『妻』——
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夜の闇が山を包み込んだ頃、一行は小さな村の宿屋に到着した。
遜大、燈火、そして柊は、そのまま部屋に入ると、食事の支度を進めるため、宿の主人に指示を出した。
だが、遜大の心はどこか落ち着かなかった。
篝火との激闘の後、改めて思い知らされたのは、彼が抱えていた数々の過去の重さだった。
篝火――今は明煉となった息子が、彼の目の前から消えてから数日が経っていた。
その間に、思い出すのは、いつも彼の名前が呼ばれたあの時だった。
「ぽんた…」
遜大がふと、口にした言葉。燈火と柊は、それを耳にして、何も言わなかった。
その時、宿の扉が静かに開く音がした。
「遅かったね」
遜大は振り向き、その姿に息を呑む。
目の前に立っていたのは、沙羅。
彼のかつての妻、そして篝火の母だった。
その顔には、年月を重ねた痕跡があるものの、どこか優しさと力強さを併せ持った表情が残っていた。
「お前、なぜここに…?」
遜大は驚き、目を見開いた。
だが沙羅は、静かに微笑みながら言った。
「息子のことで、あなたに伝えたいことがあったからよ」
彼女の声には、何かしらの静かな決意が込められていた。
遜大は、沙羅を部屋に招き入れる。燈火と柊も、彼女の存在を認識するとともに、その場に少しだけ緊張が走る。
「篝火(明煉)のことで、何か……?」
沙羅は深く息を吸い、静かに語り始めた。
「篝火は……私が生きていた証。けれども、あの子には他にも大切なものがあった。あなたにも、きっと分かっているはずよ」
遜大の心が波立つ。
「……他の、何か?」
沙羅は一度目を伏せた後、遜大を見据えて続けた。
「私は、あなたが抱える痛みを理解していた。だから、篝火を“ぽんたの息子”として育てた。でも、あなたが決して言わなかったことがひとつだけある。それは、私を選んだ理由だ」
その言葉に、遜大は一瞬言葉を失う。
「私の選択は、私の誓いだった。でも、あなたの誓いは、別のものだった。覚えている?」
遜大は、記憶の奥底から、かつて沙羅と交わした言葉を思い出す。
「お前とともに生きる。それが俺の道だ――」
あの日、二人が誓いを交わした夜。戦乱が続く中、すれ違うことなく、互いの手を取り合った日々。その日から、彼の中にはずっと、沙羅への想いが刻まれていた。
「私は、あなたに何も言わずに去った。けれど、あの時、あなたが示してくれたのは“愛”だけじゃなかった。『戦』だったわ」
「戦……」
遜大は、再び彼女の言葉を噛みしめるように呟いた。
「私がこの地に来たのは、ただ一つ。篝火を守るためだった。だけど、あなたの背負う“戦”が、私の命をも奪ったのよ」
沙羅の瞳には、長年の苦しみと後悔が滲んでいた。
「だから、私はこの村で、あなたを待っていた。そして、篝火がその“剣”をしっかり握るまで、私が彼の道しるべとなると決めた」
遜大の顔が、少しずつ硬くなる。
「だが、あの子が選んだ道は……私が思い描いていたものとは違った。彼が持つ“剣”の力が強すぎて、私ではそれを支えきれなかった」
「……だから、篝火を試すために?」
沙羅はうなずく。
「試すつもりはなかった。ただ、あの子が何を選ぶのか、私は見届けたかった。あの子は……あなたのように、強くなりたかった。そして、何より、私にとっての“最後の誓い”を果たさなければならなかったの」
遜大はその言葉に、目を見開く。
「最後の誓い?」
「はい。私は、あなたの妻として、この戦を終わらせるために生きた。だが、あの子には『血』を背負わせることができない――だから、あなたの“ぽんた”という名で呼び続けたのよ」
静かな言葉の中に、深い想いが込められていた。
遜大は、ただ静かにその言葉を受け止め、目を閉じる。
「俺が選んだ道も、また、あの子に託されるべきものだったのかもしれないな」
沙羅は、微笑んだ。
「そうよ。あなたの道が、もう一つの道を切り開いた。篝火も、それに応えるべき時が来る」
遜大は、少しだけ力を抜いた。
「……ありがとう、沙羅。あの子は、もう大丈夫だろう」
「ええ。彼は強い子よ。ぽんたの息子として、きっと自分の道を歩んでいくわ」
沙羅は、遜大にもう一度微笑んで部屋を出ていった。
遜大は、一人残された部屋でしばらく静かに座っていた。その目に浮かんだのは、長い間自分が背負ってきたものだった。
だが今、彼の心には、何かしらの解放感があった。
息子の選んだ道――それを、今度こそ見守る覚悟が、彼の中で新たに芽生えていた。
(続く)
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次回も楽しみに




