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昨日の出来事は波紋を生んだ。衝突した彼女との交流が途絶えた。落石事故によって道路が遮断された。石よりも重たい物が道を塞ぐ。ここから先に行くこともできない陸の孤島に隔離された。山奥で世捨て人のような生活をしていた僕には電波など届かない。無線機からはなにも応答がない。声も本音も聞こえてこない。
拒絶されているみたいだ。
事態を把握しようとしていた僕はこの衝撃に耐えられない。
これほどまでの衝撃がやってくるだなんて思わなかった。
指示がなければやるべきことがわからない。
暗闇の中で自分のことすらも見えない。
雪山よりも危険な場所で遭難してしまった。
人ばかり居るなにもない場所で。
これは事故だ。
お互いに過失が存在する、誰も望まない物。
傷だらけになってしまった僕たちは事故の処理をする必要がある。
でも、それがどのような理由で発生した物なのかは未だに不明。
あらゆる物事について一知半解な僕は側面しか知らない彼女と衝突した。
そこに不注意があったことは間違いない。
なにかシグナルを見逃していたのだろうか。
呆気に取られていた僕は現実感を取り戻していく。
それは鼓動を早める。
焦燥感が全身を締め付ける。
思っていたよりも大事だったらしい。
完治しない傷が心に着いてしまったかもしれない。
またお医者さんのお世話になるのか。
大きすぎる出来事が目の前に現れた。
世間ではなくて一つでしかない僕自身の目の前に。
居ても立っても居られなくなった僕は秋とは思えない世界に出た。
まだまだ打ち水は一瞬で姿を消す。
その水の一部が観葉植物の先の尖った葉先から地面へ滴り落ちる。
アスファルトの異常な温度は水滴すら許容しない。
水のように透明な彼女とそれが重なる。
水滴のような彼女は熱い地面に衝突して、姿を消したのだ。
これでは蒸発したみたいだ。
いや、蒸発ではない。
蒸発のように姿形が忽然と消えてしまったわけではない。
かくれんぼをしているだけだ。
蔵された彼女の心を把握したい。
やはりなにかがそこにはある。
現実に打ち付けられて空に逃げてしまった。
姿だけを見せてすぐに消滅した。
どこにも答えなんて残してくれていないようにも思える。
もしかすると過去を振り返れば原因を突き止めることも可能なのだろうか。
ただ、そこまでの熱意で触れあっていなかった僕はなにも覚えていない。
暑すぎるほどの太陽だ。頭が自然と“クラクラ”してくる。とても自然な流れとして精神が壊れそうになる。
恐らく彼女は今もあの塔の中にいる。人間不信が形になったようなマンションの一室。そこに気体の彼女が存在する。象牙の塔の中に居たような僕はそこへ向かう。美しいものだけに触れていればよかった日々を終わらせる。安全地帯ではない。遊んでいる暇もない。しかし、この行為は人生にとって必須ではない。
周囲の視線から目を閉じればそれで解決する問題だ。
そんなことを思っても触れ合いすらない安心安全に戻ることはできない。
出掛ける前、家の金魚鉢には金魚がいた。
箱の外に出たがっていた。
自然と触れあいたいと思っていた。
自分が不自然な場所にいることを知っていたのだ。
巨大な城の前で不安が膨らむ。
あらゆる物が城塞化していて、侵入することができなくなっている。ここに入るための方法は受け入れられることだけだ。しかし、衝突した僕を拒むようにインターホンを鳴らしても返事はない。
不吉な来訪者になってしまった僕。
向こうが望んでいるのかいないのかに関わらず近付いていく存在。
カメラの映像を見ている彼女に受け入れてもらえない。
一方向だけのコミュニケーションが行われている。
向こう側にいる彼女だけがこちら側にいる僕を見つめている。
最初は二回だけ鳴らそうと決めていた。
しかしつい三回もインターホンを鳴らしてしまった。
コントロールできていない。自分のことがわかっていない。
当然の帰結として返ってくる物などなにもない。
ただ感情がささやかに揺れただけだった。
焦りだけが募る。
やはりこの街は少ない可能性すらも排除しようと躍起になっている。だから、招かれざる客である僕がこの中に入る方法はない。抉じ開けるべき鍵穴にすら到達できないのだ。力などという無力な物には登場する機会すら与えられていない。
この間まで親しくしていたはずなのに。そんなことなかったかのようだ。拒絶しようとすればあらゆる物を拒絶することができる。
不気味な街だ。
本来はそんなことできるはずもなかったのに。
不快も不愉快も受け入れなければならないのが人生なのに。
壊れてしまえばいい。
まだ終わるようなフェーズではなかった。
いくつかの段階を飛ばしてしまったのはこの街の否定しようとする力のせいだ。
まだまだ猶予はあるはずだった。
関係が終わったのは全てこの街のせいだ。
それでも、関係が始まったのはこの街のおかげだった。
上京してきた僕とたまたま一緒に働くことになった彼女。
それがない人生なんてあり得ない。
飾りであったとしても大事な飾りだった。
それなのに、そんなことなんてなかったみたいに振る舞うな。
そんな風には振る舞えない僕のことを置いていかないでくれ。
あまりにも大きすぎる物の前で振り回される。
それに耐えられなくなった僕は期待をしまうことにした。
四回目のインターホンは鳴らなかった。
鳴らすことができなかったと言っても過言ではない。
意気揚々とやってきたその足はまるで正反対に消沈したまま帰宅する。
その滑稽さが哀れで仕方がない。
どうすることもできないほどに可能性を感じられなかった。しかし、頭のどこかにこの問題が解決し、全てが前よりも上手くいくという妄想に近いような展望もあった。それは神様がいなければあり得ないほど微かな希望であり、希望というよりも奇跡と言った方が適切な意味合いを含んでいる。ただ、やはりこの街には神様などいない。また、奇跡が起こるような余地もない。なぜなら、あらゆる可能性が排除された街に神様は必要ないから。ここにあるのは魂のない御神体だけ。それをまつり上げることで神の不在を誤魔化そうとしているのだ。神様が必要な人たちを騙そうとしている。
自然を許容しないということはそういうことだ。
あらゆる可能性が存在できるのが自然というあり方だ。
不自然であろうとする人たちが奇跡を受容できる訳がない。
汗が止まらない僕。
貰った連絡も、話した記憶も、金魚鉢もある。
残滓のような記憶だけが溜まっている。
行方知れずの彼女が去ってからまだ一度も夜を迎えていない。
影すら形を変えていないのに、遠い昔の出来事のように沈んでいった。
帰宅のために歩いているこの道は永遠のように続いている。終わりなどない。
底無し沼に沈んでいるだけだった。
迎え入れてくれる人がどこにも居なかったことを確認してからすぐに落ちた。
沼に落ちていったのは必然だ。重たい重たい価値観によって形成された記憶なのだから。これから数時間後の僕は夜を越えるという単純な行為を反芻するかのようにして達成しなければならない予感がする。
非現実感の中で目覚め、夢の中で眠る。
夢の中で目覚め、非現実感の中で眠る。
浅いところにしか到達できない睡眠をしなければ夜明けがやってこない。
覚醒しそうでしない時間は悪夢よりも悪夢的だった。
そもそも人を所有することは出来ない。
自分の物でない以上は望み通りの結末を迎えることなどできない。
自然であり当たり前だ。
そんな当たり前を知っていたとしても、蒸気よりも透明なままで消えてしまった彼女を思わないということは不可能だ。
消えてしまうなんて思ってもみなかった。
不思議と清々するような気持ちもある。
不自然に毒されていた僕に自然が舞い降ってきたのだ。
ただ、不自然な僕にとっては大事件だ。
この事件を解決するのは他でもない僕だ。
その解決するための手段は見つかっていない。
ならば、このケースは未解決で終了することになる。
いつまでも辿り着かない家への道。
思案することを求められている。
合歓綢繆と呼べるような関係ではなかった。
腹を割って話すような関係ではなかった。
恋人というには遠すぎる関係だった。
ではどのような関係だったのか。
まず始めにそんな質問に対して的確に答えられるような言葉はない。
そんな言葉はこの世に存在していない。
であるならばどのような文章で言葉にない僕らを語るのか。
どのような表現で語らなければならないのか。
片割れである僕。
それは許されるはずがないと思いながら愛されているなにか。
社会的に容認されるはずがないと思いながら生きているなにか。
そのなにかとはなにか。
感情の一部が消えた人間。
空白が生まれた人間。
消えた感情の一部とはなにか。
承認されているという感覚を起因としているなにか。
それはなにか。
そこに存在していることを許可するようなもの。
自分が存在していることを肯定するためのもの。
私がここに居て良かったという感情。
自分が他者から肯定されているという実感。
この世界に当たり前にある建前。
ここまで来れば片方の僕の実態が浮かび上がる。
【許されるはずがないと思いながら愛されている、『私はここに居ていい』という感覚が消えた人間】
【償おうとしていた罪の罰の最中に解放された囚人】
それが僕だ。では、もう片方の彼女は? その二人からなる関係性をどのような文章で語れば適切? どのような表現であれば整理することができる? そんなこと、いくら考えても分からなかった。もはや分かる意味もなかった。
暗中模索だけしかやることがない。
やることがなくなった僕は行き場のなくなった罪悪感を抱える。
そのトゲのようなものを大事なもののように抱えながら歩いた。
神様でしか取り除けないトゲだ。
そして神様は自然にしかいない。
影を払うように見慣れただけの建物に入る。
ほとんどのことがわからない僕の瞳には金魚鉢が映った。
ここには面影があった。
たしかに残り香があった。
“ヒラヒラ”と泳ぐ金魚だけしかいない。
一人の僕は一つの影を落とすだけ。
一つしかない。
そこには一つ分しかなかった。




