10
台風一過の朝。何事もなかったかのような街。
崩壊するかもしれないという期待は外れ。
今ではもう空っぽになったような街だけがある。
心地のよい白と青の空、花のような金魚鉢で舞う紅白の金魚。
それが美しくて、激動の日々の疲れが癒える。
激動と言っても忙しくしていたわけではないが。
この街が少しだけ純粋になってくれたようだ。
こんなに綺麗だと実家を思い出す。透明だと思えるほど純粋な町だった。それゆえに悩むことも多い。子供のような純粋さで話しかけられると対応に困ることばかりだ。それすら今は懐かしく思う。
順風満帆に行くわけがない。
それを再確認する良い機会だったと思うこと。
それができればこの街にいる意味がない僕にとっては良かったと言える。
帰省ならばいつだってできたのだ。
融通無碍の意を得たようだ。
これまで逃げ続けてきた僕。
洗い流されたような今日の中で望郷に浸り、遠くの両親に想いを馳せる。
振り出しに戻って初心を思いだそう。 秋分に帰ったら思い出話でもしようか。そして、破綻した関係の話もしよう。無様な自分の話をしたらなんと返されるかな。きっと失望されることにはなるだろう。しかし、時間が経てば笑い話になるかもしれない。笑われても気にしないほどの僕にならなければならない。それは元々の自分だ。これを機会に元に戻ろうか。
戻れるものなら戻りたい。
そんなことを思っていた僕。
くだらないことを考えていた僕。
過去を振り切ろうとしていた僕はまた引っ張られる。
弱い力で袖を持たれている。
これが最後のチャンスのように思えた。
蒸発したはずの彼女から連絡がやってきた。
風向きが変わって気体が立ち止まっている僕にやって来た。
そこには「今すぐにでも会いたい」という短い言葉。
弱い力に強く引き留められる僕はそれを了解した。
すると、「待ってて」とさっきよりも短い言葉が来た。
順風を食らった船は進む。
港からそれが見えた。
どうやら向こうからコッチに来てくれるようだ。
どういう風の吹き回しだ。
それが全くわからない。
台風が過ぎて晴れやかになった空を眺めながら待つ。
大気の流れが見えるようだった。
その下には小さな生き物が舞っている。
高い建物の壁に付着した水滴のきらめきに歓喜している。
遠くに見える自然を自分の物にしているようだった。
小さな生き物は小さな喜びで舞っていた。
上空の大気のように揺れる。
それは微かな希望だった。
しばらくするとチャイムが鳴り、来訪者。
さっきの話からしてもどう考えてもそれはあの人だ。
そうではない可能性を模索することすらバカらしくなる。
早く会ってしまいたいという気持ちに支配されていた。
このままだとなにも手につかないままでいつもの日常が終わる。
浮わついた心は着地する場所を探している。
来る人と待つ人がいる。
交互に入れ替わる。
それが誰かなど確認することもなく、“ガチャ”っと扉を開けた。
この街の硬さはあくまでも人間の心の硬さだ。
社会の硬さでしかない。
世間体としての人生がまた戻ってきそうな予感がある。
しかしそんなものがあることさえ知らなかった愛情に触れた。
利用しようとしていたときに持っていた愛情よりも深い愛情。
普通の恋愛における愛情よりも深いと思える普通の愛情。
世間体だけが行動指針ではなかった。
それによって開放的になってしまっている。
「こんにちは」
「お久しぶりです。どうかされましたか?」
「一度ちゃんと向き合うことにしました。ここで、こんな形でお別れするほどの関係でもなかったはずですからね。顔を見たいという当たり前の感情もあったのでこうすることにしました」
「そうですか。ありがとうございます。たしかに僕たちの関係は、蒸発にも似た終わり方が相応しくないでしょうね」
「金魚にはもうエサをやりましたか? もし、まだなのであれば私があげてもよろしいですか?」
「もちろんです。まだ不馴れなものでいつどのようにしてエサを上げればいいのかわからなかったのです」
「そうでしたか。それなら私が」
「ありがとうございます」
「美しい金魚ですね」
「はい」
玄関先で軽く会話をする。
そして、なんでもないような顔で部屋に入ってくる彼女。
他愛のない会話に努める僕ら。
何事もなかったかのように振る舞っている。
この間の衝突のことを忘れてしまって、全てを一からやり直そうとしている。そのために、金魚へエサをやることにした彼女。前に戻ろうとして必死だ。どちらもそうだ。戻れるわけもないのにそれを願っている。
または時を見計らっている。
全部を変えるタイミングを探している。
エサを上げるために金魚に近づく彼女。
ありきたりな会話をするために帰ってきたわけはない。
一度手を離してしまった僕はどうやってその身体を掴めばいい?
向こうから手が差しのべられるのを待つしかない。
こちらから切り出すという選択肢は恐らくない。
なぜならば主導権は向こうにあるからだ。連絡は「会いたい」だけだった。しかし、本当に会いたいだけなわけがない。伝えたいことがある彼女は変わるためにここにきた。変化を与えるような言葉を吐きに来た。そんなことを思っていると話しかけられる気配を感じた。言いたいことがある。それを受け止めることはできるのか。受け止められなければ終わりだ。
思ったよりも辛かった生活に戻ることになる。
それだけといえはそれだけでしかない。
なんでもないわけではない僕たちには微妙な空気が流れる。
エサをあげ終わった彼女はいつものようにソファに座っていた。
その視線はどこでもない場所を見ている。
前と同じような空気だ。
それは破裂寸前の風船のような空気ということだ。前はいつの間にか膨らんでいた風船に気づくことができかった。しかし、今回は望んだ結果、こうなっている。だから、今自分たちの身に降りかかっている物を理解することができている。
お互いにこれを望んでいるのだ。そして、破裂しないように空気を逃そうとしている。それさえすることができれば問題なんてない。無事に元に戻ることができる。
視線に困っている僕はやはり金魚を見ていた。
与えられたエサを食べ終わって花のような金魚鉢の中を泳いでいる。
それがなんの意味を持つのか。
思えばこの生き物はなんのために生きているのだろうか。
「私と一緒に暮らしませんか? 今まではずっと待っていました。でも、本当はどちらから言ってもよかったのです。だから、私から言うことにしました」
「え? 貴女と一緒に? 同棲するということですか?」
「早とちりだと思ったんです。貴方は私に興味がないと思い込んでしまっていたんです。それで取り乱してしまいました。でも、よくよく考えれば審判を仰ぐような段階でもないと思いまして。どうでしょうか? それは悪いことではないと思われますが」
「金魚のことは解決しそうです」
「え?」
「別々に暮らす必要などありませんよ。僕たちが繋がっていれば金魚鉢を動かす必要などありませんから」
「それはつまり?」
「二人で共に暮らしていれば金魚のこともあらゆることもスムースになります。僕は貴女の意見に賛成です」
「そうですよね。その通りだと思います。私はそう思っていました。金魚鉢とその中にいる金魚を見せてもらったその日からずっとそう思っていたのです」
「あまりにも愚鈍で頓馬な僕はそのことに気づくことも、貴女の気持ちに気づくこともできませんでした。それは言葉にできないほどの浅慮であり、生きる意味さえ問われてしまうほどのことでした」
「そこまで言わないでください。自分を卑下するのはやめてください」
「言わせてください。だからこそ、約束させてください。これから先、僕は貴女のことを今までよりももっと深く考えます。そして、もっと奥まで踏み込みます。それを貴女が望んでいるのであれば」
「踏み込んでください。だって、これからは同じ建物で生活をするのですから、秘密は最小限にしましょう。でないとお互いに肩身が狭い思いをすることになります」
「そうしましょう。秘密は最小限で」
「ですね」
会話は不意にはじまった。
今までのは会話ではなく確認だった。
お互いに平然を装っているという確認が済んだあと会話になる。
まともな彼女がくだらない僕の家にやってきたのは意外だった。
あまりにも分かり合えないことが理由で消えたのかと思っていた。
しかし、話を聞いてみるとそうではないらしい。
シンプルに察しの悪い僕に違和感を覚えていただけだった。消極的すぎる僕に対して呆れてしまっただけだった。そして、察しの悪い部分を、その消極性を許容してくれただけだった。
このまま、音信不通になり、何事もなかったかのような二人へ。何事もなかった頃の二人へ。そんな関係へ戻っていくものだと思っていたけれどそうはならないみたいだ。意外な結末を迎えることになって、少しだけ拍子抜けした。
磁力が発生している。
それによって離れたりくっついたりしている。
全身に流れている静電気が磁力となり、特定の極を持つ人間同士が離れる。そして、異なる極を持つ者同士が繋がる。
静電気が流れている僕たちは異なる極になれたようだ。
これはある意味で運命のようだ。
それならばやはり最愛の人のようだ。
そんなことすら考えたことなどなかった。
しかし、もしかすると自分たちは思っているよりも幸運なのかもしれない。
あらゆる人に機会があるわけではない出会い。
幸運でなければ手繰り寄せられない繋がり。
たしかに運命という物が降ってきていた。
金魚は今もひたすらに泳ぎつづける。
それが運命なんだと運勢を受け入れている。
占いを信じるように人生を信じる。
そこにあるのは非科学と純粋な祈りと不確実性。
受け入れるよりももっと能動的になりたい。
そうならなければならない。
もっと幸運を手繰り寄せないといけない。
くっついて離れたくない。
磁石のように。
最初っからそうなると決まっていたみたいに。
一個みたいに近くに居たいのだ。




