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君が金魚鉢を持つと花火のように“パっ”と開いたその顔が歪む  作者: 豚煮豚


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19


 とうとうこのときが来てしまった。

言うと決めてしまった僕がいる以上、言わなければならない。

決めてしまったことを取り止めてはいけない。

それは受動的な人生でしかないからだ。

能動的に生きなければならない。

ここは小さくて二人で暮らすには相応しくない部屋。

今も二人が近すぎて心がざわついてしまう。

きっと向こうもそうなんだろう。

親にお金を出してもらってはじめて暮らせる部屋。

最低限から一つだけランクが高いような賃貸。

そんな状態はなんとしても打破しなければならなかった。

ここから抜け出すことは難しくないのだ。

帰ればいいだけなのだから難しいことなんて一つもない。

不思議そうな顔の彼女に話しかける。

なんでもないような連絡をして呼んだ彼女はきっとまだ心の準備ができていない。なぜか真剣そうな僕のことを不思議に思っているであろう彼女。


「同棲の話がありましたね。それで少し思ったのですが……」

「なんでしょうか?」

「あの、僕と結婚して僕の地元で暮らしませんか? 両親から仕事を紹介されまして、『是非二人で一緒に帰ってこないか?』と言われまして」

「それは? つまりはここから離れるということですか?」

「はい。二人で一緒に離れませんか? この街の喧騒から逃げ出して、もっと静かな場所で生活しませんか? 安心してください。仕事は向こうにもあります。給料もそこまで下がらないはすです。どうでしょうか? 一緒であれば多少の困難は乗り越えられるようにも思えますが」

「…………」

「難しいですよね。答えはまた今度で大丈夫です。それこそ、お互いに帰省をした後で構いませんから」

「…………」


 考え込んでしまった彼女。

どう考えても悪いことを言おうとしている。

それは向こうにとってではなくこちらにとって悪いことだ。

向こうにいる彼女はその言葉を言うことの意味を知っている。

しかし、こちらにいる僕はまだその言葉を知らない。

禁忌に触れてしまったのか。

それとも、そもそも最初っからいつかは終わらせようとしていたのか。

勝手な推測をしているだけの僕は間違っている。

純粋に「わかりました」と言うために沈黙しているだけ。

その可能性も十分にあるのにもうすでに諦めている。

そのときに気づいた。

疑り深い僕の心の中で間違いなく鬼のような存在になっている彼女。

この街に対する不信感の中心にいるのは目の前のこの人物だった。

早く口を開いてほしい。

そうじゃないと悪いことばかりを考えてしまう。

悪いことを言われるかどうかなんてまだ決まっていないのに。

悪い方へ悪い方へと向かってしまう。

こんな状態で本当に悪いことを言われたらどうするんだろう。そのときの心はどのように動くのだろう。そんなこと、今の自分にはわからない。実際に現実がやってくるまでなにもわからない。ずっとそういう人生だった。わかったような顔をしているだけの僕がずっといた。


「私にとって大事な物が、貴方にとって大事ではないのかもしれません」

「どういうことですか?」

「もう、終わりにしましょう? お互いに疲れたでしょう? 私は貴方の未来が明るくなっているだけで幸せです。そこに私がいなくても幸せです」

「しかし、僕としては貴女が居なくては……」

「金魚は私が預かります。私のワガママでしたから、貴方に甘えるわけにはいきません」

「そんなことは。いや、どういうことでしょうか?」

「とにかく、金魚は私が預かります。そもそも、私のために貴方がすくってきてくれた物だったわけですから」


 金魚は欲しがっていた彼女が飼う。

そのつもりであった。

白露の中に見た祭り。

そこへ行くことになった一番の理由は金魚のためだった。

恐らくそれがなかったとしてもそこには行っていたはずではある。

しかし、それでもそこで見たあらゆる物は金魚が理由だったはずだ。

路上に立ち並んでいた屋台。

喫食のためにあったかき氷や焼きそば。

ハイエナのように金魚すくいを終えた人間を待っていたお店。

暗闇の中で存在感を放っていた古色蒼然としたその店。

そして、帰り道に見かけた、シャボン玉の剣を振りかざしていた子供。

誰かの遺伝子を引き継いでいる、そんな存在。

そのときから金魚の所有権は向こうが持っていた。

ずっと金魚は彼女の物だった。

一瞬たりとも金魚は僕の物になっていなかった。


 それなのに、それを告げられた僕は“ポカン”と穴が空いたようになる。

穴が空いた場所はすぐに別の物で埋まる。

まずは単純な感情で埋まった。

悲しかった。

金魚のことが悲しかった。

金魚と別れるかもしれないということが悲しかった。

他にも衝撃的なことはたくさん言われた。

それなのにそのことばかりが頭の中にある。

無責任な立場になりたいと思っていた。

金魚という命の責任を取りたくないと思っていた。

眺めていることにも飽きてきていたはずだった。

それなのに、いつの間にか生まれていた愛着が喪失してしまう予感で萎む。

膨らんでいた物が萎んでヒダのようになる。

そのヒダの一つ一つ。

そこに隙間が発生する。

その隙間に、『別れ』という衝撃がやってきた。

時間差があってその言葉の意味を理解した。

怒りのような単純な感情が複雑に満ちる。


 人の気持ちがわからない僕にはいくつかの弱点がある。

どうして常識的な振る舞いをしなければいけないのかわからない。

そして、恐らく普通の人よりも人の気持ちがわからない。

根本的に鈍いところがあってあらゆることがわからない。

それらに触れられるという恐怖に怯えていた。

無知な本質を持つ僕のことを知られるのを恐れていた。

とにかくなにもかもわからないのだ。

わからないから合わせることができない。

一番わからないのは自分のことだった。

コントロール不可能な僕のことだった。

いま、その弱点に彼女が触れようとしている。

わからないのに駆け引きを仕掛けてきている。

ここが最後の取引だと思われる。

その弱点を克服しようと考える。

そもそもその弱点が生まれてしまった原因を考える。

そうすると思うのは簡単なことだった。

やはり自分というのは適さない場所にいる金魚のようだ。

だから、適さない場所でどうやって生きればいいのかわからない。

なにを食べればいいのかすらわからない。

どうしてこんなに複雑な街に来てしまった?

元々の居場所であればまだ生活はできていたのに。

わからなくても生活できる場所にいたのに。

ここはわからないとなんにも動いていってくれない場所だ。

なにをすればいいのかわからないと誰も手を差し伸べてくれない。

差し伸べてくれたとしても薄っぺらい。


 金魚も騒がしい。

この場の空気を察知しているようだ。

今にも金魚鉢の外へ飛び出そうとしている。

決して外に出ることなどできないのにそう錯覚させる。

金魚が外に出るときはおそらく死んだ後だろう。

死んだあと、その死体が処理されるときに外へ出るだけ。

それ以外はもう花のような金魚鉢の中で生きていくだけ。

別の箱へ移動する僕とは違う。

別の箱へ移動する彼女に着いていくんだろう。

江戸時代には大地震の後に(なまず)の絵を描くという流行があったそうだ。

地下水の中に大鯰(おおなまず)が居るとされていた。

そして、それが大暴れすることによって地震が発生するとも言われていた。

単なる迷信でしかなかったはずだ。

どれだけの人が真剣に信じていたのだろう。

その大鯰を要石(かなめいし)という特別な石で閉じ込める。

そうすることによって地震が収まるとも言われていたらしい。

鯰と同じ魚である金魚には感じ取れる何かがあるのだろうか。

地殻変動と呼べるほどの変化が二人の間に起こる予感。

あのときとは違う僕はそれを受け入れられる気がする。

どちらにせよもう地元に帰るからだ。

 

 虐げられるような妄想をすることがある。

それはこうとも考えられる。

愛されているはずの人から虐げられることを想定している。

そんな風にも考えられてしまう。

だからいつまで経ってもどうにもならなかった。

どうにもならなかったから自然に消滅した。

戻ってきたはずのそれも消滅しそうになっている。

消滅した理由は熱だけがあったこと。

それによって器に入っていた水分が蒸発した。

そこにあるのは自意識だけ。

器の底にへばりついたのは自意識だけだ。

それだけで生きていくのは寂しい。

寂しいが、できないことではない。

できないことではないなら、そうなるだろう。

世間体から離れられることは幸福だ。

それ以外の全てが不幸であることからは目を背けるしかない。

地元に帰った僕はいろんな人に指を差されながら生きていく。

そのことだけを無視すればもう問題なんてどこにもない。

ここにいることの問題に比べればないに等しいのだ。


 神様によって帳簿が操作されている。

そうとしか考えられないほど正負のバランスが取れている。

幸福と不幸がちょうど同量、秤に乗っている。

いつまでも破綻しない生活と、なにをしても増えない数字。

ここでの生活が終わるとなるとすぐに終わる関係。

手のひらの上にいるというよりかは操作されているという感覚。

八百万の神々はどこにおわすのだろうか?

たしかにここは高みを目指しているだけの街だ。

高天原(たかまがはら)を目指した国津神(くにつかみ)

そんなところに行けるはずもない。

そもそも人間から神性は失われている。

もはや神様とは程遠い存在になってしまっている。

生まれた瞬間から、生まれる前から全ては決まっている。

そのレールの上を歩いているだけ。

歩いているという能動性すらもそこにはないのかもしれない。

とにかく動かされているだけだ。

証拠はない。

証拠などなくても歩いているという事実がある。

動かされているという事実だけがある。

ここにいるのは一つの結果だ。

結果が服を着て歩いているのだ。


 目の前にいた彼女は口を開いた。

その言葉は重たく、異論を認めなかった。

開いた口が閉じるとすぐに玄関へ向かう。

もはやなにかを言うまでもなく、終わりがわかった。

もしかしたらこういう気持ちだったのかもしれないな。

「帰ります。詳しい話はまた今度しましょう。それこそ、お互いに帰省をした後で」


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