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君が金魚鉢を持つと花火のように“パっ”と開いたその顔が歪む  作者: 豚煮豚


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 二百十日(にひゃくとおか)という季節の日がある。

立春の前日から数えて二百十日が経った日のことだ。

そして、その二百十日から十日経った日のことを二百二十日(にひゃくはつか)と呼ぶ。

それらは天候に関する節目で、主に強風などが来ることを警戒するためものだ。

そんな二百十日と二百二十日の中にある今日。

九月九日。


 時期的には後者の方が強風のリスクは高くなるようだ。

類似した行事が連続している。

それは昔の人にとって風が圧倒的な脅威だったことを示す物だろう。

当たり前の感覚を忘れないために飾ったカレンダー。

これがないと今日が何月何日なのかがわからない。

わかる必要はない。

サイクルの終わりと始まりはこんな日常には全く関係がなかった。

その日暮らしをしているだけなので来月の予定もない。

誰にも見られていない日常だ。

ほとんど誰とも接していない。

無機質的に数字ばかりが増えていく。

崩壊してしまわないだろうか。

崩壊してしまっているのだろうか。

大きな建物が崩れ去った後の瓦礫の下で生活をしている。

そうなるとやはり崩壊していて、崩壊するかもしれない場所だった。


 明治に新暦が採用されたことで、旧暦を軸にした風習は廃れた。

新しい世界へ向かうために改まって古い物を置いていった。

どこかに取り残された文化は欠片を掬うようにして利用される。

文化文化という御題目(おだいもく)を唱えるような利己主義に利用される。

風習が残っている場所で育った僕はこの街の人よりも文化的だ。この国の風俗に親しみがある。それはきっと帰属意識のような物が強いことを表している。それなのに社会の一部にはなれていなかった。

九月九日である今日は重陽(ちょうよう)節句(せっく)という五節句(ごせっく)の一つの日だ。

重陽の節句とは、五節句とは何か?

陰陽で言うならば偶数は陰の数となり、奇数は陽の数となる。

その奇数の中でも最も大きい数である()は最大の陽数(ようすう)だ。

そして五節句とは一月一日、三月三日のように陽数が重なっている日のこと。

九という最大の陽の気をまとっている数字が二つ重なっていることによって重陽となり、陽数が重なっている日付に五節句が当てはめられていることで節句。

そのようなことだから、重陽の節句と呼ばれている。

七夕(たなばた)も七月七日であり節句の一つだ。

どこで習ったわけでもなく、常識としてこのことを知っている。

今まで出会った人でこれを知っている人など中々いなかった。

それだけ多くのことが捨てられたということだ。

国家の体系自体が放棄されているのだ。


 重陽の節句は目出度い日とされている。

陽数が重なる陽の日は縁起が良いとされているからだ。

しかし、陽の日の中でも最大の重陽は縁起が良いだけではなく、不吉なことが起こるとも言われている。時期的にも台風などの悪いことが起こりやすい時期だ。

だから人々は祝いをしながら邪気を払い、無病息災を祈願したり厄よけをする。

自らの身体にへばりついた汚れを取り除く。

邪気を払うために菊や秋にまつわる様々なことをする風習がある。

今では葬式のイメージしかないが、本来菊は邪気を祓うことができる縁起が良い花とされていて、伝説では中国に流れるとある川に咲く菊の(つゆ)を飲むと不老長寿(ふろうちょうじゅ)になるという物がある。その儚くも重たい露を菊水(きくすい)と呼ぶ。

それに倣って前の晩に菊に綿を着せ、重陽の節句の当日になると菊の露を含んだ綿を使い、顔を洗ったりすることもあったようだ。

ただ、御託を並べている僕もそこまでしっかりとしたことはしていなかった。

菊を浮かべた日本酒を飲んだり、栗ご飯を食べたりなどその程度のことしかしたことはない。とはいえ、新暦の九月九日は菊や栗などがそこまで出回っているわけではなかったので質素な祝いになることも多かった。

菊の節句とも言われる重陽の節句は本来十月ごろに行われていた物なのでどうしても不具合が生じるのだ。祝いの席がみすぼらしい物になってしまう。

収まるべき箱に収まっていない。

不都合があるからまた一つ文化の火が消えかけている。

抗おうとするのが美しいのか、散るのが美しいのか。

散ってしまいたい僕は抗おうとしている。

全ての歯車が噛み合うべきであると思いながら。


 そんな思いの発生源は歴史の話。

太陰太陽暦(たいいんたいようれき)から太陽暦(たいようれき)へ。

陰から陽へと転じたこの国はやはり賑やかになり、騒がしくなり、狂いだし、様々な物を失った。それでもまだこの世界は陽の世界のままだ。

知らぬ世界に憧れを抱き、知ってる世界を否定する。

結果があるだけだ。善悪などそこにはない。

しかし、事実として過剰に働いている陽の気はこの国に蔓延(まんえん)している。

もしかすると異常なほど活発な太陽もそのせいか。

陰陽思想では陽が極まると陰に転じ、陰が極まると陽に転じるとされている。

陽が極まった世界は一巡して、陰に転じるのか。

陽から陰に転じたならばそこには太陽が死んだ世界が待っている。とすると、来年の今ごろは突然の氷河期に苦しんでいることだろう。

そんな破滅願望のような物を抱いている僕がいることに気づく。ただ、本質のところで求めているのは破滅ではないようにも思う。全てがリセットされることを求めているようにも思う。

酷くなっていけばいつかは自然とリセットが起こる。

この賑やかな世界を誰かが壊してくれるのだ。


 暇をしているとくだらないことばかりを考えてしまう。

本当はあらゆることに興味がないくせに興味がある『フリ(▪▪)』をするのだ。

誰に見せるわけでもなく偽物を量産している。

——このままではいけない。そう思った。なので、買い物へ行くことにする。

外に出るとやはり太陽は活発だった。

数分歩いた所のストアに入っていく。そしてその勢いのままカゴを手に取り、鮮魚コーナーを巡った。ささやかな数字が並んでいる、行きつけの店。

鮮魚コーナーを歩いているものの魚は単なるおまけでしかない。とある物を手に入れるためにここへやってきた。日本酒と目的の物をカゴに入れると会計を済ませ、さっさと家に帰る。

雑菌が繁殖しそうな気温は昨日と同じだ。

いつもの家に到着し、いつもとは違う物が目に入る。

これから魚を食べるというのに、目の前には金魚だ。

金魚鉢を気に入ってくれているようでよかった。

ポイの上で死にかけていたのが嘘のように元気に生きていた。

右手に提げた袋の中にある鱗のない肉の正体を知らぬまま生きている。自分の飼い主が自分と同種の生き物を食べると知ったらなにを思うのか。

金魚にはそんなことを思えるだけの知能はない。

それはそれで幸福なのかもしれない。


 閑人(かんじん)としか言いようがない僕。

一升(いっしょう)の日本酒と盛り合わせの刺身をテーブルに広げる。

みんなは余裕がないから重陽の節句を軽視する。こういう文化があってもなくても日常はなんにも変わらないのだ。変わらない無駄なことをする余裕はどこにも、誰にもない。余裕があるのは閑人の僕だけだ。

刺身を買った理由はそこに菊が乗っていたから。やはり、ストアのお刺身には食用の菊が乗っているものだ。 

“パカっ”と刺身のパックを開ける。そして、菊を箸でつまみ、その香りを確かめた。思った通りの生臭さだったので鍋に水を入れ火にかけた。しばらく待った後、シンクに置いた菊の上に熱湯を流す。湯気が立ち上り、“パっ”と開いていた菊の花が縮む。

(けが)れが落とされた菊からはなんの臭いもしない。

これでは菊の風味もなにもないが、魚臭さが残るよりはマシだろう。

それよりもこの機会を逃す方が問題だ。

明日菊を乗せた日本酒を呑んだところで意味などない。

まさしく六菖十菊(りくしょうじゅうぎく)だ。

機を逃してしまっては意味がない。

それはあらゆる物事においても言えそうだ。

逃した人間が言うのだから間違いない。


 まずは菊を乗せた日本酒を口にする。

やはり風味などは移っておらず単純に口触りが悪いだけの日本酒だった。

久しぶりに呑んだそれは強烈で、今から悪酔いの気配がする。

それをかき消すように刺身に手を伸ばす。

マグロらしき魚だが本物かどうかはわからない。

パックの蓋に落とした醤油に刺身を浸し、風情もなにもない食を楽しむ。

味のよし悪しを語る口など持たないので日本酒で流すだけだった。

そんな動作を何回か続けていると自然と気持ちが楽しくなってくる。

今までの自分から解き放たれているようで自由を感じる。

いや、感じる余地すらなく自由になる。

自分には似合わないことをしたくなるがまだ理性の方が優勢だ。

もう少し呑めば全部が台無しになりそうで最高だ。

そう思いながらひたすらに日本酒を扇いだ。

アルコールに依存していなくて助かった。


 酒に酔いながら天気予報を確認した。

それを確認したところで行動が変化することなどない。

習慣だけが残っている。そして、関係もないのに雨天の予報を(うれ)うのだ。

そこには台風の報せが来ていた。

こんなタイミングでその情報が入ってくるなんてなんだか奇遇だ。

しかもそれは過去数十年で最も勢力の強い台風——いつもそればっかりだ——らしく、今の内からの備蓄を推奨したり、避難経路の確認を促していた。しかし、それらのことをするつもりはなかった。

なるほどやはり重陽は祝いだけではないらしい。

嫌いな台風が来るのを黙ってみているしかないのはもどかしい。

しかし、この街は圧倒的に頑丈に出来ている。

何かを心配する必要などないほどの都市設計。

どれだけ優れた人であってもこの街を崩壊させることはできない。

巨大な災害が起こったとしても数年もあれば元に戻るだろう。

他人事のようにニュースを見ていた。

実際、他人事で終わるんだと思う。

慣れないことばかりの生活ではあるが自然から隔絶(かくぜつ)されることには慣れた。

日々をこなすためには自然など必要ない。


 刺身を肴に菊を乗せた日本酒を呑んでいると孤独が滲みてくる。

どうして一人で祝い事をしているのだろうか?

一人で無病息災を願って何が面白いんだ。

しかし、病的な僕はそれをしなければならなかった。

それ自体が病的な行為であったとしても。

それによって得られる物が日常という苦痛だったとしても。

とにかく病気という幽霊を自分から払わなければならなかった。

こんなことで払われるほど簡単な問題だったらとっくに解決しているが。



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