『落日の忠臣 -佐久間信盛、夢の果てに-』
どうする?
……
本文:
天正八年、秋。
京都・山科の隠れ里。
佐久間信盛は、一人静かに庭の枯山水を見つめていた。
かつて尾張の地で、信長に仕えた重臣。
かつて桶狭間で、命をかけて主の背を守った男。
そして今は、織田信長により「忠節なき者」として――追放された、影の者。
「殿……いや、今や“上様”か」
自嘲するように笑い、湯飲みの縁に指をなぞる。
信盛の髪は白くなり、老いた体はすでに剣を握るには不自由になっていた。
だが、あの夜のことだけは、今も鮮明に覚えている。
桶狭間。信長が義元を討ち取った、あの濃霧の中の勝利。
その背を守るために、自らの部隊がどれほどの犠牲を払ったか――誰も語らぬまま、時は流れた。
「武功は語られず、忠義は笑われる。されど、それが戦か……」
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ある日、一通の文が届いた。
送り主は、明智光秀――信長の家臣であり、風聞では近ごろ主君と距離ができているとも噂されていた男。
【佐久間殿。貴殿ほどの者が、草に埋もれているのは国の損失。
今一度、剣を取り、語るべきではありませぬか。】
信盛は、文を前に黙した。
剣は、もう握れぬ。
だが、想いは残っていた。
「……信長様は、今も変わらぬのか。名を求め、覇を求め、ただ前を」
彼には分かっていた。
信長は天を目指していた。
だが、その天は、常人の到達できぬ孤高の領域。
故にこそ、彼を支える“影”が必要だった。
――それが、自分だった。
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月が昇る晩秋の夜、信盛は灯明をひとつともした。
手紙を返すことはなかった。
ただ静かに、再び筆を取ることもなく、過去に向けて小さく呟いた。
「殿……貴方がもし、我が忠を忘れても。
我は、ただ一度も貴方を疑わなかった」
枯れた手が、古びた太刀の柄に触れる。
それは、信長の命で与えられたもの。
桶狭間の夜、血に濡れたまま持ち帰った、あの剣だった。
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天正十年――
本能寺の変。
織田信長、明智光秀の謀反により、非業の死を遂げる。
佐久間信盛は、その報せを山科の庭で静かに聞いたという。
そしてただ一言、こう呟いた。
「ならば、次に忠を捧ぐ者が現れるだろう。
だが、“影”はもういらぬ時代かもしれぬな」
秋風が吹いた。
彼の忠義は、とうに忘れられていた。
だが、信盛の心には、あの日の濃霧と、あの背を守った記憶が今も消えずに残っていた――。
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(了)
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次回も楽しみに




