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明日は満月だ。
そして、今日も明日も晴天が続くそうだ。秋のこの時期になると月が綺麗に空に浮かぶ。時々それを眺めては秋の訪れを感じている。天体的な動きにはこの地球の状態など関係がない。やはり、秋になれば自然と月はちょうどいいところに落ちてきてくれるのだ。
お月見のシーズンになってきている。
お店にも団子が並びはじめている。
月で餅をついている兎が描かれたイラストも最近よく見かける。
そもそも今日は中秋の名月だ。
行事ごとを気にする僕にとっては大事な日だ。
雲一つない夜空を拝める。
そんな可能性すらあるような昼だ。
このまま天気予報の通りに進めばいい。
天気予報の信憑性は身に染みていた。
どうしてこんなにお月見のことを気にしているのか。
それはなんとお月見をすることになっているからだ。
二人で。
「中秋の名月ということですし、一緒にお月見でもしてみませんか? それはとても酔狂なことかもしれませんがいかがでしょう」
そんな連絡を送ると「はい。ではそうしてみましょうか」と返ってきた。
自分でも飾りすぎた言葉のように思われる。
どうして群れのような疑いを抱いているはずの彼女がこの話を聞いてくれたのか。
なんということだ。
お互いのことを知らないということが露呈している。
知らない彼女の存在に気づいたがゆえに驚いてしまっている。
本当に、人間として向き合ってこなかったことを実感するだけだった。
そんな連絡をすると当たり前のような顔をした彼女がやってきた。
お月見をお花見などのメジャーなイベントだと勘違いしたような顔だ。
そこには疑念もなにもない。
純粋にこの時を楽しみに来たというような美しい顔をしていた。
未だに実態を計りかねている。
どのような物が好きでどのような物が嫌いなのか。
なんとなく似ているということだけしか知らなかった。
それは知ろうとしていなかったから知らなかったのか。
それとも、知ることなんてできない人だから知れなかったのか。
とにかく、連鎖している意外が陽るい。
それはとても不吉な陽るさだった。
もう一つ似たような不審が重なれば関係はまた破綻する。
思えば似た者同士であるから相性がいいというのが間違いだったか。
その陽るさとはまた違うが都会の街は夜でも明るい。
星など到底見えないが、その中においても夜空に月は輝く。
それならばここの市民は月に恋い焦がれているのかといえばそうではない。
ただひたすらに街に焦がれていた。
そんな中で酔狂にもほどがある僕たち。
他にも似たようなことをしている人もいるだろう。
しかし、まさかこの二人でそれをすることになるとは。
二人で満月を眺めながら唄でも歌いたいような気持ちになるとは。
どこにもなかった考えだ。
空気中から取り入れた価値観だ。
この街の摩耗されて発生した粉を取り込んだ。
この街の片隅にあった純粋さを取り込んだのだ。
夜になると涼しい。
澄んだ空気は意味を持っていた。
それが思考の成分を変えてしまう。
結果として、不器用にお月見をすることになった。
こんなことをすることになった。
こんなことをするのは一度きりな気がする。
この一度を何度も繰り返すのだ。
翳ることもない部屋の外には月。もう少し時間が経てばより良いところに収まってくれそうな雰囲気だ。お月見など蕩佚な心持ちがなければしないようなこと。これを許容してくれる恋人は当たり前ではないと思う。スレてしまった人間はこの要求を聞き入れてくれないだろう。許容してくれる彼女だからこそ付き合うことになった。であるならばもっと積極的であるべきだ。
重陽の節句も二人でいるべきだった。
いや、それだと陽が極まりすぎて不吉か。
不吉さを言うならば今もそうか。
こんなにも陽るいのだから。
自然と窓へ手が伸びる。
窓を開けると風が吹く。
それは本当に流れるような風。心ではなく心の汚れだけが流されてしまうような心地のいい風だった。おそらく金魚もその風を喜んでいる。ここに来てからずっと同じような日々だった。それなのにいきなりこんなに清らかな風が吹いてきたのだ。
深くかかっていた“モヤモヤ”が晴れていく。
ガラス越しから肉眼に変わった月は輝きを増す。
晴雲秋月だ。
ビードロのように向こうまで見渡せる。
初めて自分のことではなくて向こうにいる彼女のことを見れた。
視界には入っていたけれどなんにも見えていなかった。
この空間だけでいい気がしてくる。
玉兎が住まわうあの場所を見ているとこれだけでいい気がしてくる。
玉兎は烏のいる太陽を今も見つめている。
まるでお月見をしている僕たちのように餅を着きながら太陽を眺めている。
この場所にいるよりも軽い気持ちでそれをしているのだろう。
これだけでいいのだ。
これだけがあればもう、完結しているはずなのだ。
ここで終わってくれればそれでよかった。
これから先にも人生は続いていってしまう。
「こうしたかったような気がします、ずっと。こうして隣で月を眺めていたかったように思えるのです。私は貴方にお月見に誘われるまで、いや、こうして肩を並べて二人で空を眺めるまで気づけなかったのです」
「僕としても、これほど心を奪われるとは思っていませんでした。やはり、秋というのは素晴らしい季節ですね。空が澄んでいて、低い場所にある月がことさらに美しく見えます。首も痛くなりませんしね」
「私も好きです。秋になると落ち着けます」
「白露のときにはどうなることかと思いましたが、ようやく残暑と言っても問題ない程度になってきましたね。特に、夜になると肌寒さを感じるときすらあります。当たり前の季節の移り変わりがこれほどまでに喜ばしいことだとは思いませんでした」
「そうですね。もしかすると、この世界に当たり前などというものは存在しないのかもしれません」
「僕もそのように思います。まるで夢の中に居るみたいにあらゆることが変化していきます」
「夢のようですね、この一時は。喧騒から離れた場所に私はいます。ここに居ればあらゆる疲れが取れるような気さえします」
「それはよかったです、本当に」
生き残るために必死だった彼女と空を眺める。心にあった汚れはこの街の汚れだ。それが自然によって洗われる。それは本当の自然だ。この街にはほとんどない本物による癒しだ。人間ですら不自然なこの街。夜空ですら不自然なこの街。太陽ですら不自然なこの街。唯一これだけが自然の物だと思われる。月はどこまでも自然なままだ。そんなことに今日まで気づかなかった。
買っておいたプラスチックの容器に入ったみたらし団子を口にする。
それは量産的な普通の味だった。
甘くて少ししょっぱくて団子が柔らかくて。
絵の中の餅を取り出したような、テンプレートのみたらし団子。
これほどまでに文化的な行為の中にも文明が入り込んでくる。
団子の再現性が口の中に入ってきた。
お月見という行事が偽物に装飾されている。
不自然な偽物。
それでも満月になりきれていない月は見事。
完璧に近いお月様を見ているだけで直っていく気がする。
荒れに荒れていた僕たちの関係も修復していくように思える。
心が按摩されている。
柔らかい二人になれる気がする。
こうしている間、二人は繋がり続けるだけだ。
「綺麗な月ですね」
「はい。そうですね、美しい月がよく見えます」
「それは良かったです。窓の外の景色が好きなんです。こうしてカーテンを開けて外を眺める時間が好きで」
「いい所ですね。私もここで暮らすことになるのでしょうか」
「このまま、なにも起こらなければきっとそうなることでしょう」
「なにも起こらないことを祈ります。凪のような心持ちで、私は貴方と接していたいのです。これ以上の幸福はやはりないように思われます。生きた心地に満たされているようなのです」
「僕も生きていると実感しています」
「普段は死んだような生活をしているので、こうした時間の尊さに押し潰されそうです。こんなことを言うと『不思議』だと思われるかも知れませんが、幸福の中にいると不幸なのです」
「それはどういう?」
「初詣に行ったとき、神社のおみくじで大吉が当たり、『これで一年分の幸運を使い果たしてしまったのではないか?』と思ってしまったことがありませんか? そんなことがないのは私も知っています。単なる紙切れでしかありませんし、おみくじで大吉が出る程度の幸福なんてタカが知れてますからね。ですが、幸福すぎると不幸になるような気がいつもしているのです。ですから、私は……」
「どうしましたか?」
「……私としては、この幸福が続くことを願うばかりです。もし仮にこの幸福が凪のように日常に溶け込んでくれたら、つまりは日常という物が当たり前に今日のような幸福になってくれたら、それが私にとっては一番いいことなのです」
「そうですか」
「大吉ではなくて、末吉でいいのです。そんな日常があればそれで十分なのです。私にとっては」
月白風清の中、美人な彼女とともに過ごしている。
これ以上になにかを望む必要などないはずなのに、この先にいかなければならない。行動することが求められている僕にはそれ以外にない。
この一瞬を切り取って写真にし、それを繰り返し見ることで今日を思い起こす。
それさえすれば残りの人生に誤りなど存在しなくなる。
それなのに人生は動画のように活動していく。
動画には誤りが存在してしまう。
綺麗なだけの人間なんて、世界なんてない。
全部が薄汚れている。
摂取できるくらいの汚れが付着していた。
それを摂取してきた彼女はやっと自然な人間になれた。
日常にある幸福を直視することができるようになったのだ。
昔から満月は狂気の象徴とされてきた。
実はそれは間違いなのだ。そうとしか考えられない。
汚れが取り払われた人間のことを汚れた人間は奇妙だと思う。
満月や美しい月によって心が洗われた人たちのことを汚い人たちが非難する。それだけのことだった。この街はまだ汚いままだ。非難されないように“コソコソ”月を眺める。
真っ白な月には汚れなんてどこにもなかった。
神様みたいだった。




