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太陽が消えた曇天。あれだけ賑やかだった太陽が隠れるなんて不吉だ。しかし太陽が照っているときも不吉さを感じていた僕。どちらにしても不吉な符号にしか思えない。それはきっと本当に不吉な存在はここに立っている僕だからだ。
人を待っている彼女がいるオートロックのマンション。それを見上げて萎縮する。
実家では鍵なんて閉めたことがない僕にとってはそれすら威圧的で、人間不信を中心としたまちづくりが為されているのを肌に感じる。
存在自体が違和感のように思える。
この街では日常ですら壊れない物へと変貌を遂げた。
低い可能性すらも排除しようとする。
数ある中でどうしても発生してしまう悲劇を取り除こうとする。
それが不自然だ。
「話がある」という連絡があってここに来た。
そんなことは滅多にないことだったので心の準備をする必要があった。
果たしてなにが待っているのだろうか。
この前の沈黙を考えると簡単な話ではない。
分かり合うことは難しい。
破綻したような人間であるのにそこから他人を慮ろうなんて不可能。
不可能だとしてもやらないといけない。これをやらなければ実家に帰れない。このまま実家に帰っても待っているのは悲劇だけ。それが自然な流れだ。
徒歩でここへ向かっている時に思った。
いや、街を歩いていると毎回思ってしまう。
ずっと頭の片隅にあり続けていること。
どうしても考えてしまうこと。
みんな、綺麗な物やピュアな物よりも扇情的な物の方が好みらしい。
その瞬間に感情を沸き上がらせることが生きている目的のようにも見える。
浸透していくような日常という物がない。
研ぎ澄まされていくような感覚を必要としていない。
不安をかき消すためには感情をかき乱さなければいけない。
巨大な不安が純粋さを見えなくしている。
寝る間さえも惜しんで仕事をしている彼女もきっとそうだ。
純粋さよりも煩雑さを選んだ。
じゃないとこの街で、こんな建物で生きていけるはずがない。
穢らわしい街には神様が足りない。
純粋の結晶である神様がいれば不純物が堆積した街も洗われる。
祭りという祓いの行事を拒絶した彼女の背中には厄が積もっている。
近くにいる僕にはそんな風に見えている。
卜定よりも論理が重要な世界においては、感情などは二の次。
占いという非科学的を否定した世界にも感情は存在するのに。
命を守るための街には信じる心など必要ではない。
こんなに立派な建物を建てて、高天原でも目指しているのだろうか。
そこへ向かうための足場はなに? それはきっと不幸。
元々同じ職場で働いていた彼女は、精神的に不安定になっていた僕のことを気にかけてくれた。その理由は未だにわからない。おそらく似ているところがあるからだとは推測しているが本当の理由はわからない。
不安定になった一番大きな理由は環境の変化。
水が合わなかったと言ってしまえばそれまでの理由。
両親のこと、世間体のことで悩んでいた僕は優しさを利用した。
博愛しかなかった僕なのに優しくしてくれた彼女と付き合うこととなった。
たしかに利用するために交際をはじめたのは間違いない。
ただ、結局は利用したとも純粋な恋愛とも言えるような結果になった。
自分が思っていた以上に利用しようとした彼女のことを好きになれたからだ。
そして恋愛とは愛情だけで行う物ではないからだ。
しかし、どこかに覚めている自分がいるのは間違いない。
打算的な自分と純粋な自分が同居しているようだ。
そんな自分が自分と出会ったらドッペルゲンガーのように呑み込まれてしまう。
必死に直面しないようにしていたが、その存在は確かだ。
間違いなくここにはもう一人、自分がいる。
類似したオリジナルが二つある。
最初っから一貫した目的で他人と接していれば一人だけで済んだ。
「来てくれましたか、ありがとうございます」
「話とはなんでしょうか?」
まだまだ慣れない空間。
殺風景で物が少ない部屋。
きっと空虚な心を持っているからこんな部屋になっているのだ。
招かれざる客のように感じる。
こんなところにまだ分かり合えていない僕が居ていいのだろうか?
明らかになにかを言いたげな彼女の表情を見ると苦しい。
いくらでも非を責めることができる立場にある彼女。
無数の非を抱えている状態の僕。
どれに触れられても爆発してしまいそうな感情だ。
抑えなければならないことはわかっている。
なにがあってもこの関係は終わらせられない。
これが終わってしまえばもうここにいる意味もなくなる。
もしかすると人生の意味もなくなるかもしれない。
「実は、秋分の日に実家へ帰ることになりました。せっかく金魚鉢と金魚を用意していただいたのに、それを我が家へ迎えるのは随分と先の話になりそうです。
それまでに引っ越しの準備を終わらせるというのは非現実的なように思えますからね」
「そうですか、いきなりですね。僕の方から帰省の話を告げたときにはまだ決まってなかったのですか?」
「はい。どうも、祖母の体調が優れないようで。会いに行かなければならなくなりました。どうしても会いに行きたかったのです、家族ですから。大事な家族ですからね」
「それはその通りですね」
「その間、貴方はどうしますか?」
「僕も帰省することになるのでしょうね。お互いに実家に顔を見せにいくことになりそうです」
「そうでしょうね」
「きっと貴女の話をする機会もあることでしょう。そのときにはきっと僕の両親も喜ぶと思います。貴女のような人が近くにいれば安心してくれるはずです」
「そうですか」
話が一段落して微妙な空気が流れる。
肩透かしを食らった気持ち。
このためだけにここに呼ばれたのだろうか。
話があるということで心構えをしていた。
その意味は今のところまだない。
しかし、これだけで終わるようにも思えない。
氷を砕くような会話の後に、胸に秘密を抱いている彼女から本当の用事が語られるはずだ。それに心を破壊されないようにしなければならない。杞憂で終わってくれればそれでいい。
「私から少しだけいいですか?」
「どうしました? ここに僕を呼んだ理由には他のものもあったのですか?」
「貴方は本当に私のことを愛していますか?」
「え? いやもちろんです。私にとって貴女は大事な存在です」
「私には貴方がそう思っているようには感じられません」
「……どうしてでしょうか? 何か悪いことでもしてしまいましたか?」
「自覚がないのですか?」
「自覚とは、僕の生き方のことについてですか?」
「生き方にまつわるものです。貴方の姿勢に関わることです」
「もしかして僕の日常のことを言いたいのですか? そこに関しては貴女もある程度は理解してくれているものだと思っていたのですが、そうではなかったということですか?」
「違います。その件ではありません……いや、すみません。この話はひとまず終わりにしましょう。こんなことを言っても無意味なことは知っていますが、今回のことは忘れてください」
「そんなことを言われても――」
「いいんです!……やめてください。これ以上は何も話すことはありません」
「どうして……」
「喋ることが最善の選択であるとは思えません。言いたいことが、いや、言わなければならないことがもしもあるのであれば話は変わりますが」
いつにもなく取り乱している彼女は怒っていた。語気を強め、表情を強張らせて。その怒りの対象は話をしている僕で間違いない。その理由には心当たりがある。心当たりはいくつもあるが主要な物は一つだけだ。
愛情の有無などわかるはずがないのだからそれだけのはずだ。
いつもは冷静な彼女がこれほどまでに感情的になるだなんて。
そろそろいい加減に答えを見つけた方がいい。
本人は否定していたがおそらく無職である僕に愛想を尽かした結果だろう。
話せないことがあると言われたならばそれ以外にもうない。
馬耳東風だと思われ、見捨てられてしまった。
前に進むためのエネルギーが空っぽなだけなんだ。
金魚鉢の金魚みたいな僕は人間だと思われていない。
せっかく両親にとって悲願の恋人だったのに。
ずっとそのようなことを言われ続けていた。
子供のことだけしか話していない時期もあった。
そこから離れるために付き合っていたはずなのに。
呪縛から逃れられたはずだったのにダメになってしまった。
現実逃避のために彼女を視界に入れたのは間違いない。
そういう心持ちであるから破綻した。
長続きするわけがなかった。
なぜならば原動力になってくれなかったからだ。
空のエネルギーは今もまだ空だ。
大事な彼女のために頑張るという風向きにはならなかった。
ただ、この出来事のおかげで破綻を望んでいる僕がいることに気が付いた。
話したいことがあるなら話してくれればいい。
隠し事をするような関係性が長続きするわけがない。
本音を話すことはできない。
本音を話したら周りの目ばかりを気にしている僕の愛情の希薄さに気づかれてしまう。目の前にいる彼女以外の人のために恋をしたことがバレてしまう。
そうなるとこの関係性はもうとっくのとうに詰んでいた。降参することができずに敗北が決まっていても手だけを動かしていた。その結果、美しくない棋譜となった。そしてそれは形式的ではあるものの、未だに続いている。
詰んでいる僕から降参を申し出るべきなのにそれすらしていない。
自分という存在を直視することができずにいるのだ。
匿名の僕と匿名の彼女。
名前すら知らないほどに正体を隠し続けている。
自分にすら自分の気持ちを隠している。
それはきっとお互いにそうだ。
こんなにお似合いな僕たちなのに別れなければいけない。
似た者同士なのに触れ合うことができない。
知識として存在している名前があるだけでその奥にある本質的な物には触ることができない。そもそも無職の僕と同じ価値観を持っている人なんて最初っからいなかったのだ。いなかったという現実はまるで影のように寂寥とした気持ちを落とした。落とされた僕は暗い場所にいた。




