第三十話 合理性を欠く判断
焚火をした事が功を奏したのか、魔獣は朝まで近寄って来なかった。生まれて初めで大自然の中で眠り、いままで味わった事のない開放感を感じている。あたりが薄っすらと明るくなり、そばにはヴェルティカとメルナが眠っていた。
昨日は苦しそうだったヴェルティカも少し落ち着いたのか、今は静かに寝息をたてている。
《そろそろ動いた方がいいでしょう》
なんでだ?
《気温が上がればそれだけ体力を消耗します。まずは水分を補給してください》
俺は言われるまま川辺まで行って、顔を水に近づけてゴクゴクと飲む。水は冷たく透き通っていて、体にしみわたってくるのが分かる。すると後ろから声がかかった。
「コハク、おはよ」
「水を飲め」
メルナも起きてきて俺の側で水を飲んだ。
「ヴェルティカにも飲ませなければ」
「起こしてみる」
俺とメルナがヴェルティカの側にいく。サーモグラフィーで見ても発熱している様子はなく、寝息も楽にしていた。
「ヴェルティカ。ヴェルティカ」
メルナが軽く揺さぶると、ヴェルティカがゆっくりと目をあけた。
「…メルナ…」
「大丈夫?」
「私は…」
そしてヴェルティカがゆっくり体を起こして周りを見た。
「ここはどこ?」
「山を下ってきたところにある川だよ」
「あまり覚えてなくて…」
「コハクが連れて来てくれたんだ」
「コハク。ありがとう」
「問題ない。それより水を飲んだ方が良い」
「ええ」
俺がヴェルティカに肩を貸して立たせると、自分で歩いて川辺に行った。両手を皿にして水をすくいあげコクリと飲む。
「冷たいわ」
「透き通っている」
「ほんとね…」
「ここは森に近い。早く下山したほうが安全だ」
「行きましょう」
俺達は再び川に沿って山を下った。相変わらずヴェルティカは憔悴しきっているが、メルナが時おり話しかけると受けごたえは出来ている。しばらく歩くと太陽が真上にきて、かなり気温も上がってきた。ヴェルティカは肩で息をしており苦しそうで、メルナも先ほどから声を発していない。
《休息が必要でしょう。何か食べないと倒れるかもしれません。彼女らに倒れられたら生存率が低下します》
了解だ。
「少し休もう」
「はあはあ。はい…」
「うん…」
俺達は川の水を飲み、木陰に座って休みを取る。だが問題は食料で、ここにそんなものがあるとは思えない。
「食料を調達できるところまでどのくらいあるだろう?」
メルナが答える。
「うーん。ここがそもそもどこか分からないから」
「そうだな」
するとヴェルティカが言う。
「恐らくここはリバンレイ山脈のどこかだわ、太陽が右から左に動いている。パルダーシュの都市の方角から考えると北に位置しているはずよ」
「このあたりに街はあるのか?」
「麓には村があると思うけど、丁度よくそこに下りられるかどうか」
するとメルナが言った。
「でも村は川のほとりに出来るから、このまま下りればあるかもしれない」
「そうね…」
「なら少し休んだらまた進もう」
「わかったわ」
「うん」
木陰で休みながらヴェルティカはずっと俯いている。メルナも疲れてしまったのか黙ったままで静かになった。俺も話す事は無いので、ただ黙って周りを警戒している。するとぽつりとヴェルティカが言った。
「最後に…ばあやが私達を助けてくれた」
「そうだな」
「あの状況を考えると、もう都市は…」
「……」
だがメルナが少し声をはって言う。
「行って見なくちゃどうなっているか分からないよ!」
それにヴェルティカが苦笑いをして、ポンと頭に手を乗せる。
「メルナ。そしてコハクも聞いてくれる?」
「うん」
「ああ」
「麓の村に着いたら別れましょう」
「えっ? どうして?」
「パルダーシュは火の海になっていた。まだ危険が潜んでいる可能性もある。そんな危険な所について行く義理立ては無いでしょ?」
「……」
するとアイドナが脳内に告げた。
《ヴェルティカの提言どおり危険性は高いと推測します。生存率を上げるなら、ヴェルティカと離れて別々になった方が良いでしょう》
……
確かに生存率を上げるならそれが最善だと思える。衰弱した女を連れて旅をするのは、いろいろなリスクが伴うし、ましてやあの魔獣が大量に出没した都市に帰るのは危険だろう。ここはヴェルティカと別れ、俺とメルナで生きていった方が生存率は上がる。
合理的で危険性を回避するならそれが一番だ。だが…なぜだろう? 俺の心の奥がそうしたくないと言っている。ヴェルティカという女を捨てて、自分達だけが生き延びる事を良しとしていない自分がいた。なぜかは分からないが、理屈では考えられない心の動きだった。
「いや。一緒に行こう」
「コハク。その必要は無いのよ」
「俺とメルナはヴェルティカに買われた奴隷だ。なら一緒に行くのは当然だろう?」
するとメルナがニッコリ笑って言った。
「そうだ! コハクがそう言うならそうだよ! ヴェルティカ! 一緒に行こう」
「でもここからはかなり険しい道だし、危ないのは魔獣だけじゃないわ」
「なら、なおの事、俺達がいないとダメだろう」
「そうだよ!」
「コハク…メルナ…」
ヴェルティカの目からポロポロと涙があふれて来る。恐らくこの決断は、生き延びるためには大きな間違いだろう。だがこの選択が一番正しい気がしたのだ。
「一つだけ言っておくわ。あなた達は奴隷じゃない、ぐすっ 」
ヴェルティカは泣き笑いしている。
《その判断は生存率が著しく下がるかと》
多分…そういうことじゃない。俺にもよくわからないが、俺はヴェルティカを無事にパルダーシュに連れて行きたい。
《わかりました。ではその選択で一番生存率が上がる方法を選択します》
そうしてくれ。
AIであるアイドナには感情が無いはずだが、どこか諦めたような雰囲気が漂っている。たぶんAIに感情などあるわけがないので、俺が勝手にそう捉えているだけだ。
「そろそろ行くぞ」
「ええ」
「うん」
俺達は再び立ち上がり、川に沿って山を下って行くのだった。