、焔だったのだ」
古びた太刀袋を再び納め、信盛はそのまま座り込んだ。
外は、雨。まるであの日の霧のような、湿った空気が広がっていた。
「殿よ……お前が燃やしたこの国の灰の中に、
我ら“影”の名が、一粒でも残っていれば、それでよい」
佐久間信盛――影の忠臣は、静かに目を閉じた。
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(了)
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次回も楽しみに




