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今日も堅牢のように思われた建物が目的地となっている。案外思い通りにはいかない世の中だ。思っているよりも簡単にあのマンションも壊れてしまうだろう。そうなったときにそこに住む彼女はどうなるのだろうか。もはや、死別の方がお互いにとって幸福な気さえする。とりあえず、僕はマンションへ向かうだけだった。そこ以外に向かうべき場所などなかった。
社会の外にいる僕にはどこにも居場所などなかった。
積極性を求められた僕は待っているであろう彼女に連絡をした。
今までの自分よりも積極的な行動だ。
それをしなければならないということがわかってしまった。
であるならばそれをしなければならない。
そういう簡単な話だった。
辿り着くのは困難だったがここは快適だ。
弱々しい太陽の下でそんなことを思う。
やるべきことは明確であり、それをするだけの気持ちもある。
本心からの行動だった。
重見天日な状況にある僕はもっと明るい場所を目指していた。とにかくなによりも大事なのは自分自身が明るいところへ行くことだ。明るい彼女が暗いところにいる僕のところへやって来てくれるのは嬉しい。しかし、ここが明るくなったのはその手にライトを持っている彼女がいるからだ。それを頼りにして暗闇を抜けるのだ。暗闇には絶望がある。
時間が経つごとに太陽は上へと昇る。
その度に世界は明るくなっていく。
やるべきことは他にもある。
未達の場所が無数にある。
観望的な僕ではいけない場所がある。
これからは毎日違う山を登っていく日々になるだろう。
毎朝目覚める度にそのことを自覚し、行動する必要がある。
本当はお互いに同じようなことを考えていた。
それならばどちらかがそれを口にするだけだ。
どのような語り口であれば違和感がないのだろうか?
さすがに涼しくなってきた秋の空の下でそんなことを思う。
安いアパートよりも高価なマンションの方がよいはずのこと。
それにまつわるアレコレ。
招かれて中に入る。
どこかぎこちない僕たちはこの簡素な部屋で握りしめられているようだった。
勇気を振り絞った彼女。
今度は積極性を高めようとしている僕が勇気を振り絞らなければならない。
しかし、ナイーブな話であってどのように語ればいいのかわからない。
考えていたことを頭の中でリフレインさせる。
どのような形であれば違和感がないのかを考えてここにきた。
口を開くのはこちらの番だった。
お互いにつたない空気を察してきた頃合い。
勇気を振り絞った僕は言葉を発した。
「日本書紀を読んだことは?」
「ありません」
「僕もありません。ですが、こんな逸話を耳にしたことがあります。イザナミノミコトとイザナギノミコトが高天原からこの世界にやってきたとき、そこには寄る辺ない茫漠たる国しかありませんでした。
彼らは天にある橋から矛を指し、国の海をしばらくかき混ぜたあと、矛を“ヒョイっ”と引き上げます。引き上がったそれから滴る塩の雫、海水が国へと落ちると、積み重なった塩はやがて島となったのです。
これから話すのはあくまでも一つの話。その土地に移り住んだ二柱は更なる国土を産み出すためにお互いの肉体の中で最も陰の部分と最も陽の部分とを重ね合わせようとしたのですが、生憎、彼らには子供を作るための知識というものが不足していました。十分な理解をしていなかった。そこで、彼らの前に現れたのが石叩きとも呼ばれる可愛らしい鳥、セキレイなのです。
現れたセキレイは自らの尾っぽを“ペチペチ”と地面に叩きつけるのですが、それを見た二柱はその愛嬌ある仕草から子供の作り方を理解し、その他多くの大地を産み出すこととなったのです。そこから転じてセキレイとは夫婦円満の象徴ともされており、大変縁起が良いものとされているのです」
「そうですか。そんな話があるのですね」
「どう思いますか? セキレイは卑しい生き物だと思われますか? それとも、世界にとって必要だった、立派な益獣だと思われますか?」
「その話を聞く限りでは益獣のように思われます。もちろん縁起が良い物であるとも思います」
「であるならば、私たちもセキレイに習いませんか? 私たちも一度失敗してしまいました。そこから新たな物を生み出すために知識を借りませんか?」
「それはつまり?」
「そういうことです。そして、それは僕にとってはもっと意味のあることです」
「どんな意味があるのですか?」
「結婚をすることを前提に同棲しませんか? そして、もし貴女さえよければその先にもいきませんか?」
「その先……それはやはりそういうことですか?」
「命の話です。僕だけで決められることではありません。考えておいてください」
言わなければいけないこと。
それを言うことができたことにまず安堵する。
あまりにも回りくどい言い方にはなってしまった。
しかし、これだけ丁寧に言えば相手に与える不快感も少ないだろう。
この会話の行き先はまだわからない。
ボールを投げた僕はそれを返却することを求めなかった。
まだそのときではないと思って、困惑している様子の彼女に託した。
これから先がどうなるのか未知数だ。
しかし、ある意味ではこれは正しい道だ。
役割を失った僕にとっては尚更そうだ。
そのはずだからこの問題は解決したい。
渡したボールをまた受け取れることを願う。
あらぬ方向へ飛んでしまってキャッチボールが終わる。
そんなことなどないように思いながら沈黙に戻った。
玉石同砕な末路が訪れて、全てが更地となって人間社会を一からやり直す。
いや、人間以前にまで戻ってゼロからやり直す。
ゼロの世界の直後の世界の状態。
それは神話の時代の淀みだけがある世界に似た状態になる。
そのときには純粋な労力として自分の存在が必要となる。
しかもそれは自然な社会しかない場所だ。
そうなれば自分もまともでいられる。
多少の不具合すらも呑み込むほどの世界になってしまえばそれでもいい。
壊れた物さえも大切に扱う世界になればいい。
必要とされたいわけではない。
必要とされたいなんて全くもって思ってはいない。
しかし、必要とされていないということは不自然なことだ。
生きているのに生きていないように扱われているなんておかしい。
必要としてくれる人がいる世界こそが居るべき世界だ。
父親という存在は絶対のように思えた。
自分に子供がいたとする。その子は壊れた僕であったとしても必要としなければならない。それほどまでに弱い存在だからだ。壊れた父親であったとしても子供にとっては父親だ。絶対的な存在だ。
死生有命である以上、物事は運に運ばれて進んでいく。
恵まれた僕に与えられた富は単なる占いでしかない。
それでも一歩踏み込んでみた。
自分の力で手繰り寄せなければならないということだ。やはりそれ以外にやるべきことなどない。それすらある種の運であったとしても、行動すら運によって決まっていたとしてもやらなければならない。こちらから向こうに歩み寄っていかなければどうにもならない。
甲斐性のない僕がこんなことを言うのは無責任かもしれない。
発生する問題は騙されているような彼女が負担するのかもしれない。
それでも、言わなければならないことを言わないという失敗。
それを踏まえれば何もせずに立っているだけではよくない。
改善しなければすぐに崩壊するような関係性だ。
そういう自然な関係性だ。
あるべき姿でもあるはずだ。
無理矢理にでもこじ開けなければならないのだ。
この街では一度閉まった扉を開けるのは大変だ。
だから、閉まる前にするべきことをするのだ。
結婚をするべき僕はそれを同棲したかった彼女に言ってみた。
同棲がしたいということはその先も見越しているはずだ。
なにも不思議なことはない。
不思議ではないということが最適かはまだわからない。
天壌無窮な物などない。
限りある大地の中で似たようなパターンを繰り返す類似品。
それらは似ているだけで異なる物。
あらゆる物には終わりがある。
しかし過去から現在に至るまで繋がりつづけている物がある。
それはやはり天地であり、思考であり、遺伝子だ。
こんな時代に命を産むことの無責任さを問われれば口を噤むことしかできない。
それでも、儚い物が繋がり続けるためには命しかない。
類似品を生み出すためには命が必要になる。
どれだけ遠く離れたところに居ようとも共有しているという事実。その事実は否定された方が多くの人にとって都合がいいのかもしれない。自分で選ぶことができないことによって自分が規定されてしまうということ。それは当たり前のことではあるが当たり前とただ吐き捨てるようなことはできないこと。
子供という強烈な繋がりの発生。
その重たい現実は受け入れがたく、現代には相応しくない。
個人という存在が重要視されている現代には相応しくない。
相応しくなかったとしても愛した人との子供が欲しい。
それは二つとない物だ。
二つの物から一つが生まれる。
誰かに似ているが誰とも同じではない唯一の個人が生まれる。
時間が経った。
流れていた沈黙はいつしか消え去り、あるべき会話をしていた。
ちょっとした買い物から帰ってきた後。
思いを重ねながら非日常にトリップしたような僕たち。
こんなに簡単に分かり合えるというのであれば最初っからそうすればよかった。
わかるということは当たり前のことだった。
不安だけが目の前にあった。
この不安という化け物を殺すことはできない。
この不安は動物のような僕たちを殺すこともできない。
つまりはこの化け物とどう付き合っていくのかが大事だった。
化け物から逃げていただけの僕は奇妙なモンスターと触れあう。
それは意外にも柔らかくて優しい物だった。
語り合うことで自分たちの本能が呼び起こされる。
本能は思っていたよりも単純な良いものだった。
現実よりも夢の中にいるみたいな心地だ。
これが欠けていたのに人生を語っていたなんてその愚かさに呆れる。
愚かな自分にとって、今日という一日は特別な物だ。
それはきっと深いところで感謝するような一日だ。
そんな一日の終わりを迎えるまで。
それまではひたすらに化け物と向き合うのだった。




