10-6
大勢のカップルやらロマンティストが鈴なりに集う中、例のクリスマスツリーが夜に逆らうようにライトアップされた。
目が眩むほどの電飾に圧倒されそうになる。けれど、脇は鏡花にがっちり固められているので、安心して見上げられる。鏡花との約束は、こんな光景だったのか。今さら泣き言を言っても時間は巻き戻らないけど、でも心の中で呟かずにはいられなかった、さっさと叶えておけば良かったと。
「鏡花、ちょっと暑くない?」
「何、もっとくっ付いてやるっ」
これ以上は無理だろうと高を括っていたら、まだまだ腕を締め付けてきた。鏡花は見かけによらず、強引を押し通せるだけの力を隠している。まあ、私が非力すぎるだけなのかもしれないし、そうやって引っ張られることを、深層心理では望んでいるのかもしれない。とは言え、今まで人に触れられることを散々忌避してきたから、頭では鏡花と密着できて嬉しいと唱えていても、このもふもふとした感触がこそばゆく感じる。
「今度こそ、来年も来ようね」
「もう来年の話してるー。まだ来てから5分も経ってないよー」
確かに、まだまだ鏡花の打ち笑む顔を見ていたい。特別な光と熱気に彩られた鏡花なら、見飽きることは無さそうだ。……今だって、たったこの一瞬で、ツリーの根元のポインセチアよりも紅潮するし。照れて自信なさげな鏡花が一番かわいい。
「そんなにじろじろ見ないで、あと黙んないで……。思い出しちゃうから、前来た時のこと」
「来年来ようって約束したこと以外、なんかあったっけ?」
「あの頃の私は調子に乗ってた。縁佳ならどんなわがままも聞いてくれるって甘えて、でももう一度つらい想いはしたくないから、無意識のうちに恋愛感情は封印して、縁佳はもっと早く素直になってれば良かったって思ってるかもしれないけど、私としては覚悟を決める時間ができて、結果的に助かったんだけど……何、笑ってるの!?」
「恋愛感情を封印?私も当時は馬鹿だったから目を背けようと必死だったけど、今になって後知恵を絞ってみると、鏡花、どう考えてもクリスマスの時には、私のこと好きだったよねぇー。じゃなきゃ、あんな事しないもんねっ」
「だって今じゃ、理由も遠慮もなく手を繋げるからね。工夫する必要ないもん」
鏡花はそう言いながら、足元を見るような笑顔で、指と指の隙間を探りながら絡めてくる。細胞と細胞の間にまで、彼女が侵食してくるようだった。
「でもまだ慣れなくて、心のどこかでは恥じらってて、気が引けている。そうでしょ?」
「鏡花の意地悪」
「これでお互い様ー」
鏡花の瞳には、視線と感情が路頭に迷う私が映って、大変満足したことだろう。だけど、それでいい、こうして弱い部分を、鏡花には隠さずに見せていきたい。それこそが、自分を許容してもらうために、最低限なすべきことだから。
あまり長居していても、ライトアップは変化しないし、そろそろ鏡花の胃が切羽詰まって悲鳴を叫びそうなので、雑踏を掻き分けて建物を後にした。どうやら鏡花の母親が、車で近くまで迎えに来てくれているらしい。一日で帰ってしまうなんてもったいない、年末年始はずっと実家にいるから縁佳も一緒に泊まっていって、と言われたのだった。
「そう言えば鏡花、免許取ったんでしょ?ほい、運転しなよ」
鏡花の母親は運転席から降りてきて、普通に心無い一言を放った。それで、後ろの席に座ろうと腰を屈めた鏡花は、私に目線で合図してきた。任せろって意味なのか、先に謝っているのか、暗くて判別できない。前者の意味であることを切に願った。
「ちょっと鏡花、飛ばしすぎじゃない?」
「お母さんだってこれくらい出すでしょ?」
「私は何十年も運転して慣れてるからね?1年そこらでいきがってんじゃないよ」
急なブレーキとか加速はないから、漫然と乗っているだけでは気付かないけど、窓の外を流れていく光に何となく恐怖を覚え、隣に座る鏡花の母親のほうへ目線を変えた。
「あ、えっと、これから数日間、お世話になります。……いいんですか、本当に、結構長い間泊まることになると思うんですが」
「いいのいいの。縁佳ちゃんはもう、家族みたいなもんだからぁー」
「そんな、言い過ぎですよ……」
こんな時でも実家に帰るという選択肢がないような私が、前は翌日寝坊するほど団欒というものに疲労させられた私が、血の繋がりもない人たちに家族同然に扱われるのは、やっぱり後ろめたさがある。上手く乗り切れるのか不安になる。
「それより、最近の鏡花はどう?この子ったら、全く連絡を入れてくれないのよ。たまに連絡があったと思ったら、金くれーってばかりで」
「鏡花って大体いつも元気なので、大丈夫だと思いますよ」
そんな鏡花を曇らせたのが私なんだけど……。おっと、それだけでは親として、まだ安心できてなさそうだった……暗闇の中、私の勘がそう囀った。そこで、かつての鏡花の言動を思い出して参考にしてみる。
「それに、何かあっても私が見てますから」
取って付けたようにそう宣言する。それは、所信表明のように見せかけた、秘めたる独占欲の現れだった。「そりゃ頼もしい」鏡花の母親もまあ、許してくれたとして差し支えないだろう。
鏡花の家に着くと、すぐに香ばしいにおいが漂ってきた。いつものダイニングテーブルに、もう一つ机を接続して、その上にフライドチキンにシチュー、ピザにローストビーフと、クリスマスらしい料理が並んでいる。その横では、さっきとの落差でしょぼく見えるクリスマスツリーが、雰囲気を多少盛り立てていた。私にとってそれは創作の世界の話で、実際にこうやって全てが並んでいるのを目の当たりにしたのは初めてだった。
とは言え、鏡花のように狂喜乱舞もしていられない。単純にそこまで食に興味がないというのも一因だが、何よりとても場違いな感じがした。
「鏡花、この人たちは?」
わちゃわちゃ楽しんでいる人たちの傍ら、私は小さく指差して鏡花に聞いた。
「ん?誰って、常葉お姉ちゃんの家族。常葉お姉ちゃんは来てないみたいだけど」
「なんで……?」
「クリスマスは一緒に過ごすのが通例なんだよ、よく分かんないけど」
鏡花は首を捻りながら、私と同じように蚊帳の外で、ピザを折り畳み菓子パン感覚でむしゃむしゃ食い進めていった。
「それじゃ、あの人は?」
「常葉お姉ちゃんのお姉ちゃん。で、その隣は私の兄」
「兄はお兄ちゃんじゃないのね」
「えぇー……、なんか嫌だ」
「仲悪いの?」
「そんなこと無いよ。ただ、関わる機会がないから。感覚としては限りなく赤の他人に近い」
「それは仲悪いって言うんじゃない」
「どうかな。向こうは私のことを気に掛けてるみたいなんだよね。あまりべたべたすると、嫌われると思って、そんなに関わってこないだけで」
「ふぅーん」
鏡花は喋り終わると、遅れを取り戻すかのように、すごい勢いで口に物を入れていく。残り物には福がない派なのかな。
「って縁佳っ。鼻の下を伸ばさないでよっ?」
「へ?伸ばしてないよ」
「ちなみにプロのスポーツ選手らしいよ。ほら、少しは気になったんじゃない」
「えぇー、あんまり興味ない……」
鏡花は怪訝な表情を浮かべながら、ローストビーフの塊を頬張った。
「まあ、縁佳って生得的に備わってるべき感情が、一部欠如してるもんね」
「だぁーうん、それは理解してるからっ」
「じゃあ、あーん」
今度はロールキャベツを丸々一つ、フォークに串刺しにして、私の口元に近付けてきた。いつも通り、一口が大きいなぁ……じゃなくてっ、こんな所で何をするつもりだよっ!
「この度、僕たちは結婚することにしました。必ず朱鷺葉さんを幸せにしますので、これからも、よろしくお願いしますっ」
「よろしくお願いしますっ」
「二人ともおめでとう」
「うぉああああお父さん嬉しいよーーーー」
周りを見渡してみると、なんか人生の節目に差し掛かっていた。ますます場違いな感じがしてくる。いやむしろ、一周回って、私と鏡花だけ別のテーブルで食事しているみたいで、誰もこっちは見てないし、んーー、ぐぬぬ……。
「早く早くー、この間みたいに、口の中をぱんぱんにした縁佳が見たいー」
鏡花の所構わない性格って実は正さないといけないんじゃないかって思っているけど、結局こうして押し切られてしまう。柔らかく煮込まれたキャベツを歯で解き、溢れ出る肉汁に溺れそうになりながらも、やっぱりキョロキョロせずにはいられなかった。
「どう、美味しいよね?」
「んー、分かんない」
「またそれかぁー」
「鏡花に食べさせてもらうと、なんか色々、いっぱいいっぱいになっちゃうんだもん」
「じゃあ、一人で食べてみせて」
「最初から一人で食べられるんだけどね?」
鏡花が睥睨してくるので、仕方なーく箸でロールキャベツを三分の一ぐらいに割って食べた。さっきは飲み込むことで精一杯だったから不鮮明だったけど、改めてゆっくり噛み締めると、いや噛み締める間もなく溶けて、口の中にスープと脂が広がった。
それはともかく、鏡花がわくわくきらきらしてるので、何か感想を言わないと、えぇーっと……。
「おっ美味しいよ」
「見てれば分かるよー。私が縁佳を、どれだけ観察してきたと思ってるの」
「じゃあ、そういうことで」
「個人的に、母親の料理で一二を争うメニューだからね。あっ、もちろん私も作れるよ、作ってあげるよ、作るから、作らせて!」
この鏡花の自信が横溢した表情、控えめに言って命と引き換えにでも見たい。けど、同時に他の誰にも見せたくないから、しけた面で追い返した。
「分かった分かった……、でも、だったら鏡花のを先に食べたかったな」
「なんで?」
「意識しなくても、比べてしまう気がして、申し訳なくて……」
「私の作るロールキャベツが一籌を輸すると言うの!?ふんっ、いいもんいいもん、味の素一瓶入れてやるもん!」
「んまー、私は馬鹿舌だから、それくらいが丁度いいのかも……?」
なんて冗談を交わしながら、二人で密かに笑った。周りの目を盗んで、隅っこで二人だけの世界に浸るのには、少し角のある心地良さがあって、ほんのり酔いしれていた。
鏡花の部屋に入って、そろそろ特に遠慮なくベッドに滑り込む。でも五体投地まではやり過ぎな気がして、脚と腕を丸める。ふはぁー……、多少の疲労感、何だろう、鏡花のせいでたらふく食べちゃったから、食べ疲れたのかもしれない。……いくら望んで蚊帳の外に出たとしても、家族に準ずる扱いをされたのは事実で、それが重荷になっているのかも、しれない。
「思ってたより狭いな」
後から入ってきた鏡花が、寝っ転がる私を見てそう言った。
「やっぱり、私は布団を敷いて寝ようか?」
「いいからいいから。せっかく同じ部屋にいるのに、別々に寝るなんてもったいない」
鏡花が四つん這いになって覆い被さってきて、そして顔を近付けてきた。
「ちょっと、鏡花……?」
「ん、移動が重なったから、少しお疲れ?」
「いや、そうじゃなくて、あの……、他にも人がいるんだから、さすがに……」
鏡花の腕と口唇と微かに揺れ動く。今にも震い付こうと、尻尾を振っているのが目に浮かんでくる。諸手を挙げて受け入れてしまいたいけど、私だって同じ気持ちだけど、危ないところで理性という名のプライドが体を縛り付けて、一命を取り留める。
「少しだけなら、いいでしょ」
「んん……」
「よすがぁー……」
鏡花は母とはぐれた幼獣のような声を出すくせして、口元を隠していた手をちゃっかりどかして、自分の唇を私のそれに押し付けてきた。とても温かくて柔らかくて、うぅ……私も我慢できなくなる、こうなって手遅れになっちゃうから、硬い意志で跳ね除けないといけなかったのに、思考はドロドロに溶けて、本能は肥大して私を呑み込んでいく。
とは言え、まだこの感覚に馴れない自分もいる。拳を握って、緊張と自分の手の平に広がる寂しさを紛らわす。でもやっぱり鏡花に貪り尽くされたくて、気が付くと自分からも積極的に差し出してしまっていた。
で結局、満たされるまでやってしまった。今はまだ毎日会えないし、会った時にありったけをぶつけられたくなってしまう。……私はずるいな。鏡花が所構わないおかげで、ただ押しに押されてなし崩し的に、と言い訳できているんだから。
鏡花の生温かい鼻息で、残響の橋が落ちる。夢中になっていて、勝手に無視していた心音が帰ってくる。視線をやや上に動かすと、まだ艶めかしい蕩けた表情の鏡花がいて、照れる間もなく釘付けになるのは当然として、偏桃体に衝撃が走って甘く痺れる。大前提として、元も子もないし身も蓋もないけど、鏡花の顔を美しいって思えてしまったから、今こうして享受できているわけで、そう考えるとあまりに俗っぽくて単純で、少し笑えてくる。
「縁佳はさぁ、どう、思ってるの?」
「何がー?もっもちろん?鏡花のことは好きだし、別にそういう事するのも、やぶさかではないというか、最大限頑張るというか……」
「それは分かってる。そうじゃなくて、ゆくゆくはこの関係を親に公言して、認めてもらうことを想定してるのかなーって」
こっちは腹を括って今後のことも考えて真剣に言ったのに、そんな軽くあしらうなんて……。
「おーい、おーーい。あの、えっと、平島さん……?」
「その呼び方、初々しいから辞めて」
「初々しいのはいいじゃん」
「良くないー。棘と癖のあった昔を思い出すからー」
「じゃあいきなり無視しないでよっ」
「それはごめん。でー、何だっけ、親に言うかどうかだっけ」
「そそ。あんなものを見せられたら、意識せざるを得なくて」
鏡花の兄と常葉の姉の結婚話のことかー。鏡花の真剣な面持ちを前に、私も軽く腕を組んで考え込んだ。あまり詳しくは分からないけど、自立した後も人生の節目に関わるような重大な事柄はきちんと親に説明すべきで、これはその重大な事柄に該当していて……。だけど、何か支援が必要なわけでもないし、鏡花は乗り気でない割に、家族には縛られて当然みたいな常識を抱えた上で話を進めるだろうし、うーん……。
「私は話しておいてもいいと思う。安心、させられるんじゃないかなーって」
「確かに、さっき車の中でお母さん、鏡花のことを心配してたもんね」
「もちろん、今すぐにではないよ。もっと関係が成熟して固まりきってから。いくら成人式を間近に控えた二十歳と言っても、私たちはまだまだ不安定だから」
「鏡花って、しっかり現実も見てたのね」
「当たり前でしょっ。縁佳に余計な負担を掛けたいわけじゃないんだよ」
「ん-、後は、まともに取り合えってもらえるか……。鏡花の親御さんを疑ってるわけじゃないけど」
「ねー縁佳、自分の親に報告すること、全く想定してないよね」
「え?だってまあ、それは、ひっ必要ないでしょ?」
私がそう言い返すと、鏡花が顔を近付けて睨んできた。
「ダメだよ縁佳、そこはちゃんとしなきゃ」
「前に言ったでしょ。ようやく自立できて、親の顔を見なくて済むようになって、清々してるんだって。それに鏡花、あの時は私に同意してくれたじゃん」
鏡花の実家にしばらく居候させてもらうことにしたのも、自分の親と顔を合わせたくないからなのに、あの人たちの後ろ盾がなくたって、私たちは上手くやっていけるはずなのに、親というだけで強制的に重んじなきゃいけなくなるなんて。
「縁佳っ。縁佳はさ、今までの自分とは決別したんだから。親だって、多少は向き合わないといけないって、本当はわかってるんでしょ」
「んー、んー……」
「というわけで、せっかく地元に帰ってきたんだし、縁佳の実家にも行くよ」
「んえぇー……」
「私も付いてくんだから、安心して!」
「いや……、あの家であなたがしでかした事を思い出したら、手放しで喜べない……」
ふと鏡花のほうに視線を戻した瞬間、彼女から手が伸びてきて、片手で顔をぐにゅっと掴まれた。で、そのまま上下左右に頭を揺さぶってきた。
「縁佳って、全然私に抵抗しないよね。いいのぉー?好き放題やられちゃうよー?」
一応、鏡花の手首に自分の手を添えてみてはいるけど、確かに辞めてほしいって思ってないのかもしれない。きっと私にしか見せない、私と出会ったからこそ開花したその蠱惑的な笑顔を、もっともっと見ていたいから。
それで翌日、さっそく鏡花に連れられて私の実家に赴くことになった。寝たんだから忘れてくれればいいのに、私がこんなに難色を示しているんだから、思い直してくれてもいいのに。まあ、鏡花が一緒なら大丈夫かな、ついでに親への後ろめたさも打ち消せると思えば、少なくともマイナスではない……と念じた。
せっかく二人で過ごせるんだから、と甘言に乗せられ、昨日はうっかり夜更かししてしまったので、昼過ぎまで寝ていたはずなのに、まだまだ惰眠を貪りたくて仕方ない。
「鏡花~、眠くない~?」
「寝たら死ぬよ、この気温」
どこまでも遠くまで澄み渡る、どこか夏のそれとは色の違う冬の青空、目線を下に落とすと街には銀色が覆い被さって、光景から寒々しい。太陽もLED化されたのか、燦然と輝くだけで全く暖かくない。そんな年の瀬の厳寒の日に外に居る人なんて、家の前の雪かきをする人ぐらいで、まるで滅びたての街を行くようだった。こんな日に外出するなんて、私たちは明らかに浮いていた。
まあ、浮いている原因がもう一つ。鏡花はもう、一声かけることもせず、平気でどっぷり抱き着いてきたのである。もはや、重すぎるウエストポーチだ。いや、引きずって使うポーチってなんだよ。何も入んないし。
「あぁーさむっ、寒い寒い、これはしばれるわぁーっ」
鏡花は今にも鼻水を垂らしそうに鼻と耳を赤くして、昔から使っているような気がする、もこもこの手袋でも物足りないのか、私の腰やら背中やら脚やらをさすってくる。
「鏡花が行けって言ったせいなんだからね。つべこべ喚かないで」
「んぐぅー、縁佳は寒くないのっ?」
「寒いよ」
「でもぉー、私がくっ付いてるから、心は暖かい的なー」
「んー、久しぶりに雪を見た気がするわー」
「うわーー話そらしたぁーっ」
そう騒ぎながら、鏡花は肩に顔を擦り付けたり、風が吹く度にぎゅっとしがみ付いてきたりしてきた。結局、そんな暴力的な可愛さに、私は抗えないのであった。まあ、これから楽しくないイベントがあるんだから、今ぐらい鏡花の一顰一笑を楽しませてもらおう。
実家の前までやって来た。発った時と比べて変わったことと言ったら、止めてある車が軽自動車になったぐらいで、小学生の頃に朝顔を育てた枠組みが、未だに敷地の端に立て掛けてあったり、相変わらず庭に植わっている木が碌に手入れされていなかったり、何だか懐かしくなる。それは必ずしも、定期的に戻ってきたいということを意味しない。
鏡花は雪を掻き分けて、特に躊躇わずにインターフォンを押した。鏡花って、私が心を落ち着けようとするのを無駄だと思っている節がある。まあ、まだ機が熟していないって言い訳を繰り返していたら、いつまでも前に進めなかった過去があるわけで、鏡花の強引な性格には、やっぱり付いていかざるを得ない。
「えっと、あら、縁佳……?」
「私は鏡花です」
「そっちを向いてたからって、実の娘を判別できないほど、ボケてるわけないでしょ!」
「……帰ってきてたのね」
「あぁ、ただいま」
「おかえりなさい」
それくらいの挨拶はしろって、横の鏡花が圧を掛けてきたような気がして、思い出せないほど昔ぶりに、家族らしい挨拶を呟いていた。そう言えば腰に掛かる圧力は減免していた。さすがに、親の前で抱き着いてはこないか。……仮に抱き着いてきたとして、それを見せつけられた私の親はどう思うんだろうか?
なんて疑問のような不安のような弱気を無視して、鏡花は私の手を引きながら、我が物顔で人の家にお邪魔していった。
……のも束の間、家の外に逃げてきてしまった。この極寒でさえも、冷え切った親子関係よりは暖かい……ことはない、体は正直だ。でもたまには、心のほうを正直にしてあげたい。
昨日の深夜にどかっと降ったらしく、膝ぐらいまで雪が積もっていたので、家の前の雪かきをすることにした。母親は腰を痛めていて、父親は仕事で不在で、つまるところ私たちは都合のいい労働力だった。
「今年はよく降ったねー」
「どうでもいいやー。こっちにどれだけ雪が積もろうと、雨が降らなかろうと、知ったこっちゃない」
「そうー?私は未だに地元の天気を見てしまう」
「鏡花らしいねー」
「本当にそう思ってる?」
「鏡花は、いつも鏡花らしいよー」
「何それー」
最初はのんびり雑談しながら作業していたが、いかんせんお互い非力で体力がないので、すぐにスコップを持つ腕が痺れてきて、気が付くと鏡花と一緒になって、こけしぐらいのサイズの雪だるまを量産して、玄関に並べていた。
「こいつ可愛いね」
「こっちはスタイルがいい」
二人で並んで屈んで、白い吐息を重ねながら、お互いの作品の品定めをした。
「……何しに来たんだっけ」
「んー、何しに来たんだ?」
「鏡花が行けっていうから、気乗りしないのに来たんだよっ」
「和解しなきゃねー」
「どうなったら和解なの?」
「和解したと思ったら」
「あーもう、適当なんだからっ」
「適当に孝行しとけばいいんじゃない」
「って言ったって……。今、お金ないから何も贈れないよ」
「そうだ、今晩の夕飯を作ってあげようよ。私も手伝うから」
それで親に恩返ししたかのような感覚が共有されるなら、まあやってもいいか。鏡花と料理するのは楽しいしね、どちらかと言えば、そっちのほうが目的だった。
一度家の中に戻って、荷物を取ってから出発する。玄関で靴を履いていると、母親が廊下に顔を出してきた。
「どこか行くの」
「あぁ、うん」
「買い物に行ってきます。今日の晩ご飯、私たちが作りますから、お願いします!」
よくもそんな風に啖呵を切れるなぁ。感心と同時に、受け手である私の成長により、以前は無かった頼りがいというものを感じるようになっていた。鏡花が伝えるべきことは伝えてくれたので、母親の視線から逃げるように、振り返ることなくドアを押して、息の詰まる実家から脱出した。
「そういう事だから、行ってくる」
「あぁ、うん、ありがとう」
鏡花の言う「和解したと思ったら」というのは的を射ているのかもしれない。顔を合わせるだけで、同じ空間にいるだけで、どこかハラハラしてぎこちなくて、その苦手意識を取り払う心持ちの変化が、この親子にとっての和解なのだろう。
でも、気持ちの問題というのが、一番難しい。私が散々苦しんできたことだ。鏡花を頼るべきだと分かっていても、それを感情が許さない。まあいいや、鏡花が長ねぎを吟味しているのを眺めていたら、家族との関係なんてどうでもよくなった。そんなマインドだから、いつまで経っても和解できないのかもしれない。
「んー、どれでもいっかー」
「いや鏡花、そもそも何を作るつもりなの」
「スーパーに来てみれば、何かアイデアが思い浮かぶかと思ったけど、あれは全国の主婦の特殊能力でした」
鏡花はカートの持ち手に両腕を乗せて、体重を掛けて前後に揺れながら嘆いた。
「はぁ、適当に野菜と肉を炒めて、それでいいじゃん」
「手を抜きたくないー」
「じゃー、回鍋肉とか?」
「お、いいねー」
「結局、適当に野菜と肉を炒めたものじゃない?」
「なんてことを言うんだ、水を差すなよっ。じゃあいいよ、やっぱり、私の得意料理にするから」
「得意料理?あぁなんか、病人に激辛麻婆豆腐を食べさせようとしてたっけ」
「なんでそれだけ覚えてるのっ」
鏡花がぎらっと睨み付けてくる。いやーなんでだ、自分でもかなり驚いているのだ。あんな昔の、それも印象深いイベントに挟まれた、目立たない会話の一コマを、こんなにすらすら思い出せたんだから。炒飯がぱらぱらで、餃子がぱりぱりで、麻婆豆腐は火を噴く辛さ、らしい。
「まあまあ、意外と料理できるんだから。任せなさいって」
鏡花は自分の胸を叩いて、自慢げに言い張った。冷めた目で見たら、任せなさいと念を押された。
「いやあの、私も高校三年間、毎朝、自分のお弁当を作ってたんだけど」
「そっか。あの頃は大変だった?」
「そうでもない。鏡花と違って、早起きができるからね」
「早起きができても、面倒な日だってあるでしょ。しかもさ、ちゃんと手が込んでて、縁佳って凄いんだな、と思ったものだよ」
「鏡花、ことごとく私の作戦にはまってない?」
「作戦て……」
「食にこだわりがあるわけでもないのに、毎日違うメニューのお弁当を用意するなんて、おかしいと思わなかった?」
「えぇー?もしかして、見栄を張って?」
「そうだよ。偉く見えるでしょ」
「じゃあなおさら、今日はいいやってなった日はないの?」
「そう言えば、一度寝坊した時はさすがに作らなかったね。鏡花とモロックマと三人で、購買のパンを買いに行ったの覚えてる?」
「懐かしー。……なんか、長い付き合いだね」
「だねぇ」
鏡花は私の顔を一瞥してから、豚ひき肉を手に取ってカートに入れた。彼女は何を思って笑っているのだろう。自分で言うのは責任から逃れようとしているだけに聞こえるけど、数年前の通過点に対してなんて、とても当事者意識を持てない。今この瞬間に最大限努力して、鏡花が幸せを感じ取れているのならば、それで私は十分に役割を果たせている気がする。だとすれば、罪は滅ぼし切らないで、一生償い続けたほうがいいのかもしれない。
レシピは鏡花頼みなので、何を買うのかも比較的彼女に頼りながら、無事に買い物を終えて、あの忌まわしき実家に戻ってきた。厄介なことに父親も帰宅していて、平島家がそろって夕飯を食べるという、世にも珍しい状況が確定してしまった。
こんな風に、居間のテーブルの四方向すべてが埋まるなんて。顔を上げると、大皿に盛られた餃子に手を伸ばそうとすると、その度に二方向から両親が視界に入って気圧されて、助けを求めるかのように、鏡花が座るほうに少しずつ寄っていっていた。
「すいませんね、作ってもらっちゃって」
「いえいえ、縁佳が作ったようなものですよ」
私は鏡花の指示通りに材料の下ごしらえをして計量をしただけで、実際にフライパンをふるったのは鏡花なんだけど、この家族には眩しすぎるきらきらした眼差しで、私の両肩に手を置き前面に押し出そうとしてくる。ほら、両親ともに苦笑いしているじゃんかー。
「美味しいですよ」
「本格的な味でびっくり」
両親の視線は鏡花に集中する。しかもたちが悪いことに、お互いの存在をその目に映した上で、お互い意図的に目を逸らしている。空気が重い、ただでさえ味音痴なのに、他のことに気を取られて、ますます単純な味わいに感じる。というかそもそも、食事が喉を通らない。
せめて鏡花が世渡り上手だったら助かったのだけど、彼女ができるのは毅然と対決することだけで、懐柔したり取り入ったりはできない。自分だけに注目する両親に、鏡花は辟易するような態度で相対していた。こんな風になるなら、多少疲れるけど、まだ鏡花の家で食べたほうが良かった。潰されそうになる、この雰囲気の中で呼吸をするだけで、肺が破裂しそうになる。私は鏡花に逃げ込んだ。
「どうしたの?」
鏡花は私からの救難信号にすぐに気付いて耳打ちしてきた。
「ごめん、やっぱり無理だ、和解なんてできない」
「大丈夫だよ。十分頑張ってる」
そうやって耳元で囁いてきて、机の下でこっそり手を握ってきて、鏡花から期待とか希望とか将来性とかが流れ込む。それが私の中で溶け合って、容易く安心させられてしまうのであった。
「二人は、どういう関係なんだ?」
鏡花とこそこそ話して、もしかすると相好を崩していたら、父親が少し困惑したように口を挟んできた。どうして私の親は、関わりたくないと思わせるような言動を繰り返してしまうのだろうか。鏡花から離れられない。彼女に助けを求めてしまう、今までの傾向から、うっかり正直に話してしまいそうなのに、それでも。
「高校生の時から縁佳と仲良くしてくれてるのよ。縁佳が風邪ひいた時は、わざわざ看病しに来てくれてね」
「そうなんだ、いつも縁佳がお世話になってるみたいです、ありがとうございます」
「だから、私ではなく縁佳のことを気に掛けてあげてくださいよ」
母親が図らずも助け舟を出してくれて、向こうで話をまとめてくれるだろうと安心しきっていたら、やっぱり鏡花が余計な一言を放った。三人の視線が一斉にこちらに向かってくる。水面下で鏡花の手を捻るように握りしめながら、目を伏せて、もう片方の手にスプーンを握り炒飯を掻き込んだ。
「ど、どうだ、大学にはちゃんと行ってるのか」
この団欒に途方もない居心地の悪さを覚えているのは私だけではなくて、父親もその汚濁された空気に呑まれて、歯切れ悪くしどろもどろに聞いてきた。まるで親の再婚によって生まれた、血の繋がっていない家族との会話のようだ。こんなに目元が似ていて、血が繋がっていないわけが無いんだけどね……。
「うん。今のところ、留年せずに卒業できそう」
「困ったことはないか」
「ない」
「何かあっても、私が付いてますから!縁佳のことは任せてください!」
鏡花は、私が寝込んでいたあの文化祭の日のように、また高らかに宣言した。あの時よりは鏡花のことを信頼しているから、そう感じなくなってきたけど、学校の先生に反旗を翻すような、そういう緊張感が未だに私を襲う。その一方で、怖いもの見たさで、親の表情を恐る恐るうかがっていた。
「よろしくお願いします。縁佳も、そうしてくれると気が楽だと思うので」
父親はそう言って、鏡花に対して軽く頭を下げた。顔を上げて、再び私たちのほうを向いた時には、眉が開いて溜飲が下がっているように思えてしまった。私の親が安堵して穏やかな心持ちになるなんて、そうか、年なのかもしれない。
「鏡花」
「なーに」
「これでいいの?親への苦手意識は、全く消えてないけど」
「んんー、私だって親のことは苦手だよ。まあ、元気な姿を見せたら、それでいいんじゃない」
「そういうものかなぁ」
「そういうものなんでしょ」




