第百七十一話 男爵家の濃密な一日
アイドナはなぜか集中的に俺を眠らせたようで、深層睡眠から数時間で目が覚める。横ではヴェルティカが眠っており、俺は彼女を起こさないようにベッドを出た。
不思議な感覚だった。ヴェルティカとは転生してから、ずっと一緒にいたと思うが、こんな感覚になったのは初めてだ。気持ちよさそうに寝ているヴェルティカを見ると、なぜか強く守らねばならない気持ちになって来る。
どういうことだ?
《ノントリートメントに強く影響を受けているようです。その状態では、あなたの生存確率を下げる可能性があります》
生存確率を下げる?
《自身より、他の命の生存確率を高めようと思えば、確率は下がります》
なんで俺は、そんな風に考えたんだ?
《わかりませんが、生存確率低下を防ぐために強制的に眠っていただきました》
よくわからない。アイドナは俺が、ヴェルティカの事を自分の命よりも優先させると判断したという。自分ではそんなつもりはなかったが、アイドナはそのように判定したようだ。
生存確率が下がるのはどうしてだ?
《他の命を自分の命より優先させるという考えは、非常に非効率的で自身の生存確率の下がる考え方です。分泌物をコントロールしましたが、収まる事はありませんでした》
まるで…ノントリートメントだな。
《はい》
だが、何故かモヤモヤが収まらない。
どうやら俺はノントリートメント達の中で生きている間に、強くその影響を受けてしまったようだ。アイドナはその危険性をいち早く察知し、俺の生体の制御をしたらしい。
さて。
外はまだ暗いが、俺は外に出る事にした。自分の身に起きた出来事が良く分からずに、何故かいてもたってもいられなくなったのだ。二本の剣を持って庭に出て、無心に剣を振る。
シュッ! シュッ! と空気の切れる音がし、自分の体に問題のないことを確認する。これだけ問題なく体が動くのに、何故か俺の考えにはモヤモヤが残る。俺はそれを忘れさるかのように、太陽が昇るまで剣を振り続けた。
「おう。修練か」
振り向けばボルトが居た。
「ああ。体は問題ないんだが、何かモヤモヤするんだ」
「モヤモヤ。気分が晴れないのか?」
「わからん。だが剣を振っているうちに忘れて来た」
「そうか。まあ悩みがあるんなら、何でも話してくれ」
そう言われて、俺はボルトに剣を一本渡した。
「手合わせしろ」
「わかったよお館様。手加減してくれよ」
「わかっている」
アイドナが言うには、ボルト達の剣技をアップする事は俺の生存確率が上がる事らしい。だから定期的に、風来燕と手合わせをするようにしていた。
とはいえガイドマーカーが全てを予測し、ボルトは俺に手も足も出ない。そこでアイドナは、風来燕育成用シミュレーションを構築した。そのランクの調整をしながら、俺はボルトを相手にしてるのだった。ボルトの動きが格段に良くなってきている。最初に出会った頃とはまるで別人で、本人は強化鎧のせいだと思っているがそうではない。
名前 ボルト
体力 187
攻撃力 134
筋力 200
耐久力 196
回避力 190
敏捷性 239
知力 98
技術力 312
ステータスは既にパルダーシュの騎士アランを上回っており、ビルスタークに迫ろうとしてる。育成趣味レーションのおかげで、順調に数字を伸ばして来たのである。ガロロも同じようにステータスが上がっているが、同じように強化鎧のおかげだと思っているのだ。
「いい動きだ」
「ああ。息が上がらなくなってきた。なんつーか、今までは無駄に動いてたなって思う」
「もっと非効率を排除する事だ」
「少しは強くなったんかねえ?」
「なっている。ギルドの試験を受けてみたらどうだ」
「やめとくよ。試験は強化鎧を着れないんだ」
「そうか…」
まあ神殺しの名前の元に、ヴェルティカがその価値を釣り上げたから、いまさらランクを上げてもメリットはない。
すると遅れて他の風来燕の奴らが、顔を洗いに外に出て来る。
「あら。もう修練してるの?」
「だいぶ暖まったぜ」
「ボルト、あなたは変わったわね」
「なに。これからコハクが大きくなっていくのに、隣りに立ってるやつがしょぼかったらどうしようもねえだろ? 少しでも足を引っ張らねえように、必死にくらいついてんのさ」
「熱いわね」
「さてな。そう言うフィラミウスも、賢者様からいろいろと教えてもらってるじゃねえか」
「私の人生で、魔法を賢者様に教わる時が来るとは思わなかった」
「おかげさんで、俺達の狩りもめちゃくちゃ楽になったしな」
「たぶん、まだまだよ。賢者様の足元も見えてこないわ」
「そんなにすげえのか?」
「ええ。その知恵はアリとドラゴンくらいの差があるわね」
「ひゅーっ! そっか」
《フィラミウスはかなり成長しています。賢者との差が分かるという事は、何処を目指せばいいのかが見えているという事です。魔法使いは貴重ですので、より能力に磨きをかける事を推奨してください》
「フィラミウス。うちの領にはフィラミウスとメルナしか魔法使いがいない。俺の領地が大きくなるためには、二人の力を無くしてはならない事だ。だから成長してくれるのはとてもありがたい」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。せっかく一緒に来たのだもの、私も役に立ちたい」
ガロロもベントゥラも言う。
「そうじゃ! わしらはお館様に賭けたのじゃからな」
「違いない。こんな辺鄙な所でも、めっちゃくちゃ凄いものが見つかったしな。それに、まあ表立っては言えねえけど、あの大国のリンデンブルグが後ろ盾なんてな」
ボルトが笑う。
「まったくだ。そんな貴族いねえって」
「そうか。なら俺達はもっと高みを目指して行こう」
「「「「おう!」」」」
そこで俺が、ボルトに昨日から気になっている事を聞く。
「で、ボルト。昨日聞いた、娼館の話だが」
だがボルトは、慌てて俺の口を手で塞いだ。
「ば、ばか! おまえこんなとこで何言ってんだよ!」
すると三人が訝しい目でボルトを見ている。
「あら…ボルト。お館様に何を吹き込んでるのかしら?」
「い、いや! ちがうんだって!」
「そういう所に行きたいなら、あなた一人で行ってらっしゃいな。奥様がいるコハクには関係のないことよ」
「いかねえって。ちょっとそんな話になっただけだよ! なあ! コハク!」
なにか縋るような目で見て来る。
「そうだ。たまたまそんな話になっただけだ。別に行くとは言っていない」
「あら。そう、それならいいのだけど、コハクはお嬢様がいるのだからだめよ」
なにがダメなのかは分からないが、とりあえず頷いておく。
「そ、そんで今日はどうすんだ? コハク」
「リンデンブルグの王子とコートを交換したんだ。皇族の着ているデザインであれば、最近の流行りだろうと言う事になって、それを作る予定でいる。だからガロロは手伝ってほしい」
「うむ。わかったのじゃ」
そしてボルトとベントゥラに言う。
「ボルトとベントゥラは、領のはずれにある湖で強化鎧の潜水試験をやってほしい。フィラミウスとメルナを連れて行ってくれ」
「「おう」」
「フィラミウスとメルナは、ボルトとベントゥラの補助をしつつ魔法薬を試してほしい。何段階かに薄めた物と原液とで、どれだけ差があるか。それを踏まえたうえで、実用的なラインを探ってほしいと思っている」
「任せて」
《スケジューリング通りです》
彼らが強くなってくれれば、更に領の力が上がるんだろう?
《はい。装備だけが強くなっても人員がそれを使いこなせねば、その能力は十分の一も発揮できません。装備の強化及び、人員の育成が最重点課題になっています》
わかった。
《物資の回収と資金調達、貿易に関してもスケジューリング通りに進んでいます。併用でそれらを行いつつ、並行で全てを底上げする事で二字曲線的に上昇していきます》
現状はスケジュール通りなんだな?
《理想通り》
わかった。
朝食をとるため屋敷に戻り皆は食事を終えると出て行った。ヴェルティカが俺のところに来て言う。
「マージに報告しなきゃ」
「そうだな」
俺はヴェルティカとメルナを連れて、執務室に入った。そしてマージに言う。
「石鹸の使用感を調べた」
「ほう! そうかいそうかい! して?」
「ヴェルティカの首筋に付いた匂いは、より一層安らぎを与えるような匂いがした。おかげでぐっすり眠る事が出来たようだ」
「おー、そうかいそうかい! ならヴェルも満足かい?」
「え、えっとまあね。ばあやのアドバイスのおかげかしらね」
「そうかい! そりゃなによりだ。この領の存続も明るいねえ」
「うん……」
なるほど喜んでいる。どうやら昨日のやり方で間違いはなかったようだ。
話を終えた俺は、ガロロを連れて秘密の研究所へと向かう。
「ガロロ。とにかく俺が裁断をするから縫い合わせていってくれ」
「わかった」
研究所に行くと、バラバラにしたウィルリッヒのコートがあった。縫製をほどいて部品にしたものだ。そのひとつひとつの型を記憶し、アイドナがガイドマーカーをひいた。それに合わせてリンセの毛皮を裁断していくと、ガロロがそれをつなぎ合わせていく。午前中いっぱいで全てが組み上がった。
「出来たのじゃ」
「よし。それじゃあヴェルティカに聞きに行こう」
俺達は屋敷におり、ヴェルティカにコートを着てもらった。
「いいわ! でも言っておくけどこのデザインは男性用よ」
どうやら男と女でデザインが違うらしい。しかしこのデザインで男に対して販売する事は問題ないようだ。そうして俺達は、石鹸、魔法薬、リンセコート、強化鎧の改良を重ねていくのだった。
リンデンブルグの王室で、その良い品質に対し大騒ぎになっている事も知らずに。