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君が金魚鉢を持つと花火のように“パっ”と開いたその顔が歪む  作者: 豚煮豚


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8



 早朝の光。

カーテンの隙間から差し込んできたそれは顔に当たっていた。

カーテンを締め切るという日常動作ですらまともに行えないほどの狼狽。

どうでもいいはずだったが、そうでもなかった。

寝付きが悪い日は目覚めも悪い。

嘔吐感を伴う一日になりそうな予感がして、あらゆることが億劫になる。

そんな予感を払拭するためにカーテンを完全に開けた。窓辺から景色を眺める。今日も変わらない日常だ。指に触れたガラスは湿気を帯びている。

“ヒンヤリ”としたそれは昨日とは別の季節のようだった。

これからくる結露のシーズンのことが頭に浮かび、また一つ緩慢(かんまん)とした自分になっていく。結露が発生し、窓のサッシにカビが生えたら面倒だ。きっと退去料は両親が払うことになる。お金などない僕にできることは結露を拭き取ることだけ。毎日やらなければならない。

夏のままでも構わなかったのかもしれない。

この街で生きていく上では季節の移り変わりなどないほうがありがたい。

マーブル模様のように色彩が混ざりあった上空の下。

こんな時間にうるさくしては騒音になることすらも知らない鳥のさえずり。

“チュンチュン”と鳴いているそれを耳にして目が覚める。

心許ない僕の大事だったらしい彼女が消滅してしまった。

それが純粋な事実として目の前に存在する。

はなはだ、言葉にはし(がた)い心持ちだ。

束の間の命だ、人間もどきの僕も金魚もあの人も。


 うだつが上がるわけがない時間を過ごしている。こういうときには仕事をしてなくてよかったと思う。それと同時に仕事をしていればよかったとも思う。仕事をしていたならば気持ちを切り替えることもできていたはずだ。

(はな)から不自然な関係性。

普通の恋人ではなかった。

普通になりたいとも思っていなかった。

普通であることがいいことだとも思っていなかった。

未だに普通の関係を望んでいるわけではない。

それを考えると続いた方だ。

社会の外にいる僕が社会の中にいる彼女と付き合った。

こんな二人が親しくなれると思うこと自体が間違っていた。

普通の生活が欲しいのならば、普通を望まなければならない。それこそ、それが生きる意味であるかのように普通に振る舞わなければならない。それをしたくなかったというだけであり、その代償を払っているだけである。

ずっと一枚の壁の向こうに相手がいる。

罪を犯して投獄されたように自分だけの意志では抜け出せない。

しかし、どちらが牢獄なのかはわからない。

できることなど少ない。

移動するか、服従するか、忘れるか。壁の向こうへ逃げ出すために生きていくのか。現実に服従していろんな物を抱えながら生きていくのか。大事なはずのことを忘れてなにもなかったかのように生きていくのか。祈りながら生きていくのか。とりあえずは生きていく必要があるようではあった。

窓の外にいたはずの幽霊はどこかへ消えた。

室内に移動することも、ベッドの下に居座ることもなかった。

忘却を持って解決とするのは未来のない思考だ。

それでも時間という薬を一日も、一秒も欠かさず摂取しつづける。

祈りという純粋な行為とともに時間を摂取する。

自分だけではどうしようもない世界に来てしまった。

このどうしようもなさこそが本質なのだろうか。

時間だけが流れていき、中身はいつまで経っても完成しない。

そんな人生が本質なのか。


 空空寂寂(くうくうじゃくじゃく)だったようだ。

満たされなければならないという感覚を捨てる必要があった。

それはまさしく現実社会における悟りと同じようなものだ。

昔の哲学者には犬のようになろうとした者もいるらしい。

思考とは時と場合によって意味合いが異なる。

今の社会で生きていくのに必要なのは空っぽの器だ。

そこに情報が詰め込まれていく。

社会は情報の波に押しやられて環境的に変化していく。

あらゆる物が人工的にのみ変化していく。

自然を模倣した不自然な変化が起こる。

それは人間がどこまでも相対的な生き物だからだろう。

いや、動物の生存自体が相対的な物だからかもしれない。

純粋であろうとして空っぽを保とうとしていた僕がいたんだ。

なにを書き込んでも消されてしまうノート。

そんな空白を前にして会話をしていた彼女の身にもなってみれば答えは簡単だ。

全てがすり抜けていってどこにもぶつからないまま自分だけが傷付く。

そんな物、終わらせて当然。となると祈ることの意味などない。

意味がない物にすがってもどうにもならない。

実際にどうにもなっていない。


 有為転変(ういてんぺん)な世の中である。

何の因果かは知らないが変わることに苦しめられている。

自分の手には負えないほどの変化。

自分にはどうすることもできない街。

変わらない街から変化が皺寄せのようにやってきている。

それもそのはずだ。

変わらない物など存在しない。変わらないということは表面を取り繕っているということだ。この街の変わらなさが嫌いであるのは間違いない。異常なほどに変わらないというところに順応することができていない。しかし、実際に自分が変化という化け物の被害に遭うとそれを憎んでしまう。街ではなくて社会が強制的に生み出した変化を憎たらしいと思う。

変わらないということがどれだけ尊い物だったのか。

それがわかっていればもう少し社会にも馴染めていた。

社会の外で檻を恨めしく見ている僕には関係のないことだ。

囚人たちは不幸にしか見えない。

自分のことを不幸としか思えない僕。

檻の外も檻の中もどちらも囚人のための場所だ。

どちらにいる囚人も不幸にしか見えない。ならば他人と助け合えるだけ社会の方がマシだ。その方がマシなはずだ。誰かに助けてほしいのがおそらく本音なんだ。助けがないと檻の向こう側へ行けない。

でも、檻を眺めている彼女にはそれができなかった。

心の奥底で助けを求めていた僕を助けることができなかった。

きっと檻を隔てている場所にいる彼女にその気がなかったからではない。

あの人が向こう側にいたからだ。

違う囚人にならなければこっちには来れない。


 外から差している光。

なにもしていないのに時間は進む。

矢のように一方向に進んでいく時間は無慈悲でしかない。

そんな時間のように一方向から差し込んでくる太陽の光。

まだ暖かさが残っている朝の光。

それによって照らされたこの部屋。

そして、彼が住んでいる小さな家。

いや、彼が住んでいるのは単なる箱だ。

箱の中でなにかを主張するかのように泳いでいた。

こんな時間でも金魚は起きている。

起きて自分の存在を証明しようとしていた。

きっと誰もいない部屋でもそうしているのだろう。

そうすることが遺伝によって決まっているのだろう。

誰も見ていない不自然な世界でもきっと変わらない。

ずっと個体として変わらずに生きていく。

そこに祈りはあるのだろうか。

あったとしたらどんなことを祈っているんだろうか。

金魚の遺伝子にそんな機能が書き込まれているわけなどないか。


 金魚に見惚れてしまった僕は幸運だ。

救いとなるような物がしっかりと存在していた。

御神体のような存在がここにはあった。

信仰心を保つことができそうだ。

いや、それだけではない。

結局、この関係が決裂してしまえばそれでもいい。

そうすればこの美しい更科模様の金魚。

そして、それを生かすための箱である金魚鉢。

花のようになったフリルの金魚鉢はこの場所に鎮座する。

まるで本殿のようにこの場所でこの部屋を見守る。

そこに神性を感じても祈りはしない。

祈るのは金魚に対してではない。

祈らなければならないのは自分の人生だ。

真っ赤な鳥居のような鱗と雲のように白い鱗。

混在していたそれは神様による細工によってできている。

ただ、やはりここにも神様はいないように思える。

この街には神様なんていない。


 神様のような生活をしている僕。神様の生活がどのような物なのかなど知らないが、少なくとも人間にとってはそのように思えてしまうほどの生活をしている。

これを捨てなければならない。しかし捨てることで痛みが発生するのは間違いない。ただ、その代わり、また一歩大人になれる。

着実に普通の人に変化していける。

この街に馴染むこともできる。

しかし、まだ歩き出すことはできない。

周囲に誰もいなければ自分がファーストペンギンになるしかない。

食われる覚悟がなければ満たされない。

腹の足しになるような物が得られない。

いつまでも満たされないというのであれば二つしかない。

死ぬか飛び込むか。

どちらかを選ばなければならないのならば飛び込む方を選ぶはずだ。

どうせ死ぬなら飛び込んで死んだ方がいいはずだ。

ここで言うところの死というのが動物としての死ではなくても。

あくまでも社会人としての死であったとしてもそのはずだ。

理性ではわかっていても頭はなにもわかっていない。

だから、この生活を捨てることができない。


 今日という一日を食い潰している。

こんな日々がありきたりになっている。

目的もなくひたすらに生きているだけの僕の前にいたはずの彼女。

今となってはどこにいるのかも、なにを思っていたのかもわからない。

全てが意味のないことだ。

いろいろなことを考えていたが目が覚めてくると現実感を取り戻す。

どう考えてもこのままではいけない。

たった一人で生きていく。

そんな目標を掲げ、そして達成しなければならない。

両親からの援助もない世界で生きていかなければならない。

骨抜きにされた僕にそんなことができるわけなどない。


 なにに依れば僕という一個体は依存することなく生きていけるのだろう。

信仰に依存するのは適切だとは思えない。

純粋なままでは居られないからだ。

純一無雑(じゅんいつむざつ)な世界は現実的ではない。

なぜなら動物とはやはり相対的な生き物だから。

雑多な世界と関わらないと生きていけないのだ。

金魚は鉢に依存し、水に依って生きている。

そして人間は酸素に依り、箱に依存している。

最低限度の依存だけで生存していくとしたら?

箱とは不自然な自然のことだ。

それがなくても自然は存在する。

だから社会は必要ない。

自分の身体は必要に決まっている。

食事や栄養も必要だ。

あらゆる物が必要に思える。

生きていく上での最低限がわからない。

なにさえあれば自分でいられるのかがわからない。

よるべない気持ちだ。

陸地のない湖で舟を漕いでいる。

どこまで進んでも水平線。



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