第百八十話 リンデンブルグ帝国の賢者
今日はこの男爵領に、リンデンブルグ帝国が商品の買い付けをしに来る。
そのため俺達の屋敷には、シュトローマン伯爵領から装備屋を呼んでいた。何故装備屋を呼びつけたかというと、何かあった時の口実づくりである。隣国との商売を、シュトローマン伯爵領の商人が勝手にやってる事だからと、逃げる為の口実の為だ。
マージが言う。
「僅かばかりでも、親元であるシュトローマン伯爵に税収として入るわけだから、彼にも責任が発生するのさね。知らなかったでは済まされないのが、領を治める者の大変さなのさ」
《学習しました。どうやらリスクヘッジになるようです》
なるほどな。
《馬車列の音が聞こえます》
「どうやら帝国が来たようだ」
「そうかい」
すると使用人が飛び込んできて言う。
「いらっしゃいました。こちらに向かっております」
ヴェルティカが言う。
「じゃあ、お出迎えをいたしましょう」
メルナが無邪気に聞いて来た。
「王子様来ないよね?」
「えっ。もちろん来ないわよ。商品の買い付けに殿下が来るはずないわ」
「そっか」
そして俺達は門の外に出る。しばらくすると、馬車列がやって来た。
立派な馬車が一番前を走ってきて、俺達の前で停まった。従者が扉の前に来て、馬車の扉を開けると早速ウィルリッヒとフロストが下りて来る。
ヴェルティカが丁寧にお辞儀をしたので、俺達もそれに習っておじぎをする。
「これは丁寧にありがとうございます。でも畏まらなくていいですって」
ウィルリッヒが俺に手を出して来たので、普通に握り返す。そしてフロストも俺に手を出してくるので、それを掴んで挨拶をした。
「私まで、また来てしまったよ」
「護衛が必要だろ?」
「リンデンブルグが、そんなに近いとは思わないのですが?」
「いやいや。何処にも寄らないで来ればこんなもんです」
「そうですか…」
するともう一人、白髪白髭の老人が馬車を下りて来た。そして深々と俺達に挨拶をしてくる。
「こりゃどうも。わしゃ、ヴァイゼル・メルカトルという者ですじゃ」
「コハクという」
「妻のヴェルティカです」
「男爵様と、あなた様がヴェルティカ嬢。大きくなられました」
だがヴェルティカは知らないらしく、キョトンとした顔で答える。
「お会いになった事がありましたか?」
「まだ赤子でしたからな。きっと覚えておらんじゃろうと思います」
「すみません」
「いやいや。して、こちらが王覧武闘会の?」
ヴェルティカがニッコリ笑って言う。
「はい。優勝者である、主人のコハクです」
「ほほっ。これは面白い! ボンのおっしゃる通りですな」
「じい、客人の前でボンはやめろ」
「殿下と剣聖がおっしゃることが良く分かりましたわい」
「でしょ?」
何の事か分からないが、とりあえずヴェルティカが言う。
「お食事を用意して御座います。昼食を済ませましたら、うちで依頼している業者と工場へまいりますわ」
ウィルリッヒが言う。
「いや、私達はすぐに工場でも」
するとヴァイゼルが言う。
「殿下、そういうものではありませんぞ。ここは是非ともご相伴にあずかるべきですじゃ」
「わかった。ではよろしくお願いいたします」
どうやら自由奔放そうなウィルリッヒも、この爺さんの言う事は素直に聞くようだ。
そのまま、俺達の屋敷の客間に入れて、従者達は別室で食事をしてもらう事になる。席に座ると料理が運び込まれ、ヴァイゼルがニコニコ笑って言った。
「これは! パルダーシュの郷土料理ですなぁ!」
「ご存知ですか?」
「ふふ。あなたが赤ん坊の時に、賢者に会いに行った事があるのですじゃ」
「そうですか……」
「賢者は残念ですじゃ。ですが、あの偉大な大賢者、マジョルナ・ルーグ・プレディアが死んでしもうたとは、どうしても思えんのですじゃ。それほどに酷い出来事だったのじゃろうか?」
「はい。それは酷いものでした」
「痛ましい事じゃ」
そして俺達は、ヴァイゼルのいろんな話を聞きながら料理を食べた。
《これがマージの言っていた賢者ですね》
俺達に目を付けたというあれか。
《マージが言っていた名前と一致します》
そうか。
ヴァイゼルは料理をすっかりと平らげ、ヴェルティカに言った。
「まさかここに来て、パルダーシュの上手いものが食えるとは思わなんだ。ありがとうございます」
「上品な料理ではございませんが」
「これが良いのじゃよ! こんなうまいのは他にない!」
するとウィルリッヒとフロストも頷いていた。
「宮廷料理は味気ないが、これは食べ応えがある。やはり北国という事もあって、しっかりした味付けが特徴のようです。結婚式の時にもいただきましたが、とても美味しかったです」
「お気に召されたようで何よりです」
一通り料理を堪能して、お茶をし終わった時にヴェルティカが言う。
「では、工場の方に移りましょうか」
「いよいよですな!」
そして俺達は、リンデンブルグの使者達と、シュトローマン領からつれて来た装備屋と一緒に工場へと向かう。工場まではニ十分もかからず、俺達が先におりて相手を誘導した。
出来上がったものを見て、ウィルリッヒが驚いている。
「こんなに早く、予定数量が出来上がるとは思いませんでした」
「殿下のご要望でしたので、大至急工場を作り人を雇い入れましたわ」
「正しい判断です。継続してお願いいたしたい」
「もちろんですわ」
納める物資を見ているとヴァイゼルが、魔法回復薬の薄めた物に目を付けた。
「これこれ…これですじゃ。これを見て、賢者マジョルナがまだ生きとるのじゃないかと思ったのですじゃ」
だがそれをウィルリッヒが諫める。
「悲しい記憶を掘り起こしてはいけないよ。爺」
「す、すまんのじゃ。この薬の調合の魔法陣は誰が?」
それについて、ヴェルティカが答える。
「恐れ入ります。ヴァイゼル様。機密事項となっておりまして、口外する事は出来かねます」
「そうですか。それはそうですな!」
《鋭いですね。マージが言うように要注意人物かもしれません》
気を付けておこう。
そしてヴァイゼルはまじまじと俺を見て言う。
「先ほどは初対面じゃったからと思っていたが、やっぱり我慢できんわい」
「どうしたんだい? 爺」
「魔力量が膨大過ぎる。それに何やらその魔力が、人間の物では無いように感じるのじゃ。人間が、こんな強力過ぎる魔力を保有しているものじゃろうか?」
それには、またウィルリッヒが制止する。
「爺。いささか失礼じゃないか? コハク卿は人間だし、それはヴェルティカ奥様にも言ってはいけない事だよ」
「すまんのじゃ! もちろん人間じゃと思うとるよ! わしゃ素直な感想をのべただけじゃ」
「心で言ってくれ」
「分かったのじゃ」
《やはり見抜かれているようです》
原理までは分からないだろう。
《マージと似たような思考能力を持っている者だと思われます》
どうやらそうらしい。
とにかく商品を見てもらい、数は間違いなくある事が確認された。しかもコートがスタイリッシュになっている事に偉く感動し、石鹸の出来栄えも格段に上がった事に驚いている。
そこでヴェルティカが三人に言った。
「では紹介したい人がおりますわ」
ヴェルティカと一緒に工場に入り、中で指導しているアーンに向かって言う。
「アーン。こっちに来て」
「なんだっぺ?」
「こちら、リンデンブルグ帝国の王子様よ。そしてこちらが剣聖様で、こちらが賢者様」
「あ、どうも。アーンだべ」
だがそれを見て、ヴァイゼルが目を見開いている。
「なんじゃ! ここはびっくり箱かいな! なんでこのような所に、伝説級の鍛冶師がおるんじゃ!」
ウィルリッヒが聞く。
「な、どうした? 爺」
だがヴァイゼルが深々とアーンに礼をする。
「天工鍛冶師にお会いできるとは思っておりませんでした。ヴァイゼル・メルカトルというものです」
「あ、どうも」
「これは…凄い事ですぞ」
皆がポカンとしている。
ヴェルティカが代表して聞いた。
「なにがでございますか?」
「天工鍛冶師が、力を貸してくれるなど国家を揺るがす一大事じゃと、そう認識しておりますがな」
「「「「えっ!」」」」
「ありえんことじゃ。何故に…いや…」
そう言って、ヴァイゼルが俺を見る。
「必然…なのじゃろうな……」
意味深な感じではあるが、俺には何の事か分からなかった。
当のアーンですらキョトンとしているので、ヴァイゼルの驚きがいまいちわからない。
すると…ヴァイゼルは悲しそうな顔で言う。
「これを、マジョルナ様が見ていたら、さぞ喜んだことでしょうなあ」
いや、まだマージはいるし。しかもまんまと天工鍛冶師を手懐けているし。
「ありがとうございます。きっとマジョルナも喜びますわ」
ヴェルティカがしみじみとそう言うと、場がしんみりとする。魔導書になって生きている事は、ヴェルティカも言うつもりはないようだった。俺は黙ってその様子を見守るのだった。