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息を吸う度に眠くなる。教授が息を吸っても眠くなる。教授のマイクがハウリングしても、遥か遠くで何かが囀ってるなぁーって思うだけで、あんまり眠気覚ましにならない。背筋を伸ばす遊びをしてみても、気が付くと意識が飛びかけて、元の姿勢に戻っていた。なんでこんな授業を取ってしまったんだろう。履修登録の時は、将来役立つかもしれないからって、多少なりともやる気があったのに。
でも不思議なことに授業が終わると、呪いが解けたかのように脳が活性化する。何だろうこの感覚、近ごろ別のことで味わった気が……そうか、一度鏡花に心を許してしまったら、全ての拘りが憂愁が吹き飛んでしまったのと同じだ。違うか。
鏡花も家に帰ってるかなぁと期待を膨らませながら、とにかくさっさと家に帰ろうと、リュックにパソコンと水筒をしまっていると、聞き慣れた声と一緒に、上の段のほうから、我先にと誰かが降りてきた。
「おうおう、よっすー久しぶりーっ、覚えてるよね?」
「み、宮橋!?」
同じ大学だとは聞いていたけど、学部が違うので、関係は途絶えてしまっていたし、何より偶然か必然か、今まで全く遭遇しなかった。なので、軽く飛び跳ねて驚いてしまった。まあ、特に外見も中身も変わってなかったので、すぐに落ち着きを取り戻したけど。
「よっすーもこの授業を受けてたのね」
「必修以外にも取らないといけない単位はいっぱいあるからさー」
「まーそうだよねー」
ここで再会したのも何かの縁ということで、ご飯でも食べながら募る話をすることになった。
「宮橋、あんまり変わってないねー」
「そっちこそ。気高き氷の女王って感じ」
「え、私のことそう思ってたの??」
「怒らせたら怖そうとは」
「基本的に怒らないよ……」
外はすっかり、半袖短パンで走り込む人々へ畏敬の念を抱かせるような、秋思を多分に味わえるような温度感になっていた。詮無く曇り空が張り詰めて、地面を踏みしめる度に、パリパリと落ち葉の心地良い音が聞こえてくる。でもそんな、日を追うごとに秋が深まっていくキャンパスに、寂寞とか哀愁とかはあまり見出せなくて、ただただ趣深く感じていた。
「宮橋、ちゃんと単位取れてる?」
「まーまー、腐っても中3の時の偏差値70ですから。そんな私が単位を落とさないわけないでしょっ」
「得意げに言うな」
「すこーし音楽活動にかまけ過ぎてしまいまして……」
「大丈夫なの、留年しないの?」
「したらしたで、バンドマンとして拍が付くでしょ」
「そっちの拍?」
話を聞き進めていると、どうやらそのバンドとやらが、あの時のメンバー、つまり芳瞠たちらしい。……嘘だろっ、一周半回って、本当に仲良くなってるじゃん。なぜか苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。
「まっ、よっすーよ、そんなに案ずる必要はない。どうせじきに解散するさ」
「あんたたち、そんなんばっかりねぇ。そろそろ素直になったら?」
「今度こそ分かり合えない気がするよ。前に次はないって言ったもんっ」
宮橋は呆れ返る私に対抗して、執拗に視線を送ってきた。しかし口先の刺々しさとは対照的に、そうやって媚びるような頼りにするような視線を向けられると、どうにかしなきゃって気持ちにさせられてしまう。別に持病が綺麗さっぱり無くなったわけじゃないというか、その悪癖を鏡花という存在で強引にねじ伏せるという選択をしただけで、鏡花がいなければ、私はまだまだ愚かなままだった。
「はぁー……」
「でも、よっすーがボーカルに入ってくれたら、何とかなるかもぉーっ」
「私は乳化剤か何か?」
「言い得て妙っすね」
「うざ」
「ひどぉーいなぁー」
という茶番のような言い合いの末に結局、断り切れずその責務を引き受けてしまった。だってだって、「本当は芳瞠たちと音楽を続けたいんだもん」とか本音を私にだけ見せられたら、仕方ないなぁって腕撫したくもなってしまう。
家に帰ってから鏡花には通話で、真っ先にそのことを報告した。もしかしたら鏡花を口実に断れるかもしれないって、淡い期待を持っていたんだけど……。
「いいじゃんいいじゃん、私が表立って応援してあげるよ」
「え、結構ですー」
「はわ!?か、彼女に応援されて嬉しくないの!?」
鏡花はわざわざ顔を真っ赤にしながら、宮橋側で援護射撃をしてきやがった。声だけでも、何となく真っ赤に熟したことぐらい伝わってくるものだ。同時に鏡花も同じようなことを考えているだろうけど。お互い、この関係にまだあまり現実味を感じられてない。言葉にして実存を作ってみると、感覚との齟齬が浮き彫りになる。
「おほん。私はね、今度の縁佳なら上手くやれると思ってるんだよ」
「そうかなぁ……」
「自分が何でもできなきゃいけない訳じゃないんだって、それはさすがに理解したでしょ」
「理解したよ。それで私は、音楽の才能が皆無だって認めてるんだよ」
「逆に、音楽の才能の塊たちが、縁佳に音楽の才能を期待してると思う?きっと何か、他の才能を見込んで誘ってるんだよー」
「それはーそうだろうけど……、んー……、でもさ、こうやって話す時間が減っちゃうよ。鏡花はそれでもいいの」
「ぐぬぬ、それを言われちゃうと、急激に気乗りしなくなるけど……。でも、私はね、縁佳の居場所を自分だけに限定したくない。悩みを私に打ち明けてくれたあの日、縁佳には私の隣以外に居場所がなくて、だからこそ今のような関係になれたわけだけど、でもあの時の縁佳はとても苦しそうだったから。新しい居場所へ背中を押してあげるのも、一つの役割なのかなぁーって」
「はーん、鏡花も少しは変わったんじゃない。独占欲むき出しだった昔に比べて」
「私はあんまり変わってないよ。縁佳の為になりたいだけだから。まあ、恋人になりたいっていうのは、私の欲望がちょっと混ざってるけど……」
さっきまでの、自信に満ちた鏡花は急速にすぼんでいった。まあ、もう十分、背中を押してくれたし、私の求める役割を果たしてくれたから。後は、ぼそぼそと小声で早口な萎靡たる鏡花を堪能するとしよう。少し息を吐いて気分を落ち着けて、座り方を組み直した。でもやっぱり、嬉しくて表情だけは落ち着きを取り戻せそうになかった。
「ただ……クリスマスは予定を空けといてね」
「それは約束するよ。どうする?今度は鏡花がこっちに来る?」
いたって常識的で建設的な提案をしたのに、鏡花からはロングトーンという名の溜息が返ってきた。乙女心というのは、山の天気より掴みどころがない。
「私たちが、初めて二人で迎えるクリスマスにやる事と言ったら、一つしかないでしょっ」
「ごめん、本当に分からない……」
「てーがーみーっ!」
「はい?手紙?……あ、マグカップと一緒に添えられてたやつ?」
「そうだよー?」
かつての私が、開けたら鏡花の気持ちに応えることになる云々と言い訳して、中身を確認しなかったあれか……。もちろん、割れたマグカップと共に保管している。とりあえず、棚の上からそれを手元に持ってきて、封は解かず、謎解きに行き詰まったかのように、裏表を何度も交互に確認した。
「もしかして、未だに開けてないの?そんなに大事に保存してるのに?ねぇ、おーい、縁佳さーん」
「ぎゃ、逆に鏡花はさっ、自分の過去のラブレターを掘り返されるのが、恥ずかしくないわけ!?」
「ラブレターじゃないよ!私は、大事なことは自分の口で言う人間なんだからっ。まあとにかく、うーんと、約束したでしょ?あのクリスマスツリーを毎年見に行くって。私と交わした約束を反故にできると思わないほうがいいよ」
「ごめんって、私の変な意地のせいで、4年も開いちゃって」
「そうだよ、こんなに期間が開いたら、きっとがっかりするよ。クリスマスツリーなんて、こんなもんかぁーって」
鏡花はロマンティックとイニシエーションを重視する割に、梯子を外したように冷静な発言をかます事がある。まあ、そのバランス感覚が、私が鏡花に信頼を置ける根拠であり、結局抱き着いてしまった所以なのだろうな。
なんて考え付く度に、体中に甘酸っぱい何かが流れ出して、熱くてまどろっこしくてじれったくてじっとしていられなくなる。気が付くと、膝を強く抱えて、鼻筋を擦り付けたり首を左右に揺らしたりしながら、逸る気持ちを少しずつ発散していた。




