第百六十五話 人の感情と名声の利用
実はヴェルティカには策略があった。いや、策略というほどのものではない。
シュトローマン伯爵に会いたくないがために、アポイントを取らずに訪問して来たのである。挨拶に来たという事実だけを作ればいいと考えていたのだが、残念ながらシュトローマン伯爵は家に居た。
「これはこれは! コハク卿にヴェルティカ奥様、よくぞおいでくださいました!」
ヴェルティカは表情にこそ出していないが、明らかに気持ちが下がっている。
「すみません。突然のご訪問で、お邪魔じゃなかったですか?」
「いえいえ!」
そしてシュトローマン伯爵の伴侶も挨拶をしてくる。
「前回いらっしゃった時は、直ぐに行ってしまわれたのでお会いできませんでした。ロパロ・シュトローマンの妻、アデーテ・シュトローマンに御座います」
それにヴェルティカが美しいカーテシーをして応える。
「ヴェルティカと申します」
奥さんが俺を見たので俺も挨拶をする。
「コハクです」
だがアデーテはほとんど俺を見ていない。ヴェルティカに向かって話をしている。
これでいい。
《成り上がりのあなたより、ヴェルティカと懇意にした方が有利と考えての事でしょう》
元辺境伯という肩書は大きいのだな。
《この世界では階級が高い者こそ力があるとされています》
ノーマークの方が研究もやりやすい。
《そう言う事です。それなりに振舞えばいいでしょう》
それなり?
《策略などはなにも考えていない。そんな風に振舞ってください》
わかった。
伯爵に挨拶をしに行くのに、妹を連れて行くのはおかしいという事になって、メルナは風来燕と一緒にこの町のギルドに行った。マージも特にこの伯爵からとれる情報は無いと言って、メルナの鞄に入って行ってしまった。それで尚の事、ヴェルティカの気持ちが落ち込んでいるのである。
アデーテが言う。
「ぜひ、お茶でもご一緒させてくださいまし」
前回は断っているので断る事も出来ずに、ヴェルティカが作り笑いで答える。
「うふふ。ではお言葉に甘えて」
「辺境伯令嬢様の口に合うか分かりませんが」
「申し訳ございませんが、今は男爵夫人です。そこだけはお間違いの無きよう」
「あ、失礼しました! では男爵夫人どうぞ屋敷へ」
俺達はおとなしく屋敷へと入る。応接室で話をしながら待っていると、菓子とお茶を持ってメイドがやって来た。メイドは物珍しそうにヴェルティカをちらちら見ているが、やはりパルダーシュという都会の令嬢に興味があるらしい。
するとロパロが言う。
「お兄様はお元気でいらっしゃいますかな?」
やはり話題は辺境伯の事だった。
「ええ。兄はパルダーシュの復興に向けて躍起になっておりますわ」
「あれは大変な事でございました。なんと王都でも同じ事件が起きたとか」
「そうです。私はどちらの現場にもおりました」
「よくぞご無事で」
そこでヴェルティカは得意満面で言う。
「私の旦那様のおかげですわ!」
「だ、コハク様のおかげですか」
「ええ! 彼が居なければもっと多くが死んでおりました」
しまった。ヴェルティカに口止めはしていない。
「そうなのですね。ですが、いかに王覧武闘会の優勝者とはいえ、大量の魔獣の襲撃を退けるのはいささか無理があるのでは?」
「いえ。陛下もその功績を認められての、男爵位の叙爵にございますので」
だがヴェルティカの気迫に、ロパロはそれ以上言ってこなかった。
するとアデーテが場の雰囲気を変えるように言う。
「ささ。この町で一番人気のある菓子屋の焼き菓子にございます」
「すみません。ちょっと旦那様の事になると熱くなってしまいまして」
「いいえ。微笑ましい間柄であるとお見受けしましたわ。ヴェルティカ様のおっしゃるように、男爵様は素晴らしい御方なのでございましょう」
するとロパロも気を取り直して言った。
「失言でございましたな。それでどうですか? 領の方は?」
ここはヴェルティカとも話し合っている。だが一応、俺が領主なので俺が答える事にした。
「長閑でいい場所でした。のんびりするにはとてもいい」
「そう! のんびりするのには適した領地かもしれないですな!」
「陛下も良い土地を下賜してくださった」
するとロパロとアデーテが目を合わせ、ちょっと思わせぶりに笑う。
「税収はあまり見込めませんが、小麦や芋が取れますからな。それでも充分に領地の運営はやっていけるでしょう」
「はい。そう思います」
「困ったことがありましたら、わがシュトローマンにおっしゃってください」
「ありがとうございます。そのようにさせていただきます」
そしてヴェルティカが冷静さを取り戻し、ロパロに向かって言う。
「当領地には碌な商人もおりません。こちらの商人に、面通しをと思ったわけでございます」
「ああ、それでしたら紹介状をお書きしましょう」
「よろしくお願いいたします」
「他にはありますでしょうか?」
「あと男爵領には呉服屋さんも無いようですので、そちらも見て行こうかと思っております」
「わかりました! それでは呉服屋にも紹介状をしたためましょう」
それからしばらく話し合いをし、ヴェルティカは必要な物だけをしっかりと伝える。伯爵が席を外して紹介状を書いて来たので、俺達はそれを受け取って挨拶をする。
ヴェルティカがニッコリ笑って言った。
「それでは、この素晴らしい伯爵様の町を観光してまいりますわ。本日は急な訪問にも関わらず、手厚いおもてなしをいただきありがとうございました」
「ええ! ええ! いつでもいらしてください! あと…もし辺境伯様にお会いになる事が御座いましたら、よろしくお伝えくださいますよう」
「わかりました。叙爵したばかりでしばらくは帰りませんが、帰った折には申し伝えるようにしておきましょう」
「ありがとうございます」
そして俺達は伯爵の城を後にした。
ギルドに向かって歩きながらヴェルティカが言う。
「まあ、結局はお兄様とのつながりが欲しいだけの田舎貴族ね。私がこの領地にやってきたのも、自分の顔を広げるチャンスとでも思っているんでしょ」
「それでいいヴェルティカ。とにかく爪を隠す必要がある」
「わかってるコハク。でもあなたの事を低くみられるのは…我慢ならないのよ」
「そうか…」
なんでだ?
《ノントリートメントの考え方です。メンツとはまた違う、感情的なもののようです》
あまり俺を持ち上げないで欲しいが。
《あの伯爵にどう思われようが、どうという影響は出ないでしょう》
そうか?
《はい。ヴェルティカが言うように、辺境伯とのつながりだけをメリットだと考えています》
なら御しやすいか。
《はい》
俺達がギルドに行くと、何やら人だかりができていた。その人だかりをかき分けてギルドに入ると、風来燕とメルナが冒険者達に囲まれていた。
なんだ?
《問題はありません》
そうか?
《はい》
ボルトが俺を見つけ声をかけてくる。
「お館様!」
「なにかあったか?」
「いや。王覧武闘会の事を聞かれて、つい話しちまってた」
「この人だかりはそれか?」
「そうだ」
すると冒険者の屈強そうな男が言う。
「これが神殺しの主様か!」
神殺しと言われてボルトが微妙な顔をする。
「そ、それは止めてくれ」
「なーに言ってんだ。国内のギルド中に御触れが回ってんだ! 神殺しを成し遂げた男だってな! その主様ってんだから、相当なものなんだろうよ!」
「そうだそうだ!」
ここでも勝手に盛り上がっていた。
どうやらノントリートメントというのは、決めた事を守れないらしい。
《感情です。感情がそうさせているのです》
コントロール出来ないという事か?
《分泌物や心理状況の調整が出来ませんので》
不便だな。
《恐らく、それがノントリートメントを、ノントリートメントたらしめているのです》
感情か…。
俺にも嬉しいという感情や、守りたいという感情が芽生えているのは確かだった。アイドナが調整しても、俺の感情が収まらない時があった。
人間は感情の生き物…と言ったところだな。
《はい》
あまり目立たないようにと思っていたが、なかなかに難しい。
《悪意が無いのでどうしようもありません》
わかった。
すると入り口から声がかかった。
「なんだなんだ! この騒ぎは!」
振り向けばそこそこステータスの高い奴が立っている。それを見たギルドの受け付け嬢が叫ぶ。
「ギルマス!」
「仕事にならんだろう!」
「それが……」
ギルドの受付が神殺しの紹介をする。それを聞いてギルマスの表情が変わった。
「そうかい! そうかい! あの神殺しが男爵領に来てくれたのかい! そいつはいいな! パルダーシュや王都でも名をはせた、あの神殺しのボルトが!」
するとボルトが我に返ったように言う。やっとマズいと思ったらしい。
「あ、今はコハク男爵のお抱えの護衛としてやらせてもらってる。だから俺に依頼がある時は、コハク男爵を通してもらう事になる」
「男爵様の許可さえもらえば、依頼を受けてもらえるのかい?」
「もちろん…だが、金次第だ」
「そんなのは当たり前だ。冒険者なんだからな! 達成困難な依頼があるんだが、なんとかしてもらいたいと思っているんだ!」
するとヴェルティカの口角がスッと上がった。
「恐れ入ります。ギルドマスター様。私、コハク男爵の妻でヴェルティカと申します。そのお話、もう少し詳しくお聞かせいただいてもよろしいですか?」
「こ、これはこれはご丁寧に」
そしてヴェルティカが俺を指して行った。
「そしてこちらが旦那様です」
「おお! 王覧武闘会の優勝者の!」
「ええ。それで難しい依頼とは?」
「わかりました! 今、よろしいか?」
「ええ。私共はまだ来て日も浅い。情報が足りていないのですわ」
「ならどうぞこちらへ」
そう言って俺達を奥の部屋へと連れて行くのだった。