10-2
パチッという音と同時に、鏡花の横顔が明らむ。帰り道でさえも、私は視線の先を絶えず彼女に合わせていたことを自覚した。あんなに剥き出しの自分をさらけ出した後だと言うのに、むしろあんな事を言ってしまった後だから恥ずかしくて、気付かれる前に目線を逸らして、鏡花の部屋を何周も見渡した。
「嗅ぎ回ってみてもいいけど、何も出ないよ」
「ひゃっ!?べべっ別に、普通の部屋だなぁーって思っただけだしっ」
「そう?私だったら縁佳の部屋、隈なく探索するけどなぁ。あ、先にシャワーどうぞー」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「それはどっちに対して?」
「シャワーに決まってるでしょ」
つい癖で睥睨してしまった。もちろん、鏡花がこんなことで怖気付くことは無いから問題ないが、うーん、鏡花のよく分からない色ボケも、いつかは当たり前になるのだろうか。それはそれで寂しい。いつまでも新鮮に敏感に突っ撥ねていたい。
それはそうと、結構切実に、すぐさまシャワーを浴びたいのは本当だった。なにせ真夏にそれなりに歩き回ったし、危うく鏡花に本心を伝えられないままになりそうだったし、たぶん人生で一番汗をかいた日になった。ついでに恥もかいた、なんてね……。
ふと、曇った鏡を手で払って、自分の顔を確かめてみる。今日一日、ずっと使ったことない筋肉が働いてる気がして、一体どんな相貌で鏡花と対峙していたのか、確かめずにはいられなかった。
「……やばいな」
鏡には、どうしようもなく目尻を下げて、眉を曇らせて、顰めているような綻んでいるような、まるでマーブル模様の自分が映っていた。これが私なのかと、驚かずにはいられなかった。そりゃそうだ、今まで気取って気張って生きてきたんだから。本当の意味でオフの時の私というのは、自分でも見たことがなかった。
もう自分を傷付けることを許容できない。これからは文字通りの意味で、自分を守らないといけない。私は私だけのものじゃない。ちゃんと把捉できてるのかな。んー、できてなかったら、また鏡花に叱ってもらえばいいか。今は逆に、どんな些細なことでも叱ってほしい。
浴室を出ると、籠の中にパジャマが用意してあった。日帰りのつもりだったので、着替えは持ってきてないから、鏡花に貸してもらうことになったんだけど……。
鏡花だったらどうするんだろう。すぅーってやるんだろうか。やるの……か?いやいや、私がやりたいかではないのか。近い将来には、主体的に選択できる責任ある社会人にならないといけないんだから、……辞めよう辞めよう、そもそも鏡花のことだし、私に貸すような服はちゃんと洗濯してるだろうし、鏡花が恋しくなったら鏡花本人に縋ればいいし、迷うほどのことじゃない。
入れ替わりで今度は鏡花がシャワーを浴びに行った。その間、私は部屋の片隅で縮こまって、ドライヤーで髪を乾かしながら、結局隈なく見渡してしまっていた。鏡花が何を好んで使って集めているのか、気にならないわけがない。鏡花を突き動かしていた激情が、今ごろ自分に降り注いで同情できるようになってきた。
とか思ったけど、私にはどうも鏡花ほどの思い切りが無いようで、というか好きな人の家に上がれて、欣喜雀躍だけじゃなくて緊張もしてるみたいで、どうも上手く動けない。さらに、自分の髪に温風を当てると、鏡花のような香りに包まれて、鏡花のパジャマの袖で鼻を覆ってみたりすると、鏡花に抱擁されているような気がしてきて、身が縮むような陶酔を覚える。何だかいけない事をしているような……、でも、かつての鏡花も同じ気持ちだっただろうし、それが間違っているということは無い、のかなぁ。
「縁佳っ」
「うわぁっ、……えっ、えっ、何何!?まだそのっ、あれがあれだから……」
私が気圧されて動揺していると、鏡花は寸前で体を翻して、私に背中を向けて座った。
「髪を乾かしてー」
「はっ、うんっ、それはいいよ、やるけど……」
「ふふっ、これで私の勝ちだね」
鏡花は耳を撫でるような高音で、丸めた背筋を小刻みに揺らしながら、恐らく可憐に笑った。その表情を回り込んで見てやろうかとも思ったけど、体が強張って思うように動かなくて、昔みたいに鏡花を手玉に取れない。
うきうきな鏡花を前から見られないのも、それはそれで辛いけど、愛しい人がこんなに近くにいて、さらに見つめ返されてしまったら、血圧が上がりすぎて、脳の血管が至る所で破裂してしまいそうだから、我慢して手付きだけはごく自然に、鏡花の長くて少し癖のある髪をドライヤーで乾かした。
それにしてもこのお願いって、前に私が鏡花に乾かしてもらったことはあったけど、それと何か関係があるんだろうか。分からない……、でもまあ、鏡花はむしろ様子がおかしいぐらいじゃないと落ち着かないというか、そうやって搔き乱してくれるから、ようやく私が振り回されられたわけで、どんな策謀や象徴が練られていようと、今回も潔く引っかかるまでだな。
「どう、熱くない?」
「んー」
「んー、じゃない」
「熱々」
「あっそ」
「ひどいー」
「ん、んん?縁佳、スマホ鳴ってるよ」
「あー私?……ほんとだ、誰からだろ」
カバンの中からスマホを取り出してみる。見慣れない番号というか、現代っ子なので見慣れた番号がアート引越センターぐらいしか無いというか、電話そのものが怪しく感じるというか……。
「どう思う、鏡花……」
「一応出てみたら?電話越しに物理攻撃はできないんだから」
「じゃあ、覚悟を決めるよ。いくよ、出ちゃうからね」
「うっうん……。こんなにビビりな縁佳、初めて見たな……」
「なんか言った?」
「いえ何でも?」
だいたい鏡花のせいで震える親指で、スマホの画面を凹むぐらい強く押した。
「もしもし縁佳?縁佳なの?」
「はい……?どちら様?」
「あんた今どこに居るの!?バイト先から電話かかってきたんだけどっ!」
あっ。バイト先は両方とも着信拒否したんだけど、まさか親から掛かってくるとは思ってもみなかった。そう言えば、緊急連絡先に勝手に書いたんだっけ。寄りにもよって、鏡花の前で掛かってくるなんて……。
「ちょっとちょっと、切ったらダメだよっ」
鏡花に親指をぐいってやられた。
「え、だって、えぇ……」
「縁佳は私の家にいます。私が責任を持って今晩泊まらせてあげますから!」
「あのー……どちら様?」
「私は島袋鏡花、縁佳のうぐぅーむぐぐ」
「いいから、大丈夫だからっ、もう二度と掛けてこないで!」
鏡花がむぐむぐうるさいので、通話を終了してスマホを遠くに滑らせてから、彼女を解放した。
「はぁー、せっかくの機会だから、言っちゃおうと思ったのに」
「だろうと思ったよ……。鏡花のすることは分かりやすいんだから」
「縁佳」
鏡花は私の名前を口にすると、改まって表情を引き締めて正面に正座してきた。つられて私も正座させられた。まるで説教される前のような、空間に無数の糸が張られて、心臓に絡まって締め付けてくるような、そういうピリピリとした雰囲気で満たされる。こういうのが苦手だったんだろうね、心を許してない相手に、一方的に言われるのが。
「私には言えるよね」
「もちろん、そのつもりで来た、んだから……」
「ちゃんと目を見て」
鏡花のまだ温かい両手が、私の両頬を鷲掴みにする。分かってる、それくらいは助けてもらう立場なんだから、弁えてる。その奥に覗く、ほのかにピンクに色付いた鏡花に、焦点を戻そうと藻掻いた。その努力が報われて、無事に合格したようで、鏡花は手を引っ込めていった。
「今日、本当はバイトだった。私の不手際で、二つのバイトが重なっちゃって、でも断れなくて、もう全部投げ出したくなって。それに、鏡花に覚悟を示したかった。私に対する信用なんて残ってないだろうから、行動で示そうと思った……」
「んー、どっちがいい?」
「どっちって、笑いたければ笑えばいいし、軽蔑したければすればいい。見捨てられても弄ばれても、私は鏡花にしがみ付くだけ。今の私は、鏡花のために何だってしちゃうよ。だから、こんな情けない私を、好きに使えばいいと思う」
「とか威勢よく言ってみたけど、どこ見てるのー?ちゃんと目を見てってお願いしたよね?そんなのも守れないのに、よく言うよ」
指摘されてから慌てて視線を戻す。唇に力を掛けて少し湿らせ、顔を引き締め直して、まだマシな表情にする。こんな顔、雄弁に語って誤魔化しでもしないと、恥ずかしくてやってらんない。慣れたい、早く自然に鏡花と話せるようになりたいのにっ……。
「まあ、それでいいんだよ。縁佳は縁佳のしたいように生きる。変に私の意志の奴隷にならなくていい」
「そんなこと言われたって、だって鏡花にすっ、好かれたいし……」
「そもそも、弱ってる縁佳が希少すぎて、どうしても見たくて頑張ったけど、思い返してみれば、最初に惚れたのはかっこいい縁佳なんだから。むしろ私の言い分を全部受け入れないでほしいぐらい。……それより、聞いてた通り、ほんとにもちもちだ~、もう一回触るね」
「んぐ、んぐぐぐ」
猿臂を伸ばしてきて、ほっぺたを捏ねられた。ほら、跳ね除けてみろーってこと?でも鏡花なら……触られてもまだ平気だから……。自分が火だるまになっていってる気がする。だけど今は痩せ我慢でも、いつか日常に変わると信じて、鏡花の頑是ない欲求に付き合った。
「ね、ねぇ鏡花、どっちって、何のことなの」
「んー?あぁ、優しく肯定してあげたほうがいいのか、それとも縁佳は私に否定してもらいたかったのか。まっ、どうでもいっかー。でもちょっとだけ笑わせて。やっぱり極端すぎるよぉー、縁佳ー」
「しょうがないじゃんっ、鏡花に会うには、それくらいのっ、覚悟が必要だったのっ」
鏡花の揉みしだくペースが速くなる。こうやっていつも、鏡花を調子に乗らせている。でもそれでいい、調子に乗った鏡花は、いつだって私を未知の領域に連れて行ってくれるから。
自分でも思う、こんな意味の分からない迷惑行為で、何が示せたんだって。実際のところ、何も示せてないのだろう。ただ、何かを示そうとしたという努力は、自分を説得するのには必要で、社会に世界に人類にとっては知らないけど、私と鏡花に限って考えれば、無駄ではなかったのだろう。昔は無愛想だった鏡花が、今やこんなに豊かに笑顔を実らせているのを目の当たりにして、自分自身も込み上げてきたことのない感情に押し潰されそうになって、何回だってそう実感するのだった。
「他に話さないといけない事は」
特にない、ないはず……うがっ、思い出してしまった。鏡花にプレゼントを渡そうと、カバンの中に入ったままである。タイミングが中々見つからなくて……それは言い訳だ、でもでもだからって、渡しちゃったら告白みたいなもので、いや、それを意図してるんだから、何の問題もないはずなのにーっ。
という思考が読まれた……訳ではなく、恐らく自分のカバンを一瞥したのに気付かれて、鏡花はそれを手繰り寄せて、勝手に中を漁り始めた。結局、前に進むには鏡花の強引さが必要だったから、予想はしてなくとも期待していたまである。
「これかな。……イヤリング?」
「これはっ、ただのあれのお返しだからっ、深読みしないで!」
「あれって?」
「あれって言うのは、あれだよ、マグカップ」
私がそう言うと、鏡花は目を大きく見開いて意外そうに驚いて、それから期待で胸を膨らませた。
「ちゃんと受け取ってくれてたんだ。え、今も使ってる?」
「それが、誰かが机の上から落としたみたいで割れちゃってて。すぐに受け取らなかった私が悪いんだけど、一応、捨てずに取っておいてる……」
鏡花は自分の優位性をほのめかすように、流し目を私にぶつけてきた。
「そんなに大切だった?」
「……当たり前じゃん。おかしいと思うかもしれないけど、でも、あの粉々になったマグカップが、私と鏡花を結んでくれる気がして、寂しさが少しだけ和らいだ気がして、捨てるに捨てられなくて……」
在りし日の鏡花のように早口で捲し立てると、彼女は微笑んで私の心を奪いながら、イヤリングを耳に着けた。左右に揺らす度に銀色のリングが煌めいて、鏡花の可憐さに拍車をかける。
「これって縁佳がさっき着けてたのの色違い?」
「そうだけど……。ほら、お揃いのものを身に着けたいじゃん……。わっ、私だけじゃないよね……?」
鏡花が頷いてくれるのが、いつしか救いになっていた。鏡花が肯定するかどうか、意志決定も運命も、全部彼女に丸投げしてしまいそうになる。
「もっと早く言ってくれれば、お揃いで街を歩けたのに」
「んん……、いい雰囲気の中、渡そうと思ったんだけど、想像以上に恥ずかしくて……」
「自分のことを過信しすぎだよぉー。想いを伝えるのって、結構大変なんだから。どう?似合ってるよね?」
「過信しすぎって言ったら?」
「そんなの、私に似合うまで買い直しに決まってるじゃん」
まあ、あまり店頭で悩むこともなかったかもしれない。鏡花は何でも似合うだろう。見ない間に、あどけなさを隠し持ちつつも、大人っぽく変遷していた。自業自得だけど願わくば、その変化を間近で感じ取りたかったな。これからは絶対に見逃さない。自分の知らない鏡花は怖くないけど、好きであることは確かだから。
「でも、高かったんじゃない?」
「今まで結構バイトに打ち込んできたから……」
「そのバイトも、クビになるかもしれないけどねっ」
「うっ……、どうしよ……」
「だけど私、そういう不器用な不退転の覚悟、とっても好きだよ。私のこと、よく分かってるね」
鏡花こそ、よく分かってるって褒められるのが好きなことを分かってて、うぅ、ずるい、ほっぺたが落ちるほどに悦びがどばどば溢れて、鏡花が好きだという事実を噛み締めること以外できなくなる。
「ねぇ縁佳」
「な、何?」
「私のことは好き?」
「だから、そう言ったでしょ、何度も言わないよ、恥ずかしいからっ」
「じゃあ、本当かどうか確かめるために、私にキスしてみてよ。どこでもいいから」
軽く尖らせた唇を、手を合わせて人差し指で突き上げてみる私の正面で、鏡花は腕を大きく広げて座りながらも立ちはだかった。
「鏡花ってさ、すぐそういう事したがるよねっ」
「んー……、だって、いつ何時も縁佳と繋がっていたいんだもん」
「身体接触をするだけが恋人じゃないじゃん。私は、鏡花と一緒にいられるだけでも十分満たされるんだけどっ」
「そ、そうなの……?えっと、縁佳が嫌なら辞めるよ。したくない事は、はっきり言ってくれていいから」
「んーもう、そんな悲しそうな顔されたら、嫌だって断れるわけないじゃん!まだ抵抗はあるけど、でも、最終的には気兼ねなく鏡花にくっ付けるようになりたいって思ってる。だから、あんまり忖度しなくていいよ。ちょっと強引なぐらいでも、いいから……」
「それなら尚の事、縁佳からキスしてよ。早く早くぅー」
鏡花はその場でぴょんぴょん腰を浮かせて跳ねて、私を手玉に取れて嬉しそうにしていた。
逃げられないことを悟った私は意を決して、いったん深呼吸して、それから目を瞑って鏡花との距離を急激に縮める。そして膝立ちして首元に腕を回したら、重くてやたら反抗心の強い瞼を何とかこじ開けて、鏡花と至近距離で見つめ合う。今までだって、これくらいの距離になったことはあったけど、でも今日は格段に特別に見える、というか、ここぞとばかりに鑑賞してしまっている。何だかんだ言って私は、昔から鏡花のことを愛くるしいとは思っていたのかもしれない。
「うひひ、余裕ない縁佳かわいいー」
「ほんと意地悪」
「なんとでも言いなさいな。唇じゃなくても、縁佳がしたい箇所にどうぞ」
明日には力尽きていてもおかしくないほど心臓は力強く脈動して、崖から滑り落ちそうになっているかのように鏡花の首にしがみ付く。ありのままの私では、とてもここから距離をゼロにできないけど、興奮して何が何だか分からなくなって、とにかく鏡花を求めているトランス状態の私を必死に手繰り寄せて、そんな自分を憑依させて勢いのままに突っ込んだ、鏡花の首筋に。
「ひゃひゅっ!?」
「ちょっ、変な声出さないでよ!」
すぐに離すつもりだったが、ほんのり温かくて、頸動脈が微かに脈動するのを味わいたくなってしまっていると、鏡花のほうが飛び跳ねて動いた。
「縁佳ったら、そんな場所を……」
「だって、しょうがないじゃん!」
「いいよいいよ、とっても嬉しかった。じゃあ、次は私の番ね」
「え、いやちょまっ」
眩しすぎる鏡花は、一瞬にして影の中に消えた。押し倒して、覆い被さってきた。自分と鏡花の息遣いが混ざり合って、指の付け根が痛いほど手を握り締められる。熱くて純粋な愛情が注ぎ込まれて、繭が崩壊していく。
胸騒ぎと共に幕が下りる。感情とは裏腹に、死ぬ間際のように全身の力が抜けて、羽化できたことを自覚する。幕の上がる頃には新しい章が始まっていることだろう。まあでも今は、この暗い幕間に救われたい。




