9-1
餞別のように残された満目の寂寥感、いつまでも残り続ける錠剤を飲み込んだ時の喉への違和感、そんな中でも一抹の湿っぽさを含む部屋の空気を、布団を首まで掛けて、誰が居ようと変わることのない天井を見上げながら吸い込んだ。
こっちは体調不良で仕方ないというのに、見せつけるような不気味で不謹慎な歪曲した笑顔でも、眩しいものだったんだなぁと、鏡花が居なくなってようやく気が付く。まあ、寝られるようにと、照明を落として帰ってったので、部屋が仄暗くなって、目がまだその暗さに順応できてないだけかもしれない。けど、物理的な変化に意図や感情を見出してしまうほど、精神も衰弱してるというのは、紛れのない事実だった。
私は寂しがってるのだろうか。自分で希望を錬成できなくなって、与えられた試練を自力で克服することを諦めたくなって、そんな風に退化してしまったんだろうか。ないないっ、まあ確かに、今回の風邪はなかなか体が堪える凶悪さだったけど、誰かの助けが必要なほどでもないし、何より誰より鏡花に看病されるなんて、寒気がするだけだ。
鏡花が拭いた箇所が猛烈に冷えていって、皮膚が急速に縮んでいく感触に襲われる。あんな風に優しくされても、全く慰めにならない。居てくれないほうが肩の力を抜けるし、風邪が治るのも早かった、違いない違いない。
そう、自分を信じて、私は何度だって深呼吸した。昼間に寝過ぎて、もう寝られそうにないのである。暇だ……。そう言えば鏡花、何時にだって来てくれるって、啖呵を切ってたっけ。遊び半分に呼び出してやろうかな。……やめとこう、今度こそ帰ってくれなさそうだし、火中の希望に吸い込まれてしまいそうだし。
こうして、私の免疫の頑張りによって、次の登校日である火曜日には七割ぐらい回復してたので、ベッドで寝てても天井に数えるシミがないし、ごく普通に登校することにした。特に喉はまだ腫れてて、声もしわがれたままだ。どれもこれも、鏡花が病人に向かって平気で説教してくるのが悪い。鏡花が来なければ、声を発する必要性も生じなかったのに。
心の中は口さがなくないとやってられないので言ってしまうけど、鏡花はその報いを受けたようで、文化祭終わりの二日間の休みは、どちらも寝て過ごす羽目になったらしい。今も、鼻水をすすりながら、食欲にも陰りを見せている。
「鼻が詰まってるから、全然味がしなくて美味しくない……」
「しまちゃんの食欲がないなんて、これは一大事だな……。ちょっとがすよ!何してるの!」
「私のせいじゃないでしょ……」
「だいたい、本調子じゃないなら休めば良かったのに。がすよに言ってるんだよ」
「今日は文化祭の片付けがあるでしょ。これ以上、みんなに迷惑をかけたくないから」
「それは殊勝な心掛けだけど、がすよが来るってなったら、しまちゃんだって心配で学校に来ちゃうでしょ」
「知らないよ、そんなこと」
壊れた機械のように頷いてるけど、鏡花さんねぇ……。私には散々、自分の体調を案じろって言ったくせに、自分も無茶するんだから。お互いさまである。そんな二人が言い争ってたなんて、鏡花が看病してくれたあの日の私たちは、どれだけ醜かったんだろうな。
「本当は、昨日も一昨日も縁佳の家に行って、料理でも振舞おうと思ってたのに。どうせ、一人だとめんどくさがって、碌に食べないだろうから」
「そんなこと言ってるけど、鏡花、お茶漬けなんて手抜きで済ませてきたじゃん」
「はっ、あれはっ!私もお腹空いてたから、しょうがないでしょ!」
「まっ、別に鏡花の手料理なんて、微塵も興味ないけど」
「はぁっ?私の炒飯ぱらぱらだしっ、餃子はぱりぱりだし、麻婆豆腐なんて火を噴く辛さだしっ」
「風邪引いてる時に、激辛麻婆豆腐なんて食えるか!」
「風邪引いてる時こそ中華って相場が決まってるの!」
「それ、鏡花だけだからね!」
「はいはい、二人とも落ち着いて、惚気は視聴者に十分伝わったから。また熱上がっちゃうよー」
何、分かったような顔をしてやがるんだ明世は。まあ、本当に分かってるんだろうけど、どう制裁してやろうか、コンビニで買ったおにぎりを一旦置いて、机の下で拳に力を籠めながら思索してみる。……鏡花は考えなしに、渾身の一撃を明世の肩にぶつけていた。
「いっっったっ!」
「私だって惚気たいよ。ちくしょう、成就してるからって、安全圏から調停者気取りなんて……」
「ま、待って、成就って何、成就とは何か、定義から、あっ明らかにしようじゃないかっ」
明世に対してそこまで強気に出て、あまつさえ動揺を引き起こせるとは。鏡花も成長したんだなぁと、しみじみと感心してしまっていた。本気で感心したんだ。感心なんて、好きな人に向ける感情じゃないと思う。だから私は、やっぱり鏡花のことなんて好きでも何でもない。良かったー。
……なんて、そう思って、鏡花のことを冷めた目で見て、距離をとことん維持しようとすることは、果たして最善なんだろうか。力を入れたはずの拳はいつの間にかほどけていて、視線もいつになく俯いていく。自分だけの殻に閉じこもって、自分だけで過去現在未来をなりふり構わず再検討してしまう。一昔前の鏡花のように、思索から抜け出せなくなる。
看病に来た鏡花が、叱りつけるように放った言葉の数々とか、私の親子関係を否定したこととか、微塵も正しいと思わない。絶対にその通りに生きてやらない。そもそも、文化祭を捨てて看病に来るという行為自体が、乾いた笑いが収まらないほど間違っている。
けど、鏡花が帰ってから、まるで実態を伴ってるかのような暗鬱が襲ってきて、暗い世界に一人ぼっちのような物悲しさを覚えたのも事実だった。そして風邪が治った今も、それが薄く引き延ばされて存在しているような、どことない感覚が継続している。世界に薄っすらとした影が立ち込めてるような感じがする。漫然と、とめどなく続くんじゃないかという恐怖が、風邪は治ったはずなんだから、これは一体何なんだという正体不明なところが、一層雲を厚くしている。風邪まっただ中の、鉛のように頭が重い頭が割れるように痛くて気怠くて、何もしてないのに気持ち悪い、そんな地獄のような時間のように、この後遺症にもきちんと終止符が打たれるのだろうか。
誰かに面倒を見てもらわないと風邪を乗り越えられなかったり、休めたからいいものの、このまま舞台に上がってたら恥をかくところだったり、そうか、私は自信を喪失してしまってるのかもしれない。私にとって自信が無くなるのは、路頭に迷うことを意味していて、だから仄暗い世界に囚われてるように感じてしまうのだろう。
ふと、鏡花からの視線を感じて、今から取り繕うのも不自然だろうから、証明写真のような面持ちで見返してあげた。鏡花の針を隠したような双眸に、麦茶を流し込まれて汗を拭われて、お茶漬けを持ってきて何度も体温を測られて、気を遣われて体を拭かれて、そんな甘ったるい悪夢を無理やり呼び起こされる。多分、覚えていたくない記憶を脳が処理してる。三日前とは思えないほどぼやけていて、でも異様なほど鮮やかで、視覚以外の四感に訴えかけてくる。思い出すだけで風邪がぶり返しそうになる。鍵をかけて、その鍵を海にでも投げ捨てたい、そんな記憶。
弩級の意地っ張りに見えるけど、結局プライドに生かされてる以上、体の健康よりも矜持を優先するのは、当然のことなのである。だから私は、鏡花のこの心からの満面の笑顔を、小憎たらしいと一蹴し、否定する。そうしないと、無我夢中で強引に尽くしてきて、私の要望も信念も価値観も全部真っ向から無視して、触れられたくない部分に臆面もなく触れてくる、鏡花という怪物から自分を守れない。
「ほら、しまちゃんがこんなに笑ってるんだから、そんな、惰性でクソ滑りまくってるバラエティー番組を見てる時のような顔をしないの」
「娯楽が氾濫してるこの世の中で、自分に合わないつまらないものを、無理して見る余裕なんてないと思うけど」
「それは論点のすり替えですな」
「ですなですな」
鏡花は何度か頷いた後、改めてかわいこぶった大げさな笑顔を披露してきた。目をぱちぱちさせて、上目遣いで媚びるようで、私の口元が緩むのを律義に待ってるようだった。
「こんなのは、鏡花らしくない」
「何?らしくないって何?」
鏡花が小鼻を膨らませながら迫ってきた。私は、らしくあることは、何事よりも優先されるって、つい口を滑らせてしまったみたいだ。鏡花と私の、絶対に相容れない相違点、そんな気がする。
「何でもいいよ。ほら、早くご飯食べよー」
「んー……、何を食べても味がしない……。縁佳はどうなの?」
「おにぎりって、具材以外味がないよねー」
「しまちゃんさ、こんな味音痴に手料理なんて作らなくて良かったんじゃない」
「かもね。ありがたみを感じなさそう」
料理に手が付いたところで、脳に痺れる快楽が行き渡るわけでも無かろうに。何を二人はそんなに神聖視してるのやら。顔を微かに歪めて意志表示をしつつ、海苔がくたびれ始めたおにぎりを啄んだ。
昼休みが終わり、教室に凱旋して自分の席に着くと、背後から既視感のある嫌な湿っぽい熱というか気配が流れてきて、さすがに見逃せず、幽霊を出し抜こうとするような勢いで振り返った。まあ、そこに立ってたのは、怪異の類いではなく、マスクで口を縛り付けた、ただの人間の露崎だった。まだカバンを抱えてるし、今学校に来たところなのだろう。
そんなめちゃくちゃ熱っぽそうに見える露崎は、後ろの席をのっそり引いて座りながら、予想を裏切らずにしわがれた声でおはよーと挨拶してきた。
「いやー、風邪引いちゃってね……」
「私が原因だと言いたいの?んー、否定はできないけど……」
「直接よっすーから貰ったんじゃなくて。一度鏡花ちゃんを経由したんだと思う」
「あぁそう言えば、打ち上げやったんだって?それで鏡花から皆に……」
「それが、私だけなんだよねぇ。モロックマもねこも、安栗も鑓水も篠瀬も、みんな健康体らしくて……。解せぬ」
「せめて学校を休めば良かったのに」
「私はね、皆勤賞を狙ってるのだよ」
「無遅刻無欠席が条件だから、この時間に来ても、もう遅いよ」
「えぇ?冗談だよ。そもそも、このご時世に皆勤賞があると思わなかったし」
ちなみに、文化祭の日は出席すべき日としてカウントされないため、私はまだ皆勤賞を狙える。該当者は卒業時に生徒会から贈り物があるらしいけど、それってつまり生徒会長たる私は、学校の金を使って自分で自分に贈れるってこと?
「まあ、誰かに風邪が移らないといいけど……」
「だよねぇ。分かってるんだけど、やっぱり退屈というか、寂しいというか。よっすーみたいに、面倒を見に来てくれる親友?彼女?が居るわけでもないし」
「そんな懇ろな関係じゃないんだけどねぇ」
「なんか、そういうとこ冷めてるよねー、よっすー」
「まあ、冷めてるよ。だいたい熱は下がったから」
「照れてるって感じでもなく、本気で迷惑って言いたげだよね」
露崎は手の甲に顎を載せて、そんな事を歯切れ悪く言った。背筋が凍った、それは怪談を聞く時の正しい反応のように。そうだなぁ、私もマスクしてくれば良かった。仕方ないから煌びやかに笑顔を作ってみる。
この先に定期テストが待ち受けてるという現実を受け止められず、未だに文化祭の高揚感を引きずる教室のさんざめきが、私たちの間を静かに流れていく。過剰な演技だったかもしれない。その後悔が煮立つ前に、露崎は自分の顔を手の甲の上で転がした。
「んー……?手本引きフェイスなだけで、やっぱり本当は照れてるの?」
「もうそれでいいよ。ばかばかしい」
「全くぅー、よっすーったら。感謝の心は忘れちゃダメだよー?」
「え?あ、うん。……もしかして鏡花、打ち上げの時に、なんか言ってた?」
鏡花のことだから、私のことをまるで意固地な子供のように語って、自分の行いを周囲の力を借りて正当化してそうだなぁと思い至った。最近の鏡花は、私のそういうところも見習ってしまってるような気がする。見て盗まれた、はぁ。
「うーん、そうだなぁ。あっでも、鏡花ちゃん、私とも結構話してくれるようになってねー。こんな事を言うのも偉そうだけど、ちょっと社交的になったんじゃない?」
「その、具体的にはどんな話をしたの?私の話……だよね」
自分の知らない場所で、何か事が進むのは私だって怖い。だから、鏡花が社交的に進化したのも、受け入れ難いことなのである。私が知らない間に誰かに感化されて、想いを開花させて、無謀な行動への原動力に昇華させる。少しでも情報を集めておこう。残りの高校生活約一年半を、安寧したまま経過させられるように。
それで、病み上がりの露崎でもお構いなく、一言一句復元するよう暗に圧を掛けてみた。
「共通の話題なんて、よっすーしかないからねー」
「私について、何を語ろうというのさ。陰口?辞めてよ、普通に傷付くんだから」
「いや、普通に無理すんなとか、逆ギレすんなとか、積年の愚痴を聞いた」
「待て待て、逆ギレなんてしてないからっ。あれはその、マジで一番体調悪い時に話しかけてきたり、ご飯持ってこられたりしたら、そりゃ多少語気が荒くなることもさもありなん」
慌てて訂正しようと、喉の痛みをフラッシュバックさせるほどに言葉を高速で連ねた。露崎のうそぶきも含まれてるだろうけど、火のない所に煙は立たないわけで。社交的になるというのは言葉の綾で、その実情は口が緩々になったという意味なのだろうか。
そうなると、私の壁の内側を、鏡花に知られすぎたことが致命的になる。それでも何とかなるだろうと高を括っていられたのは、ひとえにこの関係が私と鏡花で閉じているという前提があったからで、つまるところ、ただの依存を恋愛感情と勘違いするのを正すために、他の人に接触させたのは間違いだったということなのだ。破滅……はしたくないな。だからできる限り、藻掻いてはみるけど……。
耳の先が熱くなっていく。鏡花に麦茶を有無を言わさず流し込まれたあの時のように、判断力が如実に失われてる。緊張って、こういうものなのだろう。鏡花も、数々の山場でこんな悶絶を味わったのだろうな。同情したんだから、救いをくれよ……。
「いやいや、ちょっと怒ってたよ。この件に関しては、私、鏡花ちゃんの肩を持つかな」
「まぁー……、そうだね、連絡ぐらいはするべきだったし、そもそも健康管理をもっと真面目にするべきだった。ごめんっ、心配と迷惑を掛けて」
「それは鏡花ちゃんに言わなきゃ意味ないよ。あそこまで自分を犠牲にしたんだから、文句の付けようなんて無いはずでしょ」
「言ったよ、それに今度、何か埋め合わせようと思ってる。露崎に督促されなくても」
「んんーー、何だかなぁー、何だかなんだよなぁー」
「はっきり言ってみな」
「えぇー、風邪が治ったらね。今は複雑なことを言語化できるほど余裕がない」
危機感に押し潰されそうになって、とっさに追及しようとした矢先、先生が教室に入ってきて授業が始まってしまった。いや、これ以上露崎とこの話題を繰り広げていたら、私の心臓はプライドは、無事で済むのだろうか。むしろ、ここら辺で打ち切りにしてくれたことに、感謝すべきなのかもしれない。
「当機はまもなく離陸いたします。シートベルトが腰の低い位置でしっかり締まってるか、今一度お確かめください」
と、アナウンスがあったから、改めてシートベルトを確認してみたけど、こんな軟弱そうな布切れで助かる命はあるんだろうか。なんて疑ること自体が、怯懦の証である。まあ飛行機なんて私にとっては、未知で予想外のものだから、そういうものを恐れる人間こそが、野生の中で生き残ってきたんだから、私にその遺伝子が刻まれてても仕方ない仕方ない。
「いやー、わくわくするねっ」
「えっあっ、そっそこまででも……」
「えぇ?よっすーはペシミスティシャンだなぁ。修学旅行ぐらい、聞き分けよく楽しめばいいのに」
「ん、あぁ、わくわくって、そんな小学生みたいなわんぱくな期待はいだけなくなっちまったなって思っただけ。てか、ペシミスティシャンって何」
普通に、飛行機に対して、空を飛ぶことに対して浮足立ってるのかと、とんでもない勘違いした。ビビりすぎて、完全に意識がそっちに持ってかれてる。
まあ、飛行機に怯えてる人は私だけじゃないだろうし、それが沽券に関わるということも無いだろうから、気楽にありのままに怖気づこう、うん。手汗も気にせず、遠慮なく両方の肘掛けを強く握りしめた。
「お、そろそろ飛ぶんじゃない?」
「はへっ!?こんな、ぬっぬるりと飛ぶの!?なんか準備とかないの!?」
「もう準備は済ませてるでしょ。カウントダウンでもあると思った?」
緊張を後押しするようにフロアを盛り上げるように、エンジンが唸り上げて耳をつんざいて、凄まじい加速度で背もたれに押し付けられて、これがブラックホールの中と言われても信じるぐらい、体の各所にあらぬ力が加わっている。降りたい……、この私の胸中で、こんなに衝動的な欲求が沸き立つことがあるとは……。
で、そんな爆音の中、平然と露崎は話しかけてくる。なんか機内の空気って、やけに乾燥してるので、あんまり喉を開きたくないんだけど。
「そうだ、歩いてよくなったら、鏡花ちゃんと席を替わるよ」
「はぁっ?要らない要らない、その配慮」
修学旅行ぐらい、鏡花のことは忘れて楽しみたいし、それに、こんな無様な姿を見られるこのは嫌だし。私が恥ずかしいのはともかく、鏡花を利することになってしまう。はぁ、少しは私の事情も慮ってほしい。最近の皆は、鏡花に肩入れしすぎなのだ。
で、窓の外に釘付けになっていると、水平線が傾いて、地から足が離れたことを悟る。地上で暮らしてると気付かないけど、重力さえも絶対ではないのだと思い知らされる。縋っていた絶対的なものが崩れると、一気に不安になる。
旋回のため飛行機が大きくロールすると、それに合わせるかのように、露崎がこっち側に体を乗り出してきて、窓の外を指さした。
「あ!あれが白高じゃない?」
「あー、そうだねー」
「いいよねぇ、空から街を眺めるの」
「Googleマップで衛星写真でも眺めればいいじゃん」
「今日のよっすー、会話下手だね」
「だって、広げる気ないもん」
「まあ分かるよ、修学旅行の前の日は眠れないよなぁ」
おぉ、なんて話の飛躍……それで思い出したけど、こんな不安定な飛行機の中で、どうやったら寝られるんだろうか。ハンモックでさえ両端は柱に結ぶし、砂上の楼閣でさえ地に土台が付いているというのに。早起きに起因する薄っすらとした眠気は見る影もなく、目を閉じることさえ気合いが必要だった。
しばらくして、すっかり街も田んぼも雲海の下に隠れて、シートベルト着用サインが消えると、間髪入れずに鏡花がやって来た。一応、用もなく立ち歩くなって注意されてるし、この学校の人、何だかんだ真面目だからみんな守ってるんだけどなぁ……。
「よすがぁーっ!」
いつもより大声で、元気よく名前を呼んできた。さすが修学旅行、はしゃいでるなぁ。
「それじゃあ私はここでー」と言って、露崎は気前よく鏡花に席を譲りやがった。修学旅行だろうと、私は鏡花から逃れられないらしい。……そんな気はしかしてなかった。貴重な文化祭を、私の看病に費やして幸せそうにする奴なのだから。
私の隣に座った鏡花は、律儀にシートベルトを締めると、自分のお腹を擦り始めた。
「お腹空いたなぁ……」
「一応言っとくけど、機内食はないからね?」
「えぇ!?無いのっ!?」
「あるわけないでしょ。たかが1と1/4時間のフライトなんだから」
「はーあ、機内食のない飛行機なんて、放水できない消防車みたいなもんだよー。はむっ」
まー鏡花が食べ物を機内に持ち込んでないはずもなく、彼女は甘食を軽々と口に詰め込んでいった。見てるだけで、唾液が虚空に消えていく。
甘食三枚ぐらいあっさり完食した鏡花は、鼻白んで目を細めてた私に、体を捻ってこっちのテリトリーに乗り出しながら、ご満悦な顔ぶりをひけらかしてきた。
「んふふふーん」
「楽しそうねー」
「修学旅行は楽しいものだよー。縁佳と一緒だし」
「飛行機が全然楽しくない」
「んー、縁佳って飛行機は初めて?」
「前回乗ったの、小学校に上がる前とか、それくらい昔だから。実質初めてみたいなものね」
「私は一年に一回は乗ってるよ」
「だからそんなに、従容としてられるってわけかー」
そう納得してみたものの、仮にバンバン海外出張に行くような仕事に就いたとしても、足が地を離れる感覚に慣れられる日が来るとは、想像できない。
「まーでも?今回は縁佳とだから、家族も児玉家もいないから。新鮮だしとっても楽しみ!」
「言うと思った」
「以心伝心?」
「常に決められた返事しかできない、AI未満の存在だなぁと」
「縁佳の部屋のスマートスピーカーっていうのも、アリかも」
「はぁ……?」
「だって、顎で使ってくれるじゃん。それって、頼りにされてるってことだよね」
「歪んでるなぁ……」
しかしこっちの、粘っこくて奇を衒ったようでうざったい言い回しの方は、少々慣れてきた。向けられても、顔を歪めることなく受け流せる。鏡花のことなんて、どうでもいいって思ってきたのかもしれない。
大阪というのは存外近場で、さっき飛び立ったばかりな気もするけど、飛行機はあっという間に着陸態勢に入って、ベルト着用サインが点灯した。鏡花は終電なくなっちゃったみたいな顔で、依然として露崎の席にふんぞり返っている。まあ、クラスも違えば行動班も違うし、今ぐらいは鏡花の近くに居てやってもいいか……なんて、マザーテレサも嫉妬するほどの慈悲が込み上げてきた。
窓の外を一瞥すると、遥か下にカーペットのように敷かれていた雲々は、今や真横まで迫ってきていた。毛羽立った雲の上を、飛行機は滑るように進んでいく。当然、雲の中は真っ暗で、その下に街が広がっているなど想像も付かない。まあ、そんな眺望より刺激が欲しいお年頃だろうと、機長からのご厚意で、雲の中に躊躇なく突入して、機体は激しく揺さぶられた。
無言で雲の断面図を眺めていると、鏡花に名前を呼ばれて、なんかそれのせいで急降下したような感じになる。脳は本当に緊急時にならないとリミッターを外さないと言うけど、その緊急時とやらが今である。ただ握力計を握るだけでは出せないほどの力で、肘掛けに縋り付いていた。
「縁佳」
「何っ」
「怖いの?」
「怖いよ?悪い?」
「悪くないけど……」
「じゃあ幻滅した?いいよ、幻滅してくれて」
「私が縁佳に憧れてたのは、とうの昔のことだよ?落ち着いて、もう少しの辛抱だから」
鏡花は、私が肘掛けから手を離せないのを知ってか知らでか、右の手の甲を両手で包み込む暴挙に出た。だからっ、してほしい事とか勇気付けられる事とか、自分と同じであるはずないのに、いい加減気付いてほしいんだけどっ……。右手を少し傾けてみたり浮かせてみたり、そうやって抵抗しようとすると、より強い力で握りしめてくる。調子に乗った鏡花を止める手立てはほぼ無い。甘んじて受け止めるしかない。こんな感覚にも、慣れられる日が来る気がしないな……。
「欲を言えば……、もっと、こう、『きゃー』って叫び声を出したり、『うぐっ……』って情けない声を出したりしてくれても良いんだよ」
平静を装おうとしてみてるけど、想像してしまったのか、途中で吹き出しそうになる鏡花なのであった。
「なんで鏡花の気持ち悪い願望を叶えないといけないのさ」
「んー……、こっこれはね、縁佳の為でもあるんだよっ。縁佳、周りにあまりサインを出さずに、孤独に静謐に自分を追い込むように懊悩するじゃん。その癖を直す第一歩ってことで」
「何?その取って付けたような適当な理由」
「結構的を射てると思うんだけど!」
「別に、怖いの隠してるわけじゃないし。離陸から一時間ぐらい、座り直すこともせず、この姿勢から微動だにしないんだから、普通に怖がってるんだなぁーって、みんな推察できてるんじゃないかな」
「でも、心配はされたくないんでしょ」
「それは、だって、怖いだけで本当に墜落するわけじゃないじゃん。なのに、墜落するかもって恐れてる人を肯定する必要なんて無いでしょ」
私が正論をかますと、反駁できなくなった鏡花は、文字に起こすなら「んふふふ」と、また気色悪くほくそ笑んだ。一体、どれだけ惚けた表情をしてるのか、薄暗くてどうせよく見えないだろうし、もう一度窓の外に意識を向けることにした。……大目に見よう、修学旅行ぐらい。
もう数分は雲の通い路を下っているのに、一向に下界が姿を現さない。何となく暗くて湿っぽくて下り坂で、地に足が着いてなくて方向性が不明瞭で終わりが皆目見当も付かなくて、まるで私の現況のようだから、逃がしようのない恐怖を覚えてるのかもしれない……なんて、大気の循環に、z軸方向の加速度がなす芸当に、面倒な仮託してみた。
「というか鏡花っ、いつまで手を握ってるのっ。こら!指を絡めてくるなぁ!」
「うししし、やっぱり、余裕のない縁佳は、眼福ですなぁ」
背もたれに後頭部を付けて、存分にリラックスもしている鏡花は、頭をそのまま少しこっち向きに倒して、歯を見せて笑ってきた。そしてたまたまな偶然、その瞬間に雲を抜けて、眼下に大阪 (と兵庫) の街が広がって、窓から銀色の光がおぼろげに差し込んでくる。この、悪魔に生気を奪われるような感触も、もう少しの辛抱か。
私も、この温もりを、鏡花という人間を受け入れさえすれば、こんな薄雲る日々に終止符を打てるのだろうか。自分への不幸を幸せの養分とする今の性分ではなく、幸せを幸せで育むような、そういう永久で不変で健全なサイクルを回せるようになるのだろうか。分からない、けど、私だって少しは変わらないといけないような気がした。うん、ただのフライトで思い直すことでは無いな。
「縁佳と居ると、思い出に事欠かないねっ」
特に墜落することもなく、握り過ぎで肘掛けが折れることもなく、私の摂取し過ぎで鏡花が気絶することもなく、無事に万事順調に大阪に到着した。ここからは電車で京都まで移動して、それ以降は京都市内を、五人程度の班ごとに自由行動することになっている。
「ここが京都かー。なんか、街並みは日本風なのに外国人だらけで、頭がバグるなぁ。ねぇ、よっすー」
「んんーっ……、うん、そうだねー。地元じゃこの量の外国人はお目に掛かれないな」
「あら、長時間の移動でお疲れ?」
「まあ、腰に中々の負担が……」
飛行機の中では姿勢を一回も変えられなかったし、更にそこから観光客と地元民がひしめき合い輻輳する満員電車での移動だったので、全身の筋肉が鈍って凝り固まっている、南極の外気に触れたバナナのように、無理に動かそうとするとパキパキ割れてしまいそうだった。ただの国内線だったから良かったけど、修学旅行先が海外だったら、エコノミークラス症候群で死んでたかもしれないな。とりあえず、ここから清水寺までは坂が続くみたいだし、登っていけるよう何度か気兼ねなく伸びをさせてもらった。
「露崎も、京都に来るのは初めて?」
「うん。小中両方とも、修学旅行は東京だったからねー」
「私は、小学校は会津だったな。まあ、何一つとして思い出せないけど」
「さすがだねー、よっすーは。カンタベリー大聖堂でもフーバーダムでもベレンの塔でも、感動しなさそうだもん」
「なんだそのチョイスは……」
それにしても、参道のお土産屋さんとかお茶屋さんとか、どうせぼったくりなんだろうって気持ちになって、全く惹かれない。これだから観光地は。まあいいや、私たちのような金のない日本人は、敬虔に寺院に参拝して帰ろう。
そう思った矢先、鏡花と明世と永田の班が付けてきてることに気付く。これだけの雑踏の中にも関わらず、彼女たちは正確に私の歩いた後を追尾してくる。全く見失ってくれなさそうだった。警察とカーチェイスしてる気分になった。絶対に逃げ切れないって分かってるけど、でも捕まりたくない、そんな気分。
鏡花たちの存在を認識してからは、絶対に振り返らず、そして道中で油を売りそうになった班員に、まず清水寺の本堂を観光しようと声を掛け、決して立ち止まらずに参道を突き進んだ、のだけど……。
「これが仁王門かー!よし、せっかく来たんだし、写真撮ろーよー」
「じゃ、よっすー一緒に撮られな。はい、いくよー」
「えっ、えぇ!?いや撮らなくていいって、邪魔になるって!」
「記憶よりは写真のほうが、色褪せるのが遅いからー」
露橋は颯爽とスマホを構えて、私と宮橋、人によって態度を変える、文化祭でバンドを組むはずだったあの人が宮橋、そいつとの写真を撮られた。いや別に、写真を撮られることに抵抗があるわけじゃないんだけど、足を止めてしまったが最後、私たちは鏡花に噛まれることになる。鏡花は割り込んできて、宮橋に重なってきた。
「あ、次どうぞー」
撮られるとすぐに、電車で席を譲るかのように、腰を低く丁重に宮橋の前から後ろに下がっていった。
「次どうぞも何も、鏡花が割り込んできたんでしょ」
「どうもどうも、露崎!もう一回撮って!」
「えぇ?宮橋、あんたも普通に受け入れるの!?」
「はい、二枚目いくよー」
露崎がそう呼び掛けるので、宮橋と線対称になるように、慌てて手を置いてポーズを取った。今度は普通に宮橋と写真が撮れた。
しかしまあ、追い付かれてしまった。そうなると、まるで同じ行動班かのように話し掛けてくる。別の班だし、修学旅行の間は合法的に鏡花のご機嫌を取らなくていい……なんて考えは甘すぎた。そう、鏡花が両手に握る、串刺しバームクーヘンとソフトクリームのように。うーむ、なんか苔むしたように、あるいは緑青のように緑色だし、案外甘くないのか……?
「いやぁー、行き先がたまたま同じなんて、運命は侮れませんなぁー」
「ほんっと、鏡花は自由ねぇ……」
「自由行動の時間なんだから、自由でしょ?」
「班ごとに行動しなさいって言われたでしょー」
「まあまあ、そう杓子定規にならないの。清水寺なんて定番スポットなんだから、そりゃあ被ることもあるよー」
明世が斜め後ろから鏡花を抜かりなく擁護してきた。ちなみに鏡花は、手に持ったスイーツを目にも止まらぬ速さで口にしながら、いけしゃあしゃあと私の真隣を歩いている。
「めっちゃ機敏に器用に付けてきてたの、知ってるんだからね」
「別にいいじゃんっ!私は縁佳と修学旅行したいのーっ!」
「駄々こねないで、めんどくさいから」
「めんどくさいって何だ、竹を割ったような性格なんだぞー!」
「枕を割るの間違いでは?」
「何だと、土俵を割らせてやるから覚悟しとけ」
脇にも階段があったけど、何となく仁王門の下を通ることを選び、こうしてようやく清水寺の境内に足を踏み入れた。後ろを振り返ると、京都の街並みが薄く広く見渡せる。それくらいには上ってきたらしい。人が多すぎて疲労して、すでに感動する感性が鈍ってる。決して、感受性が息をしてないわけではない。
そして、私が後ろを向けば、当然鏡花もそうしてくる。三歳頃の子供はよく、親や友達の模倣をするらしい。そういう事なのだろうか。
「大玉転がしができそうなぐらいの人口密度だ……」
「なんかもっと、静かな場所が良かったな」
「それって私と二人きりに……?」
「鏡花が一番うるさい」
「いやいや、あの外人のほうがやかましいし!」
「ちょっと、指を差すんじゃありませんっ」
私がそう言うと、鏡花は両手で口を押えながら、流し目にこっちの様子をうかがいつつ、堪らず相好を崩していた。その笑顔はいつまでも終わらなさそうで、枯れることなく無限に溢れ出るような気がした。恐らく彼女が全修学旅行生の中で一番、この瞬間を楽しんでいるのだろう。
私に観察されてることに気が付いた鏡花は、気圧されることなく、小首をかしげて違う角度の笑顔を見せつけてくる。その様相にはあどけなさよりあざとさが多分に含まれてて、そうねぇ、その気になれば、私じゃなければ簡単に落とせそうなものなのに、どうして私に足を取られて、傷付いてその傷を癒そうと、また私に触れようとして傷を深くしてしまうのだろうか。
まあ、鏡花が自分の使い方を間違ってるという話はともかく、境内に入ってもまだ石段は続いていて、とりあえず人の流れに乗って上ってみる。
「清水寺って世界遺産?」
「家から徒歩三分のお寺より立派だから、多分そうなんじゃない?」
「おー、じゃあすごいんだー。神秘的で荘厳な感じー」
「鏡花は意外とブランドに食いつくのね」
「そう言う縁佳はどうなのさ。世界が認める日本の遺産に、どんな感興が惹起されたのさ」
「えー、なんかぁー、城塞みたいな寺だなぁーと思った。石垣とか、そんな感じがする」
それくらいしか感想が出てこない。良かった、帰ってから感想文を書かされるなんてことが無くて。下調べなんてしてないので結局、二人で浅い感想を言い争って、ヘラヘラするしかなかった。
「まぁー?千年前からこんな感じだったって想像すると?凄い感じもしなくはない」
「そうだねー、祇園精舎の鐘の声が聞こえてくるー」
「いや鏡花、祇園精舎ってインドにあるんだけど」
「そうなの?京都にも祇園って地名あるから、その辺にあるのかと」
「清水寺と言えば、やっぱり舞台だよねー。あっ、みんなー、こっちだってさー」
石段を一足先に上り切った宮橋が呼び掛けてきて、こちらの世界、私が生きるべき世界に引き戻される。気が付くと、本来の班員を差し置いて、二人だけで会話のキャッチボールをしていて、二人だけで居るような感覚に負けそうになっていた。
い、言い訳をするなら、鏡花とはサシで話すことが多くて、そうなると大勢でいる時よりも、一言一句に集中する必要があって、自然と周囲からの情報をシャットアウトしてしまう癖が付いてしまったのである。なんてことだ……、鏡花と駆け引きなんてしたくなかったのに。
「じゃあ、私たちも清水の舞台を見に行きますかー。ね、しまちゃん」
「うんうん、ちょうどそうしようと思ってた」
先行する宮橋がふいに振り返って、並んで歩く私と鏡花を見てきた。怪訝そうな表情をされた。自分の班の人が、全然知らない人と行動してたら気まずいことは、鏡花じゃないんだから理解が及ぶ。しかしまあ、こうやって鏡花から離れようとしても、すぐに大股で追い付いてくる。もっと距離が離れると、手首を掴んできやがる。いつも通り、免れることはできなくて、鏡花の欲望のままに流される。もはや私は、彼女に篭絡されてると言えるのかもしれない。
隣を歩くことを容認する代わりに、腕を揺さぶって合図して、掴む手を離してもらう。何十回としてきた暗黙の営み、鏡花はこうすれば餌が貰えると学習してしまったようで、今も意地汚い浮ついた表情を覗かせながら、貪欲に愉悦を味わっている。小賢しくて憎たらしい、そんな素朴な感情は、果たして大切にするべきなのだろうか。
「ねー露崎、あの人誰なの?」
「あの人?あぁ、髪が末広がりになってる人のこと?」
「え?謂わんとしてることは分かるけど……。よっすーにみたらし団子を押し付けてみたり、よっすーもよっすーで満更でもなさそうだったり、一体何者?」
「だってさ、よっすー。直接聞けばいいのに」
せっかく美味しいらしい蕎麦を啜ってるのに、テーブルは別々になれたのに、どこまで行っても鏡花の話題が付きまとってくる。冷たい蕎麦はこれ以上冷めないとは言え、早く食べたほうが美味しい……んじゃなかろうか。分からん、鏡花が勧めたからこの老舗っぽい蕎麦屋に入ったけど、蕎麦の良し悪しなんて分からんなぁ……。
「いや、宮橋は露崎に聞いたんだから、露崎が答えるのが道理でしょ」
「でも、鏡花ちゃんのことは、よっすーが一番よく知ってるじゃない」
「一番なわけないよ。私よりも、前生徒会長とかねこの方が付き合い長いだろうし、悪だくみするときはいつもモロックマが監督してるし。私は上っ面の鏡花しか知らないんだよ」
「それってつまり、もっと内面を知りたいってこと?」
宮橋は蕎麦を飲み込んでから、目を丸くしてそう聞いてきた。
「あぁ?全く興味ないね。そもそも、他人に見せるのが後ろめたいから内側を向いてるのであって、そんな物を見たところで、嫌な気分になるだけなの。追求するべきじゃないし、公開するべきでもない」
「うむうむ、含蓄があるねー、哲学だー」
「そうかなぁ。何だかなー、修学旅行でするには、重苦しい話題だよー」
そんな明世みたいに、露骨に空気感を変更させようとしてくるなんて、露崎も修学旅行に浮かれてるのかな?まあしかし、その配慮は活用させてもらおう。もう一度、無念無想で蕎麦を啜り始めた。んー……、スーパーで投げ売りされてる蕎麦よりは、芳醇なのかなぁ。
とは言え、割高な物を美味しいと思ってしまったら、日頃の食生活が侘しく感じてしまうので、むしろ好都合なのかもしれない。そう刷り込んでいると、落ち着きのない宮橋は、体を傾けて再び鏡花の様子をうかがった。
「ところであの子、一体どれだけ食べるの??」
「ぶはっ、うぉーい、まだ鏡花の話するか!」
「いやだって、だってさ?あったかいのと冷たいの、鴨せいろに天丼まで頼んでるけど。何何、そういう動画を撮ってるとか?YouTuber?」
「なわけ無いでしょ」
「なわけあるよ!金にならないのに、あんなに食べるわけないもん!」
そんな事で強情を張らないでくれ……。もうそれでいいや、と投げやろうとしたのだけど、宮橋は自分の食事に集中せず、度々身を乗り出して鏡花の様子を確かめて、その都度説明を求めてくる。その上、鏡花が食事してる風景を何度も見せられると、食欲がみるみる減退していく。……やっぱり、羨ましく思う気持ちは拭えない。いいなぁ、美味しそうに食べられて。
胃が膨らんだ圧迫感と話題を逸らすために、すでに完食してスマホをいじってる露崎に話しかけた。
「ねー露崎ー?」
「ん?どうした?」
「あ、そうそう、鏡花って私の近くにいると、碌なことしないからさ。もし何かあったら、その時は、えっと、ごめん。先に謝っとく」
「あぁ、神妙な顔するから何事かと思ったよ。任せて、何とかしとくからっ」
「いや、善後策までは頼んでないんだけど」
「任せなって。私とよっすーの仲だろう?」
「露崎まで疫病神にならないでよ」
「さあね。案外、もうなってるのかも?」
腹ごしらえをしおおせて、それからは金閣寺とか有名でベタな観光地を回って、やはり非日常には心躍る何かがあったのか、あっという間と思えるほど早速、日が傾き始めていた。哀愁というよりあっけなさを感じてしまう。
それはそうと、人混みには疲れた。ぼーっとしながら、普段と心なしか方向性が違う、荷棚の上の広告を振り仰ぐ。間違っても重力に負けて、視線を下げてはならない。向かいの席には鏡花が座ってるから。
「今日撮った写真、共有しとくねー」
「こう見ると、結構な頻度で鏡花ちゃんが出てくるな……」
そう、鏡花たちの班は、あの後もずっと付いてきて、全く同じ場所を巡ってきたのである。思い出の片隅には常に鏡花が……頭が痛くなってきた。せっかくの、一生に一度の思い出が穢された。まあ、直近だと文化祭とか天体観測会だとか、私の高校生活自体、すでに著しく汚染されてるわけで、今更感って感じ。
「結局、ずっと一緒だったよねー。よっすーと回りたかったのかな」
「だからって、他の班員全員を、自分のわがままに付き合わせるのはねぇ……」
「まっ、いいんじゃない、楽しかったし」
と、露崎に雑に纏められて、宮橋がそれに同調して、この話題は終わった。
「そうそう、この抹茶パフェは、とっても美味しかったなぁー。よっすーも食べれば良かったのにー」
「いやだから宮橋、私は甘いもの苦手なんだって」
「大丈夫だよぉ、抹茶がほろ苦くて、いけるって!」
「だから抹茶を飲んだんでしょ。美味しかったよ」
いいお点前だった、知らんけど。
露崎と一緒に、宮橋のスマホの画面を覗き込みながら、今日の出来事を夢のように再生して、記憶の定着を図っていると、向こう側の座席から永田が立ち上がって、こっちにやって来た。
「どこで降りるんだっけ。大阪?それとも新大阪?」
「あれ?新大阪じゃないの?」
「そうだっけ……、なんか大阪だった気がしてきた……」
露崎がこめかみを抑えながらそんなことを呟くので、最初は新大阪派だった私も、大阪で降りる気がしてきて、混乱が加速していく。
「んー、何があったの?」
「あ、鏡花ちゃん、新大阪で降りるんだっけ、大阪で降りるんだっけ、どっちだっけ?」
「それ、どっちでもいいって、さっき諸熊さんが言ってなかった?」
「どっちでもいいのー?ほんとうー?」
「えっ……、自信ないかも……」
ここで第三極が参戦してきて、我々の思考は更にかき回される。誰も正しいことが分からないため、迂闊に物が言えず、お互いの顔を見交わすばかりだった。
「と、とにかくっ、調べてみるから待って!」
しかし、宮橋がスマホで調べるという選択肢に思い至った時には、すでに電車が新大阪に到着して、扉が開いてしまった。
「とりあえずさっ、降りて考えようっ」
「でも、大阪駅なら色んな路線があるだろうし、そっちの方が良くない?」
「そうだけど、あ、え、うん、おりゃあーっ、降りちゃえーっ」
「えっ、鏡花降りるの!?」
鏡花が一思いに電車から飛び出す。そうなると、私たちもドアの近くに寄るしかなくなる。足をホームに着けてみたり引っ込めてみたりを繰り返しながら、地元民からしたら滑稽に思われるほど、修学旅行生らしく混迷を極めていると、無慈悲にも発車ベルが鳴り響く。
「てかモロックマ、寝てるんだけど」
「なっ、なんでこの状況で!?ねこ、起こしといて!」
「どうしよどうしよっ!」
「落ち着くんだ宮橋、いいから大阪まで行っちゃおう、そこから考えよう」
「いやいや、ここで考えればいいから!」
「えっ、鏡花っ、ちょやめっ」
鏡花は私の手を引っ張って、引きずり出そうとしてきた。こっちに足を踏み出したので、電車の中に戻ってくるのかと思って、しまった、完全に油断した。さらに念を押すように、誰かが私の背中を手加減なく突き飛ばす。
振り返ると、露崎たちはまだ扉の向こうにいて、けたたましく冷徹なモーター音をかき鳴らしながら電車が発進して、皆の姿が新天地で新生活を始めたかのように、禍根も未練もなく無抵抗に消えていく。ただ一人、鏡花を除いては。
「はっ、えぇーっ!?」
「はぁー……、緊張したぁ……」
私が体を左右にねじって辺りを見渡しながら、乗ってきた電車を見送ることしかできなくて絶望してると、鏡花は例によって自分の髪の毛を握りながら、溜飲を下げていた。
「緊張した、じゃないよ!何、仕組んだってこと?」
「当たり前でしょ。だから今日一日、ずっと付いてきてたんだよ。全ては縁佳と二人きりになるため。そうじゃなかったら、届きそうで届かないこの距離に耐えられない。そこに居るのに、二人きりになれない残酷さを浴びるぐらいなら、割り切って別行動するねっ」
と、鏡花はいつになく昂然と胸を張りつつ、そのまま自然な流れでホーム上の階段を上ろうとする。
「だからって、このまま好き勝手に行動するわけにもいかないでしょ。露崎たちだって私たちを探すだろうし、どこか行くのか知らないけど、そんな事をしたら先生たちだって介入してくるよね」
「そこら辺に抜かりがあるわけないじゃないー。寧々子も諸熊さんも露崎さんもグルなんだから、なんかいい感じにしてくれるよ」
「いい感じって……」
「いぎたない演技をしてくれてるモロックマを起こせなければ、電車はそのまま神戸方面に行ってしまうし、そうじゃなくても、大阪梅田ダンジョンで迷ったふりをしたり、大阪環状線トラップに引っかかって、和歌山まで行っちゃったり。残った班員もいい感じに迷子になってもらうって寸法なの。そうすれば、ホテルに戻ってくるのが遅れてても、先生たちの意識はそっちに向くでしょ?夕食の時間までに戻れば大丈夫。それまではこの、シンデレラリバティを楽しもうじゃないか」
そこまで用意周到に、かつ明世やら露崎やらの協力もあるとなれば、もはや鏡花から逃れる術はない……ように錯覚して、抵抗する気力がみるみる削がれていく。まあ、タイムリミットもあるんだし、無際限に連れ回されるってことはないか。この間の恩義とか、そういうので見えない鎖を編んで、大儀そうな顔は欠かさずに繋がれてあげた。
「……夕食って、何時だっけ」
「七時半からだね」
「魔法のない時間だね」
「だって、フランス料理のフルコースらしいし、それはぁー食べたい」
似つかわしくない、しかつめらしい表情と、説明口調がようやく解除されて、普通のおとぼけな鏡花が帰ってくる。その数秒の、傍目には些末な変化に、私はほんの少しだけ安堵してしまって、再び先回りされないよう率先して階段を上ろうとしていた。その鎖を引っ張るのは私であって、鏡花を縛り付けるためのものでなければならない。主導権争いなんて、鏡花とやりたくないけど、でも畏怖まで感じてしまったんだから、もう仕方なかった。
「でー、どこか行きたい所、ある?」
「もしかして、この先はノープラン?」
「いや?縁佳の行きたい場所に行くっていうプラン」
「それを世間ではノープランって名状するんだけど」
私がそう反駁すると、鏡花は無言になってしまった。なんか、まるで詰られるのを待っているかのようだった。
「鏡花、本当に何にも準備してないの?どうせ縁佳はどこにも行きたがらないからって、予備という名の本命はないの?」
「縁佳のことっ、信じてたのに……、私と行きたい場所ぐらい、考えといてくれると期待してたのに!」
「どう論理が吹き回したら、そんな解釈になるのよ……」
鏡花は目を伏せて、逸らして、こっちを一瞥するとまた逸らした。詰めが甘いところも、らしさ、なんだろうか……。まあ、鏡花からしてみれば、私を他の班員から分離できた時点で、どうなってもいいのかもしれない。そういう思い切りの良さは人一倍なのである。
「いいもんっ、今から決めればいいだけだしっ」
と、鏡花は啖呵を切りながら、未だにミャクミャク様のポスターが貼られた柱に寄り掛かって、色々調べ始めた。
「明日の大阪観光で回らない場所がいいな」
「おっけーおっけー、任せて!」
「あれ、もしかして明日も……」
私たちの班がどこに行くか、露崎を介して筒抜けだったのだろう。明日も明後日も付いてくるつもりなのか……。鏡花が近くにいるってだけで、どこか緊張感を走らせてしまうというか、心が休まらないというか。漫然とした負荷が精神に掛かるので、頼むから別行動させてくれー。
「大阪と言ったら、やっぱり食べ歩きだけど……」
「夕飯が控えてるんだって。それと、もう人混みはこりごりだなぁ」
「つっつまままっりりりっ、カラオケボックスで二人きりになりたいとととっ!?」
「そんなこと一言も言ってないでしょ!てか鏡花、そういうこと考えながら生きてるってこと?うわぁー、ちょっと軽蔑しちゃう」
「カラオケに二人きりで行くことぐらい、普通で普遍的でありふれた事象なんですけど!?みんなやってるよ、安栗と鑓水とか!」
「っくしゅんっ、なんか、寒くね?」
「服着てないからだろ、この野生児が」
「いや……、おかしいよね!?冷房入れてるよね!?」
「風呂上がりで暑いと思ってな。これは私からの善意だ!うぅ……布団被ってても寒い……」
「いたずらに命賭けてる!?」
「じゃあ決めたから。文句は受け付けないからねっ」
「はいはい、聞く耳を持ってくれないのに、文句なんて言っても疲れるだけだからね」
「はい言質取りましたー、今後一切縁佳から文句を受け付けませんー」
鏡花は弾むように元のホームに戻っていく。背中から高揚感がひしひしと伝わってくる。その姿を前にすると、無抵抗に降参して、修学旅行中に二人きりでどこかへ出掛けてしまうという、背徳的な行為を受け入れてしまったのが、間違いじゃなかったような気がしてくる。自分以外の誰かを喜ばせられる行為を選べたなら、それを選んだ自分を否定して反省して修正する必要はないのかもしれない。たとえ自分に不利益があったとしても。
上機嫌に水を差すのも悪いので、私にしては珍しく鏡花に自由に先導させてると、付いてきてるか不安になったのか、階段の途中で急激に振り返ってきた。
「縁佳っ?」
「ん、何?」
「言質取られたんだから、もっと言い返してきてよ!何も言わないなんて、寂しいじゃん!」
「その程度の事でいちいち動揺してたら、鏡花と付き合ってられない」
「つつっ付き合ってるって言った!?ねぇねぇ……」
「そういう事だよ!」
鏡花に言われるままに電車を乗り継ぐこと三十分、地下鉄の駅から這い出ると、すっかり日が落ちて空は黒くなっていた。そんな中でも、人間の営みは逞しく輝いている。と言って、もネオン街に来たわけではなく、観光地のような、遠くにマンションが見えるような、微かに潮の香りがするような、やけに通りが広いような、そんなよく分からない場所である。まあ、一つ確かなのは、ひときわ彩を放つあの円に乗り込むことになるってことだ。
目を細める私に対して、鏡花はもう隠す素振りもなく、好き放題に笑顔を滴り落としている。陰になってるから抑えられてるけど、光ある所で彼女の惚けた顔を見たら、眩しさで失明してしまうと思う。それは、あながちありきたりで陳腐な比喩でもなくて、私は何をやっても誰と居ても、鏡花ほどの幸せは感じられないというのに、一番近くでこんなに輝かれたら、私の憂鬱を蜜にされたら、思い悩んでしまう。
「本当に、鏡花って人は……」
「ん?んー、最近、寒くなってきたよねぇー」
聴き馴染みのある上擦った声と共に、冷えた指先に温かく柔らかい感触が絡まってきた。一体、何度このやり取りを繰り返せば気が済むのやら、あーあー、秋の思索が捗る夜空の下に、反省も学習もしない愚か者の二人が並んで歩くなんて、これ以上になく馬鹿みたい。
「あの……」
「前に、学校の人に見られるかもしれないから、手を繋ぎたくないって言ってたけど。ここは異国の地なんだから、知り合いに見られる心配はないよね?」
「きょ、今日はやけに饒舌だねぇ……」
「そうやって、余裕ぶったって無駄なんだから!」
体だけは離そうとすると間髪入れずに密着してきて、一度手を離したと思えば腕を巻き付けてくる。誰がどう曲解しても、これは恋人仕草なわけで、これまでに経験したことないほど途轍もなく恥ずかしい。すれ違った外国人となんて二度と再会するはずがないのに、大げさに目線を逸らしてしまう。……そう思うのも逃避でしかなくて、結局のところ、鏡花であろうと無かろうとどうでも良くて、誰かに触れられて、勝手に自分をまさぐられたような気分になって、挙措を失っているだけなのだ。
私に鏡花を悲しませることへの躊躇いがなければ、誰にでも解される芯を持っていれば、こんな苦悶を味わうことはなかったのに、そう、はっきりと後悔した。そこまでしなくても現状維持はできるって、いつも鏡花を責めてばかりだったけど、姑息で迷走してばかりの私にだって罪があるのだろうな。
「縁佳って、こういう風にされるの弱いんだよね。こんなに長く観察してたら、そろそろ分かってくるよ」
「ちょっ、くっ付くなっ」
縛り付けるように絡まって、マイナスの距離を目指して、体温を押し付けてくる。極論、他人にどう思われてるかなんてどうでもいい。ただ、その感覚に、いつになっても慣れられないというだけだから。
「警戒心が強くて、絶対に自分の内情を披瀝しない。一線を敷いて、その先に誰も踏み込ませない。そんな臆病で、心配性な縁佳が好きなんだけど」
「程度の差こそあれ、誰だって同じことをしてるでしょ」
「縁佳、観念しなよ、もう何も隠れてないんだから。ふふふ、それでも怖がる縁佳、かわいいー」
腕だけじゃなくて、頬までも密着させようと、私の表情を覗き込もうとしてくる。首が曲がりそうになる。鏡花はいつの間にこんなに歪んでしまったのやら。歪んでいないのなら、笑顔で元気そうな姿を求めるだろう。……私は、鏡花にこの取り繕った姿も、肯定してほしいのかもしれない。
虫が皮膚の下を這いずり回るような感覚と、鏡花からの猛攻に音もなく耐えていると、七色に煌めくチャクラムは、田舎の人が都会に来て初めにやるように、背中を仰け反らせないと全貌がうかがえないほど、目の前にやって来ていた。どうやら日本最大級らしい。 “級”ということは、最大ではないけど、日本で一番低い山にある巨大観覧車という対比は、なんというか、江戸時代の人たちの度肝を抜くと思う。
「てか、いつまで手を繋いでるのっ」
「えっ、あっ、ごめん、つい舞い上がっちゃって……」
ここまで来るとそこかしこにカップルがいて、そういう人たちと同列とするには、失礼でさえあるような気がする。なんて、そう言い訳しようと心に決めたのだけど、満足したのか雰囲気に気圧されたのか、鏡花からあっさり離れていった。
「そう言えば聞き忘れてたけど、縁佳は高い所平気なの?」
待機列に並びながら、今さらそんなことを聞いてくる。鏡花なりの、少しずれた気配りなのだろうか。並んでからじゃ、もう遅いだろう。
「それは問題ない」
「良かったぁ……。縁佳には、私といる時間の中で、少しでも楽しいことを見つけてほしいからさ」
「別に、観覧車なんて楽しくないよ。ただ回るだけだし」
「そうかな。夜の観覧車、意外とわくわくするよ」
多分それは、妖艶なライトアップに惑わされてるだけである。あと、チケット代を払っちゃったから、その分楽しまなければという強迫観念。そんな冷めた思考は、地上に居るうちに、陰で表情が隠れてるうちに、済ませておかなければ。
ゴンドラに案内されて、特に発作を起こされることなく、向かい合って座る。扉が閉められると、さっきまでの騒々しさが嘘のように静まり返った。密室に二人きりになって、異様に緊張している鏡花の心音さえも、聞こえてきそうだった。まあ、今更たじろいでも、こうするって決めたのは鏡花なわけで、ただの自爆なんだけど。
「綺麗な景色だね」
「まだ底なんだけど?」
「うーん……」
「だからって、私を見て時間を潰そうとしないで」
「様になってるから」
「そう……?」
「うん……」
そんな露骨に息を呑まれると、居心地が悪いというか、どういう姿勢で座っていればいいのか分からなくなるというか。耳目を集めるのは得意なはずだったけど、今の鏡花に対しては、彼女の求めるようにしていればいいのか、それを裏切るべきなのか、ありのままなんて存在しないから、どう振舞えばいいのかずっと迷い続けている。迷ってなかったら、鏡花と観覧車に乗ることなんて、何が何でも拒んでただろうに。
鏡花は人工の七色に染まる私の姿を、色褪せることすら無いよう、しかと脳裏に焼き付けていた。直接手を下されてるわけじゃないから、止める術がない。悶々としていると、ゴンドラの中が蕭然としていることに危機感を覚えてしまった鏡花が、付け焼刃な言葉を紡いだ。
「あーえーあー、観覧車って揺れないねー。えっと、かっ可愛い、ね……あっ、かかっカーディガンの話だよ?」
「これ、みんな可愛いって言うから気に入ってる」
「んと、だけどでも、縁佳本人が一番かわいいのは言うまでもないというか……」
「あんまり何度も繰り返すと、安っぽくなってくるんじゃない、知らんけど」
「本当なんだって!薄暗くて、奥に夜景が広がってて、そんな中に佇む至福の縁佳、どうしたらいいんだろう、私は、どうしたいんだろう……」
「頼むから、どうもしないで」
しかし、こう、目を伏せて、自分の正しさだけを探求するゾーンに入られると、やっぱり止める術がなくなる。誰にそそのかされるわけでもなく、自分の欲望は間違ってないのだと暗示して、それからそれを押し通そうとする。
「もっと、近くで見てもいい……のかな?」
「近くで、とは」
「こういう、ことかな……」
アルキメデス並みの閃きでもあったかのように顔を上げて、椅子から立ち上がったかと思うと、腰を屈めてぎゅっと距離を詰めてきた。鏡花に蹴り飛ばされて、ゴンドラが微かに揺れる。彼女は何時でも何処でも何があっても、揺らぐことがない。そのままの勢いで突き進んできて、両手を後ろの窓に突きつつ、私の膝の上に跨った。
ただそこに鏡花がいて、空気を介して熱っぽさが伝わってくるってだけじゃなくて、大腿に体重が乗っかることで、実存性を知らしめてくる。とっくに訳がわからない。思考が停止してるのはもちろんのこと、外の景色でも眺めて本来の観覧車の楽しみ方をしようにも、視線が不思議と鏡花に吸い込まれてしまう。
「重くない……?」
「むしろ軽くてびっくりしてる」
昼間に食べた分は一体どこに消えたのだろうか。まあ、乗っかってから最初にする会話がこれで良かった。頭が回ってなくても、自信を持って答えられる質問だったから。
「縁佳……」
私の名前が蝸牛管の中を何周も巡る。鏡花は口を半開きにさせながら、2000億ドルの光を一挙に集めて、それを灯した瞳で私に魅入っていた。塗り潰すように、隈なく見つめられる。私が鏡花の目を追いかけると、逃げるようにちょこまかと動き回る。
「あぁ、えーっと……縁佳?」
「な、何かな……」
「スキンシップ的なの、嫌なのかもしれないけど、少しずつ、許してほしい。私以外には触らせなくていいから、私だけを特別に特例でいいから」
「あっ、いやー、それを言うの、ちょっと遅いんじゃないかな……」
「そうだけど、だからその、縁佳の合意?はあるべきかなぁーって。んー……」
「だから、今さら気にしなくても、別に……」
許可なく膝に跨ってきておいて合意を確認するとは、これは鏡花なりのユーモアなのだろうか。まあ、何でもいいや……。鏡花には私の根底に流れる論理式なんてお見通しで、私が鏡花のことを嫌うって可能性は彼女の頭の中にはなくて、どこまでも攻め続けてきて、物理的にその企みを阻止したところで、何の意味もないんだし、それに、この行為で鏡花だけでも幸せになれるのなら、それは二人とも不幸になるより素晴らしいのだろう。
「私に絆されて仕方なく、じゃなくて、もっと喜んで受け入れてほしいというか、安心でも何でもいいから、縁佳にとってもメリットになって欲しいというか」
「今日の鏡花、随分と鼻に付くことばかり言ってるけど、結局私とくっ付きたいってだけだよね」
「それはっ、縁佳が中々好きになってくれないからでしょっ!もう知らないっ!」
鏡花はそう叫ぶと、後ろの窓に突いていた手を放して、私の背中に回し、そのまま押し倒して忌憚なく抱き着いてきた。衝撃でゴンドラが微かに揺れる。その揺れで隣のゴンドラの人が、こちらを一瞥してくれたりしないかなーと期待してみる。もしそうなら、突き飛ばす動機ができて助かるんだけど。
見立てていた以上の熱が、雪崩のように冷酷に流れ込んでくる。ふわふわでもこもこで少し静電気を帯びてて、横髪は私の頬をくすぐる。もう何度目か分からない、自分を侵されるような感触、この時間が続けば続くほど、私が私でなくなっていく。これは罰なんだろうな。空っぽな私は、幸せを求めることすら烏滸がましいんだ。はぁ、どうしてそういう風に思ってしまうんだろう。
「凄い……、縁佳の全部が伝わってくる感じ……。心臓、めっちゃバクバクしてる。縁佳のも感じる。縁佳がそこに居るんだって、強く実感する……、ねぇ、縁佳、……よすがー?何も言わないってことは、いいんだね、いいんだよね」
肩甲骨を下から突き上げるように、体の輪郭を調べ上げるように、鏡花はより強く抱き締めてきた。苦しくはある。けど、苦しいことから逃れないといけないなんて取り決めは、どこにも無いのだ。
「何か言ってよ、縁佳っ」
とは言え、私も自分の体の全てを制御下に置けてるわけじゃないので、耳元で騒がれると、反射的に反応してしまった。
「はっ、何も言うことなんてないよっ!合意とか、そういう遠慮はどうしたの!?」
「どうでも良くなった……。縁佳を抱きしめられるんだから、それ以上の幸せはないよ……」
今度は打って変わって、耳元で子犬を撫でるように囁かれる。思わず息が乱れた。隙を見せるのは怖いので、取って付けたかのように息を止めた。幸せなんて、口にした途端、逃げていくものだろう。鏡花はやはり、どんな時でも正直すぎる。
どれくらいの時間が経ったのだろう。無論、とっくに呼吸は再開してるけど、未だに意識の外に置けない。胸の大部分が密着してるから、呼吸のリズムは筒抜けだろう。かと言って、このままオーケストラの指揮者のような、一定で完璧な呼吸は、それはそれで怪しまれる。
こんな苦悩は、まるで妥協点を探すかのようで、私が鏡花の想いを受け入れよう努力してるのと等価なのだろうか。いや違うな、看病された時のこと、それとそれに対する自分の態度をまだ気にしてて、鏡花を自由にさせることが罪滅ぼしだと思ってるだけだ。まあ、それを認められてる時点で、観覧車のようにその時々では気付けないほどゆっくりと、けれど着実に崩されてるのかもしれない。結局、曇ってて見通しが悪くて、不確定で不合理で不調和で不誠実な人生なことは変わらないか。
窓の外に目を向けると、景色が下降していっていた。観覧車に乗ってるのに、景色を嗜まないのは……そうだ、ルール違反なのだ。
「鏡花、ほらあそこにUSJがー。三日目行くんだよね、楽しみだなー」
「んー、んー……」
「そっ、そうだ、鏡花の顔が見たいなぁーっ……、なんてね……」
適当に惚気れば、一瞬だけ騙されてくれる。私の策略通り、鏡花は寄りかかっていた上半身を起こして、再び見つめ合う態勢となった。
「はっ、観覧車の一番上に着くまでって、自制するつもりだったのにっ」
鏡花にも何らかの自覚があるのか、口を手で覆いながらそう言った。
で、顔を見たいとか豪語してしまったので、鏡花の顔をじろじろ見つめてあげた。清々しいことに、想像の何倍も惚けた表情をしている。無防備で無遠慮で無際限、まるで夢を見ているようだった。それも、以前私が見たような、最高に現実っぽくて、最高に夢見がちなやつを。
「自分が、どんな顔してるか分かってる?」
「え?……はっ!はうぅ……っ」
私の背後の窓に映る自分の顔でも見たのか、それはもう、箱の中身が得体の知れない爬虫類だった時のように、飛び跳ねて自分の座席に戻っていった。
「私、こんな、えぇ、頭悪そうな、なんで……。見た!?見たよね!?」
「まあ、私の目の前に顔を置いたんだからねぇ」
「はぁ。ねぇ、どうだった、感想!」
鏡花は自分の髪を指ですり潰しながら、そう騒ぎ立てた。
私と密着して、それだけの幸せを吸い上げられるのだから、これくらい甘んじて受けてもいいのかなと、信念が揺曳する。でもその考え方は、鏡花の望んだ相思相愛という形ではないから、いつか見抜かれて、釘を刺されるような気もする。とどのつまり、私が鏡花のことを、鏡花が私にいだくよりも強く好きになるしか、解決の糸口はないのだろう。
でも、文化祭二日目のような、あんな出来事があってもなお、迷わずそうしようと思えなかった。私には、鏡花と付き合う理由がない。もし万が一、そんな心境を溢したら、鏡花も刑部も、それでも私はって主張するんだろうけど、相手の欲望を満たすために、それらしく振舞われることのほうが、虚しくならないのだろうか。
私以外に幸せの活路を見出す……、大学生になったら、案外そうなりそうだなぁと思いながら、ふてぶてしく照れている鏡花を眺めた。
「無言にならないでよっ」
「いいじゃんー、静かにこのひと時を楽しむのも」
「縁佳はないの?」
「何がー?」
「今しか言えないようなこと。この雰囲気と温度感で、二人きりの時にしか言えないような、大文字小文字数字アンダーバー交じりのパスワードで保護された、日頃から募らせた想い」
鏡花が私に何を期待して目を輝かせているのか、全く見当が付かない。だけど、いつもそうやって唾棄するのも間違ってるような気がした。だから、目線を窓の外に逸らして肘を突いてみて、煌めく夜景と終わりゆくひと時に背中を押してもらった。そうしていると、私の中で一つの仮説が思い浮かんできた。
自分が鏡花に行った仕打ちは、どんな事情があろうと機嫌が悪かろうと、許されるべきことじゃない。それなのに、鏡花はその罪を当日以降は追及しようとせず、全て放免して、こうやって以前と変わらない関係を続けようとしてくる。その矛盾が灰色の霧となって、私の思考を鈍らせていた。
鏡花は私に囚われていて、この問題を認識できるはずがない。私自身が罪を反省して清算する。関係を正常化して、私の中に蔓延る灰色の霧を払拭するには、それしかない。
私は首と体の向きを正面に戻し、鏡花にただならぬ空気感を押し付けた。
「分かったよ……」
「ななっなになに、まさかまさか……」
「この間のこと、ちゃんと謝るから。ごめんなさいっ。わざわざ文化祭を捨ててまで看病してくれたのに、あの時の私は、心無いことばっか浴びせちゃって……。ちゃんと面と向かって謝ってなかったから、その……」
「可愛いから甘やかされてるとか、そういうの?」
「あっ、ちゃんと覚えてるよね……。えっと、その時に放った言葉が、本音じゃないって言い訳はしないよ。多分、あれは私の本心、本気でムカついて、本気で罵倒したくて、本気で放っておいてほしくて、だから取り繕えないし、撤回もしない。私は未熟だ、鏡花だって分かってると思う」
「だけどー?」
「だけど……?」
「どんなに醜悪でも邪悪でも意地悪でも、何重にも隠してる本心を、自分にだけ見せてくれるんだったら、そんなの運命じゃない?だから、無事に風邪が治った今となっては、嬉しかったの一点張りだよ」
「別にいいんだよっ、嫌いになったって……」
「ならない。完璧な自分ばかり好かれると思わないで」
鏡花のはっきりとした瞳が、宝石のように宵闇の中に浮かび上がってくる。それは紛れもなく正論で、事実なのだろう。この先、私がどうなろうと、鏡花はこんな態度を崩すつもりがない。それは、必ずしも私に不利益があるような暗黙の契約ではないのだろうな。ようやく一息つけたような気がした。
これから夜が更けて暗くなっていく一方なはずの世界が、どこか明るく、眩しくなったように思えた。私がいつの間にか被らされていた、薄暗いベールが上がったかのように。人として当然の礼節をこなしただけで、何を虫のいい感情に浸ってるんだって話だけど、でも鏡花はそれでいいって言った。だから、これでいいのだろう。
余計な遠回りをしたのだろうけど、それは必要経費だったと暗示して、それよりも残り僅かなこの時間を大切にしたくて、一新された景色を鏡花と共に眺めた。鏡花と閉鎖空間に二人きりだけど、少し肩の力を抜けるようになったような気がした。




