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Step by Step  作者: Ehrenfest Chan
第8段:ハリケーン鏡花
43/63

8-3

「お泊り会をしよう、高二の夏だし」

「高二なのって関係あるの?」

「関係性が成熟してきて、かつ時間がある……後付けだけど」


 昼食を食べていたら、永田が忽然と提案してきた。永田のは昼食というかおやつなんだけど。ガリガリ君だけで腹が膨れるなんて、想像できない。だって氷だよ、固体だから誤魔化されてるけど、その正体は無色透明無味無臭のさらさらした水であって、とにかく餓死しないか心配だ。


「どうせ暇はいっぱいあるし、いいけど」


 とか言ってみたけど、またうちの家族と児玉家で出掛けることになるかもしれないなぁ。そうか、逆に上手いこと日程を合わせて、そっちをサボることにしよう。


「やったー」

「そんなに嬉しい?」

「うんー、あっ、てかよっすーとはそういう事しないのー?」

「えっあーどうかなぁ、頼み込んだら渋々やってくれるかなぁ」

「頼み込まなきゃ、やってくれないんだ」

「頼み込ませて、楽しんでるのかも」


 それくらい性悪でもいい。私を弄ぶほど興味を持ってくれてるってことだから。中身がなくてやりたい事がなくて、それ故に奇行に走ったり自暴自棄になったり、そういう無節操で野放図で不調法な縁佳でも愛してるけど、でもやっぱり、私に囚われた縁佳を愛したい。


「まーしかし、こんなにあっさり誘えるとは」


 永田はそう言って、ガリガリ君の最後のほうを、歯でスライドさせてから食べた。


「一昔前なら顔をしかめて一週間ぐらい悩んでただろうに」

「そんなこと無いよっ」

「いやいや、私は小学生の頃から鏡花ちゃんを見てるんだから。手に取るように分かるよ」


 手に取るように分かってるのは、縁佳だけで十分なのに。と、気付けば訳の分からない意地を張って、永田を睨みつけながら、豚肉のアスパラ巻き6本を頭すら微動だにさせずに貪り散らかしていた。


「えぇ、何か癇に障るようなこと言った……?」

「全然わかってないね」

「ショックだなー」



 夏と言えば、多種多様な蝉が喚き散らかす季節。だったはずなんだけど、そんな光景はいつしか過去のもののようだ。暑すぎて無音、そのせいで、もう手に負えないぐらい暑そうな感じがする。風鈴って、意味あるんだな。


 生徒会の仕事も部活のヘルプもバイトもないと、本当にやることがない。なまじバイタリティーに溢れるせいで、ベッドから起き上がってしまうと、別に戻らなくてもいいかなーという気持ちになって、椅子に座って冷房の効いた部屋から窓の外を眺めて、それでさすがに一日は終わらないけど、いや終わらないからこそ困る。溜息を吐きすぎて、体がみるみる萎んでいくという比喩でも考えて、また溜息を吐いた。


 インターフォンの鳴る音が、下の階から聞こえてきた。こんな暑い中、宗教勧誘とか基金への協力要請とか、よくやるなーと偉そうに感心する。そうだなぁ、生徒会でもやろうかな、一軒一軒訪問して、白高に募金してくださーいって。公立高校がそれをやったらまずいか……?


 しばらくすると、誰かが階段を上ってくる音がする。その足取りはどこか不安定で不規則で、時々壁に硬い物をぶつける音もする。親が何か大きな家具を注文してたのだろうか。


 まあ、高二の夏というのは、そんなありふれた話で片付かなかった。


「鏡花…………!?」

「あついぃ……、溶けるぅ……」


 何気に内側から自室の扉が開くのを見るのは久しぶり……じゃなくてっ、湯上がりと名状するのも物足りない、マナー違反だけど潜って出てきたみたいな、至る所から汗を滴らせた鏡花が、廊下に満ちる熱気と共に聖域を侵そうとしていた。鏡花なのに、いや鏡花だからこそ、私の中で警戒心が跳ね上がっている。どれくらい警戒してるかというと、財布をスられてから一日ってぐらいだろうか。現実はこんなにも軽々と夢を超えてくるのかと、狐につままれたような気分になった。


 こっちは状況が掴めないので、向こうは冷房の風に当たるだけで極楽浄土なので、お互い固まって話が進まない。鏡花は、キャリーバッグの持ち手に頬を載せて、気化熱による至福のひと時を満喫していた。いや、早く扉閉めてよっ。


「とりあえずー、麦茶でも持ってこようかな。あっあー、どうぞ?中に……?至極不服ではあるけど」

「すいません……、失礼します……」


 キャリーバッグに体重を懸けたまま、目を瞑って溶けた表情のまま、鏡花は滑るように私の部屋に入っていった。とりあえず、入れ違いで部屋を出て、一階のキッチンに向かう。それで、そこに居た母親に事情を聴取する。


「どういうつもりなんですか」

「あんたが呼んだんじゃないの」

「友達を呼んだこと無いのに、急に呼ぶとでも?」

「そもそも、あんな暑そうにして死にそうな子を放っておけるほど、あんたと違ってこっちは幼稚じゃないの」

「あっそーですか」


 お盆に二人分の麦茶を載せて、この場を去った。期待なんてしたところで、叶った時に虚しいだけか。


 それで、自分の部屋に戻ってくると、端にキャリーバッグを寄せて、鏡花が部屋の中央で硬い床に正座していた。鏡花の前に麦茶を置いて、私も正座してみる、鏡花と競うように背筋を伸ばして行儀よく。


 さて、どう怒りをぶつけてやろうか。……そもそも怒るべきか?そりゃあ当然困るし、だから今まで散々跳ね除けてきたわけだけど、ここまで正面きって踏み込まれると、抵抗する気力が失われるというか、敗北を認めざるを得ないというか。先々のことをあまり鑑みずに正座したばかりに、足の甲だけがひたすら痛んでいく。鏡花の表情が目くるめく変化する。


「だ、だまさっ騙されたんですっ!ししっ信じて、信じてくださいっ!」


 風を感じるぐらいには、物凄い勢いで頭を下げる。髪の毛がコップに入らないよう、慌ててお盆を持ち上げた。周り見えてなさすぎでしょ、この人……。


「じゃあそのキャリーバッグは?」

「えっと、あの、順を追って説明するならばですね、私はまず縁佳のことが好きです、結婚してください」


 ご両親への挨拶とでも大声で宣言しそうで、それを想像しただけで鳥肌が立つ。とりあえず大前提として、私は鏡花のことが好きではないので無視した。


 で、つまりこんな感じのやり取りがあったらしい。



「待たせたなー」


 待ち合わせ時間から15分ぐらい遅刻して、手ぶらの永田が学校の門の前にやってきた。少しだけ息の根を止めようと、殺意が沸いた。頭頂部付近を撫でると、そこはもうお好み焼きが焼けそうなぐらい温まっていた。別にホットケーキでもいいけど。お腹空いたなぁ。


「ここから寧々子の家って近いの?」

「地図で見たら近い」

「じゃあ遠いじゃん」

「日傘ぐらい持ってくれば良かったわー」

「本当にそう、こんなに待たされるぐらいなら」


 縁佳だったら間違いなく、待ち合わせより早く来てる。その対比からしっかり者だなーって思ってしまう。一人っ子っぽくない。自分に厳しいというか、甘えというものが自ずと選択肢から排除されてる感じがする。それに比べて、一応弟が存在するらしい永田は……。


「そんなに荷物あるのに持ってないの?」

「はぁ、すっかり忘れてたっていうか、お泊り会って家の中で過ごすイメージがあるから……」


 一泊するだけなのに、わざわざキャリーバッグを引くことになったのは、だいたい常葉お姉ちゃんが悪い。お泊り会のことを話したら、京都から帰ってきて色々指南してきて、明らかな重装備が整ったのである。まあ、それを盲信してる私も悪いけど……。


 これが陽炎なのか、脳がやられて視界が歪んでるだけなのか分からなくなってくる。暑い、とにかく暑すぎる。永田の家で飲み物もらえばいいやって甘い考えで、小さい水筒しか持ってこなかったことを後悔した。息を吐いても、熱気で押し戻される。自他の境界が曖昧になっていく。


「えっとー、こっちだっけ」

「なんで、自分の家の方向に自信ないの……」

「え?あ、そうねぇ、普段通らない道で帰ってるから……かな」

「命の危険が迫ってるこの状況で、そんなことしないでよ!」


 普段からアイスを食べて体を冷やしてるからか、永田はあんまり汗をかいてない。まあ、どれだけ自覚症状がなくても、じわじわと体の水分は奪われてるだろうけど。


 それにしても、どこか既視感のある家が並んでいる。そりゃあ、日本全国どこだって外国人から見たら同じような街並みだって言われたらそれまでだけど、でも、ここに公園があったなーって場所に公園があって、公文があったなーって場所に公文がある。昔来たことがある?こんな何もない住宅街に?


 やめようやめよう、頭を捻ろうとすると汗が滲み出てくる。まっすぐ歩くことだけを意識しよう。下を向いて、キャリーバッグを倒れるように押しながら、着実に永田の家に近付いてると信じて。


「暑いなー」

「暑いなんてもんじゃないよ。命の危機」

「これだけ暑ければ、インフルエンザの時に見る夢を見る夢も叶いそうだ」

「走馬灯だよ、自分の人生ダイジェスト放送だよっ」


 永田のことだし、いつも通り適当なことを言ってるだけなんだろうけど、なんかツッコミを入れたくなったので彼女の顔を一瞥した。なんか、家の表札でも確認してるような目線の動きで、少々訝しく思う。だが、顔を上げたら疲れてどうでもよくなった。それが間違いだった。


「あ、ここだー」

「ここって……、ここって縁佳の家じゃん!」


 あの時は雪化粧をしてたから、あと暑さで判断力が鈍ってるから、それにまさかそんな馬鹿なことをしてくるとは想定してなかったから、永田の家って縁佳の家の近所なんだーって、そう辻褄を合わせて解釈していた。なのに、私の純情な推察を愚弄しやがって!


 私の波乱万丈な心情など永田は意に介さず、額の汗を手の甲で拭うと、真顔で一択の質問を投げかけてきた。


「鏡花はどっちの家に泊まりたい?」

「はっ、そんなの縁佳だけど、だけどそうじゃなくて!」


 焦りから、汗が自発的に吹き飛んでったような感覚にもなる。縁佳の家に上がるのは、なんかこう、然るべき計画と準備と心構えが必要で、そしてそれは急には用意できなくて、いやでも準備だけは一人前……、思考が迷走する度にオーバーヒートしていく。そんな私を流し目に確認すると、永田は満面の笑みで私の戯言を遮った。


「言質は取りましたー。許可は取ってないけど、はい、ぴんぽーん」

「ななな何ししっしてんのっ!」

「インターフォンを鳴らした。うおー、縁佳さんの友達ですー。じゃ、頑張ってねー」

「あぁっ、待ってよー、置いてかないでよぉー……」


 永田は悪びれる様子もなく、近くの交差点を曲がって姿をくらませて、脱猫の如く逃げ去っていった。これで私まで逃げたら、ただのピンポンダッシュになってしまう。それに、暑さで逃げる体力も残ってない。かと言って、覚悟を決める間もなく、息も止まったままだけど、縁佳の母親が玄関から出てきてしまったため、応対せざるを得ない。……いやいや、聖地に足を踏み入れられる七年に一度の大チャンスなんだからっ、彼女の家に上がることぐらい造作もないんだからっ。


「と、泊まらせていただけないでしょうかっ!」

「あっはい、私は一向に構いませんが……」


 汗を吹き飛ばす勢いで頭を下げると、無感情ではありながら許可が貰えた。いきなり押し掛けてきて泊めてくれるなんて、縁佳に似て寛大だなぁ。もう一度頭を下げてから、腕に力を籠めてキャリーバッグを浮かせて、段差を超えながら家に入った。


「恐悦至極に存じますっ!」

「えぇ、どういたしまして……?縁佳の部屋は二階だから……、駆け上がると危ないよー」



「ほら、めちゃくちゃ騙されてるでしょ!酷いよね、許せないよね!ガツンと言ってやってくださいよぉっ!」

「なんでそんな三下みたいな言い回しなの……」

「被害者だから!」

「でも、一度家の前まで来たことあるよね。それに、その口ぶりだと、鏡花の意志がもう少し固ければ、こうはならなかったよね。本当は、ラッキーって思ったんじゃないの?」

「それはぁ…………言わないでっ!そりゃっ縁佳の家に泊まれる千載一遇のチャンスですし、これを逃したら終わりかもしれないしっ。チャンスを掴まない理由なんて無いんだよ、わかるでしょ!?」


 鏡花は髪の毛を巻き込みながら耳を塞いで、意中の人の家であることも忘れて、大声で心中を吐露する。いやまあ、わざわざ説明されなくても、気持ちが昂っておかしくなってる事ぐらい、一目瞭然なんだけど。突然、対処不能な量の感情に襲われて、今の鏡花は九九も満足にそらんじれなさそうだった。呼吸器系の筋肉が痙攣してそうで、どこかからアドレナリンが噴出してきそうで、詰る気が失せる。親の持ち家でも、自室が事故物件になるのは御免だ。


とは言うものの、仮に事前に予定として決まってたとしても、それはそれで辛いだろうなぁと思う。多分、眠れない夜が続いて、肝心の当日寝て過ごすことになる。そういう意味では、永田の奸計は鏡花のためになったのかもしれない。


 まあ鏡花は良くも悪くも平常運転だけど、さて私はどうなってることやら。これまでの立ち回りから容易に想像がつくように、鏡花を家に上げるのは絶対に嫌だった。見られたくも触れられたくもない部分を、いつ溢してしまうか分からないから。というか、何を見られたら、自分の価値に傷が付くのか、それ自体が曖昧なのだ。今だって、完全な部屋着にどこか締まりのない表情、そういうのをどうも思ってほしくない。


一髪千鈞を引かないといけないほど、鏡花の好感度が必要な状況じゃないが、だからって追い返すってなると、汗だくになりながらキャリーバッグを押して、今度はたった一人で真夏の炎天下を歩かせることを強要するわけで……。永田とかに、了見の狭い人間だと突っかかってこられて、名誉が毀損しても困るし、おまけ程度に鏡花の体調が心配だし、……息の続く限り溜息を吐いた。


「で、あのキャリーバッグは何」

「あ、あれはね、新しく買いました。まー今年も親の帰省の巻き添えになるだろうし、それに修学旅行も控えてますから」


 新しく買ったのに、あんなに壁にどかどかぶつけてたのか……。この家が傷付こうが知ったことじゃないけど、鏡花はそれでいいのか?


「一体何が入ってるのやら。三日分の着替えとかあっても、一日しか泊めないからね」

「一日は泊めてくれるの!?お墨付き!?やたーっ」

「その代わり、延長料金は無限大だからね。それと今回限りだから。次はない。もう一回棚ぼたを期待してやって来ても、腹いせにねこの家へでも送るからね」


 私が横柄な態度でそう言いつけても、鏡花は初めて宇宙に来た人が地球を見下ろすような表情で、込み上げてくる感動に息を詰まらせている。もし私が甘々だったら、やっぱり脳の血管が破裂して死なれてる可能性がある。思いやりのある手厳しさなのだ。


「それはそうと、一旦シャワー浴びてきたら?」

「はっ、もしかして目障りだから消えろってこと、せっかく来たのに、もう……」


 鏡花は、わざとへそを曲げるようにもなってしまった。ただただめんどくさい、こんなやり取りのどこに、魅力とか心地良さがあるのやら。


「洗面台で自分の服絞ってみても、同じこと言えるの!」

「わかったよ、しょうがない。帰らないでよ」

「ここ、私の家なんだけど」


不服さを隠せてないけど、鏡花は大儀そうに立ち上がって、別に海外出張に行く人みたいに、日本食が詰められてるわけでもないキャリーバッグの中から、タオルとか着替えを取り出して、往生際悪く三度振り返ってから、ようやく部屋を出て行った。


はぁ、宥和外交は失敗するって歴史が散々証明してくれてるのに、なんで私は鏡花の要求を呑んじゃったかなぁ、そもそもなんで彼女の希望の星になっちゃったかなぁ!どうにもならないのだろうか。鏡花に恋情をいだかせてしまった時点で、私はツキに見放されたのだろうか。鏡花のことになると、あれこれ思考を張り巡らせるのが面倒になってくる。


それはそうと、鏡花というどうしようもない色ボケ野郎は、シャワーを浴びるだけでも一波乱起こしてしまいそうなので、とりあえずこっそり後を付けた。


「あっ、シャワーをっ、かっ借らしてもらいますっ」


 リビングを覗き込んで、家主の片割れである母親に、きちんと許可を取ってるのは礼儀正しくて加点だけど、早速日本語が怪しい。枯らされたら私はどうしたらいいんだ、この辺に銭湯なんてあるのか?


「あーどうぞー。ボディーソープもシャンプーも二つあるけど……多分どっち使っても怒らんと思う。縁佳が呼んだお客さんなんだし」

「べ、別々なんですね。美容意識が高いようで、感服……」

「いやいや、そんなんじゃないよ。無くなった時に、揉めるから……」

「揉める?どうして無くなったのに詰め替えないんだー、てことですか?」

「あぁまあ、……そんな感じかな」


 鏡花は小首を傾げながら、『あ!どっちが縁佳の使ってるほうか聞くの忘れた!』とか考えて、目と口を丸くしながら、脱衣所に入っていった。私は奥歯が折れるんじゃないかって不安になるほど、強く歯ぎしりしながら、リビングのほうに向かった。


「私の友達なんだから、勝手に応対するの辞めてくれませんか?」

「そう言われても……。向こうから話しかけてきたんだから」

「シャワー借ります、はいどうぞ、それ以上は必要ないでしょ」

「いやでも……」

「私の友達はあなたにとっては赤の他人。娘の友人じゃない、見栄を張ろうとか丁重に扱おうとか、そういうの要らないですから。関わらないで、私も関わらせないようにするから」


 だから嫌だった、鏡花をこの家に招いたところで、私のメッキが剥がれるだけで、たとえ変数の組み合わせが奇跡的であったとしても、誰も得しない状態を上回ることはない。だから、夢ですら目を背けたのに、現実は非情だ、早く辻褄が合わなくなって破綻してほしい。そう呪いながら、私は自分の部屋に戻って、椅子に腰掛けてスマホを弄りながら、鏡花が戻ってくるのを待った。


「シャワー頂きましたー。完全復活」

「それは良かったー」


 打ち見にも鏡花のその毛量は、首の後ろとか蒸れそうだなぁと、日々の苦労が想像に難くない。風呂というかシャワー上がりにドライヤーで乾かすと、それはもうマリモのようにふわふわになる。この例えが正鵠を射てるのかは、よく分からないけど。


「そ、それだけ……?」

「私は鏡花の彼女じゃないんだよ」

「そう言えるってことは、気付いてるってことじゃんっ。ふふーん、寝間着も新調したのだー。どうだ、どうだー」


 袖を掴んで、生地を波打たせながら、ときどき回転して後ろ姿も見せつけてくる。微妙に声と指先が震えてる。やけに努力して得意げにしてる鏡花は、どこか感興を催す。まあ、鏡花がいい気になってるなら、それが正解なんだろう。


「ふはぁ」


 鏡花は容赦なく私の分の麦茶を飲み干すと、今度は目配せしてきて、ベッドに座っていいか確認を取ってくる。どっちも勝手にすればいいけど、前者はなんで許可を得ようとしなかったのか、理解不能なボーダーラインは今日も元気に猛威を振るっている。それは末恐ろしいものだ、知らぬ間に好きにさせて、大丈夫って判断した事柄は間髪入れずに実行してくるんだから。鏡花はもはや、私の中では怪異の類いである。


「この部屋の空気、どれだけ吸っても、縁佳のにおいがする……」


 と、今度は恍惚とした表情で呟き始めた。いつまでやってるのだろうと、足を組み替えてしばらく眺めてみた。そんなことで愉快さを味わえるのだから、鏡花はきっと幸せになれるのだろう。幸せの器は小さいほうがいい。大きくても、それが満たせるような幸せを、哲学的に見出してる間に寿命が尽きる。


「そんなににおいキツいかなぁ」


 人を不快にさせるようなものじゃなくても、体臭が濃いのは私が嫌なので、今着てる服の襟を嗅いでみて確認する。鼻を押し付けると、ほのかに柔軟剤の香りがするけど、それだけだった。恐らく、鏡花が雰囲気に流されて、そういう化学的な香料に人の温もりを結び付けてるだけである。まあ、それだけなのに妄想を膨らませて、勝手にクラクラしてるとなると、いよいよ救いようの無さと才能を感じる。


「毎日、縁佳がこの部屋で寝て起きて、出発して帰ってきて、宿題やって私と連絡して、そんな空間に自分という存在を重ねられてるって思ったら、手羽先の関節を外すみたいに、バキバキって心臓がうごめいて鳴り止まなくて……」

「手羽先……」

「なんか、落ち着かない。せっかくシャワー浴びたのに、また汗が出てきた」


 鏡花はさっき座ったばかりなのに、もう立ち上がってこっちに近寄ってきた。いつになく目が合わないことからも、興奮してることがうかがえる。あんまり嬉しくはない。


 それで、こっちに来た鏡花は、秋風蕭条とした私の勉強机の上を、鼻息を荒くしながら物色している。彼女の胸元が目の前にやって来る。ふと、またこの間の夢のことを思い出す。


あの時、鏡花は何を考えたのか、私の胸に手を伸ばしてきた。いや夢の中なんだから考えるも何もないんだけど、別に鏡花は合理的じゃないけど、合理的に説明するなら、あれは私の心音を確かめるためだったのだろう。


今の私も、安静時より鼓動が早くなってはいる。それは、自分の聖域を侵されて、自分を形作ってきた軸が溶け始めてるからだけど、それでも鏡花はあんな風に安堵してくれるのだろうか。本物のときめきというのは、どれだけ激しいものなのだろうか。手を伸ばして体験したら、私の価値観は刷新されたり……さすがにそれは無いかな。


「この写真は?」


 鏡花が上のほうから、大層な額縁に入った、薄っすら埃を被った写真を手に取る。さっきお風呂に入ってる間に、軽く掃除しておけば良かった。まあいいや、私にとってはただのありふれた通過点でしかないその写真に対して、鏡花はどんな感想を思い描くのだろう?


「中三の最後の大会の写真だね」

「いい笑顔」

「そう?」

「なんか、ほとばしる青春を感じる」

「まー、決勝まで行ったからねー。下を向くのも違うと思ったんでしょ」

「あと腕が細い……?こんな細かったら、衝突した時に折れちゃいそうだよ」

「今と変わらないと思うけど」


 値踏みしてるかのように、写真を間近で観察する鏡花を横目に、私は自分の二の腕を撫してみる。うーん、ちょっと冷房を効かせすぎてるかもしれないな。


しばらくすると舌を噛みそうな勢いで、虚を衝くように鏡花が顔を上げる。


「触っていい?」

「は?」

「はうっ、ごめんなさい……」

「懲りないねぇ、鏡花は」

「じゃあ、じゃあだよ、黄色い線まで譲歩して、頬っぺたくっ付けてもでもいい?いいよね、刑部とやってるんだから、いいよね、ねぇ」

「えぇ?いや、それは譲歩なの?」

「でも、写真の中ではやってるじゃん」

「望んでやられたわけじゃないし」


 望んでないけどやっていいという許可だと判断したのか、鏡花が体を前のめりにして正面から飛び込んできて、頬が軽く擦れ合う。耳元に息が掛かる。肌が擦り切れたような感覚に陥る。ラテン系の挨拶ほどの時間だったのに、この命が尽きてしまうんじゃないかってぐらい、途方もない時間が経過したように錯覚する。その間、ずっと体の奥底がこそばゆくて、こんな仰々しい感情に、あと何回触れればいいんだって恨む。


鏡花が離れてからも、皮膚の下を虫が這いずり回るような感触がして、火傷をしたわけでもないのに、自分の頬に手を当てて、対症療法に勤しんでいた。


「鏡花はさっ、どうしてそんな事にこだわるの?そんな事して何になるの?」

「心が満たされる、からかな、うん」

「なんで心が満たされるの?美味しい物を食べたり、不条理を論って共感を集めたり、他にやりようはいくらでもあるじゃない」

「でも……、刑部に勝ちたいんだもん、刑部がやってて、私ができないなんて嫌だ」


 鏡花は刑部に対して、未だにたいそうなライバル心を持ってるようで、歯を食いしばりながらそう駄々をごねた。半年ぐらい前、やけに敵視していたのは、恋敵だと分かっていたからなのか?なんだ、私を好きになる人は、みんな同じフェロモンを発してるのか?


 それで、鏡花は税務調査のごとく、引き出しの中まで探検してくる。表立って物が置かれてないから、綺麗に収納されてるって勘違いしてるのかもしれないけど、ただ単純に物の総量が少ないだけである。まあ、引っ越しは楽だろうな。


「おあ、良かった、まだ大事にしてくれてたんだ」


 鏡花が右の引き出しを開けると、カラッと音と共にヤグルマギクの髪飾りが出てきた。久しぶりに日の目を浴びただろうけど、相変わらず誰に言われなくても得も言われぬ青に輝いている。


「大事に扱いすぎて、一度も着けたことないんだけどねー」

「これは着けるものじゃなくて、こう、大切に大切に保管して、時々見て握って、送ってくれた相手のメッセージから、安心と元気を貰うためのものだから」

「それもそうね」


 間違えて開けた時ぐらいしか、目にする機会なかった気もするけど、波風を立てる必要もないので、盲目的に頷いておいた。それにしても、鏡花はどんなメッセージを込めたのだろう。ただ綺麗だから、私の心を動かせそうだから、それだけじゃない気がする。でも、それだけだった時に、私はメッセージを込めましたが?って威張っちゃいそうなので、聞かないでおくことにした。


 その後も卒業アルバムを熟読されたり、クローゼットの中を漁られて、私服かわいいーって自己肯定感を高められたり、自分の中にある秘密以外、全てが洗いざらい白日の下に晒された。自覚してないだけで、人に見られたら引かれるようなものが無いか、心臓が休暇前かと思うぐらい必死に仕事していたけど、改めて考えてみると、鏡花なら私のどんなものにも惹かれるのだから、怯える必要は皆無だった。今も、一周回って私のベッドに座って、満足げを持て余している。


「私の部屋はこんなものよ?あんまり面白いもの無いのよねー。今の時代、大体の娯楽はスマホで完結するし」

「縁佳が生活してるってだけで、十分すぎるぐらいだよ。私は幸せ者だー、縁佳と同じ空間に居られて、同じ空気を吸えて、同じ夢を見てる」

「え、そうだっけ?」


 因果も悪気もないって分かってるんだけど、都合が悪い反応に対抗して、夢見心地に浸るの辞めませんかねぇ……。


 それはそうと、お泊り会なのに午前の内にすることが無くなってしまった。せめて事前に通告されてれば、安栗の家からぬいぐるみを略取して投げ合えるようにするとか、鑓水の家から得体の知れないアンティークな機械を譲り受けるとか、露崎の家から流行りのコスメを入手してそれらしくプレゼンするとか、いろいろ準備できたのに。まあ、事前に通告されてたら、絶対断ってたんだけど……。


「わざわざキャリーバッグで来たんだから、面白い物の一つや二つ詰めてきてよー」

「ん……、あっ!手土産っ!忘れてた、一生の不覚」

「いちいち大げさだなぁ、鏡花は」

「だってだって、寧々子の家に行くと思ってたから、甘いものにしちゃった」


 鏡花の手には東京ばな奈があった。鏡花が物悲しそうにするので、ある程度は無理して食べてみようかと思ったけど、バナナはかなりハードルが高い。外れのない甘さは敵でしかない。


「鏡花が一人で食べたら?」


 とは言ってみたものの、礼儀とか平等とかを重んじる鏡花が、そんな誘惑にそそのかされることは無いことは分かりきっていた。なんかこの言い回し、武士みたいだな。


「んー、それなら親御さんに渡してくる」

「えっ、あぁそれはー……。一家そろって甘いものが苦手なので……」

「んあっえっ、でも一応、誠意だけは見せたほうがいいかな。見せてくる」


 私が引き止めようと立ち上がったのと同時に、自分の中では納得が得られた鏡花は、迷うことなくさっさと下の階へ降りて行ってしまった。また鏡花が私の親と話してしまう。それを思うと、大声で叫んで家具を薙ぎ倒して、とち狂ったように振る舞って、全部をリセットしたくもなる。とにかく、自分の制御下に戻さないと。居ても立っても居られないとはこの事か。


シャワーの時と同じで、また足音を立てずに追跡して、開けっ放しのリビングのドアから、二人の動向を注視した。何もできないのが、自分の家なのに、こんなに近くにいるのに、鏡花というたった一人の、正直で意固地で一生懸命な少女に、私はどこまでも特別を強いられてることが、やっぱり破壊衝動を駆る程もどかしい、。


「あのー、あっ、これを、どうぞっ」

「手土産?あ、どうもありがとうございます。お気持ちはありがたく受け取っておくから、二人で食べておいで」

「え?えと、あのその、縁佳……さんはっ、甘い物が苦手でして、それをすっかり失念してまして……」

「あ、へぇー……。縁佳って甘い物苦手なんだ」

「はへっ?し、知らないん……ですか……?」

「どうだったかなー、あんまりお菓子とか食べたがる子じゃなかったけど、でも昔は普通に食べてたような気もするのよねー」

「昔、ですか……」

「小学生の頃の話だけどね。最近は、そもそも何食べてるのか知らないし」

「んえあっ!?そ、そうなんですか……。あっ、でもあのっ、せっかく持ってきたので、ぜひご家族でお召し上がりください、それではっ」

「えっ、あー……、縁佳怒らないかなぁ」


 鏡花が、いつものような相手の事情を顧みない傍若無人ぶりを発揮して、東京ばな奈を一押しして、大きく頭を下げたので、足音のことも考慮せず、急いで自分の部屋に戻った。


娘のことを何も知らない親に、何でも知ろうとする親を持つ鏡花が、違和感をいだかないはずがない。こんなに早く察されるのは予想外だったけど……。いや、だからこそ証明された、私と関わりのある人間の中で、一番厄介な存在だと。まあ、問題が起こる前に証明されなきゃ意味ないっていうか、優秀な私はそれが分かりきってたから、敷居を雲より高く設定してたのに。トロイの木馬には無力だったというのか。このまま、ずるずると向こうのペースに引き寄せられてしまうのは阻止しないと……。


これ以上何も起きないでほしくて、鏡花を刺激したくなくて、その意志が現れるように、絡ませるように足を組んで、それで固着している。けれど、動揺を隠す癖が仇となったのか、それとも感じてしまった感情を捨てるゴミ箱がないのか、私が冷静さを取り戻す間もなく、戻ってきた鏡花はつぶらな瞳で、逃げも隠れも臆せもせず尋ねてくる。


「縁佳って、親御さんと仲悪いの?」


辟易するほどの家族愛に毎日浸ってるから、だからって、それを差し引いても想像力と配慮に欠けていると思う。結局彼女は今まで、不器用で自分の欲求に素直なことを、誰にも咎められず否定されず見向きもされなかったのだろう。その性格は、いつか必ず、不幸をもたらすことになる。周囲に蒔いた、ほんの少しの理不尽の報いとして。まあ、鏡花が不幸になるのは知ったことじゃないけど、でも、私に理不尽を押し付けるのは勘弁してほしい。


「鏡花の家庭が特殊なだけだよ。年頃の子供がいる家族は、皆どこもこんな感じ」

「そうなのかなぁ」

「鏡花だって、私には言えるけど親には言いにくいことってあるでしょ。考えてみてよ。進学とか引っ越しとか、そういうので縁が簡単に切れる友達と違って、親は一番長く近くに存在し続ける。だからこそ、お互いのことを一番よく知ってないといけないのに、なーんか友達より関わりづらい。その矛盾が不和の原因になるんだよ」

「それは、そうだけどもさ、……執念?が足りないっていうか……」

「執念?」

「私の親は、いつも執念深く踏み込んでくるから。もちろん、無視してくれてもいいのにって思う時ばっかだけど、それでも目溢ししないのが親の義務で、それを受け入れなきゃいけないのが子の義務なんだろうなーって、勝手に思って、自分を納得させてる」


 鏡花は若干あきれながら、珍しく苦労人であることを喧伝するように、語尾を唸らせながらそう言った。物凄い速さで振り返ってみると、いつだったか、私と同じように、家族と問題を抱えてる人間というレッテルを、鏡花にも貼った気がする。だけどその性質は正反対だった。家族というものを変えられない宿命とか理とか、そう言い張って行動を起こすわけでもなく、変えようって発想はなくて、ただひたすら我慢する。それが鏡花で、私は我慢できずに独り立ちの道を邁進することを決意した。


共通項は自分の家族に対する向き合い方が、正しいと信奉していること。私は少しでも自立して、両親の手を煩わせないことが正義だと思ってるし、鏡花はどれだけ気持ちがそっぽを向いていても、団欒を演じることが正義だと思ってる。そして、お互いの理念が、全く理解できない、それも共通項だった。


 鏡花が告白してきてから何となく過ごした二か月は、今までで一番上手くやれていた。等方的な関係じゃないからこそ、決定的な差を曖昧なままに見て見ぬふりができた。けどやっぱり、私たちは相容れない者同士で、均衡が破れて近付きすぎた途端、そこから目を背けるわけにはいかなくなる。鏡花にも気付いてほしい、自分が囁いた言葉の全てが恥ずかしくなる前に。


 だが、こっちが独りよがりに思うだけで、もはや自由意志を奪われた相手が考え方を変えてくれるはずもなく、少し間が空くと、鏡花はいつものように謎の義務感に駆られて、自分の髪の毛を少量握りしめながら、声と足をばたつかせた。


「あっ、なんかごめんっ……。せっかく縁佳の家でお泊り会っていう、テンションブチアゲハッピーイベントで、なんでこんな深刻に持論を語ってるんだって話だよね、楽しい話しなきゃっ、えーっと、えぇー、クリスマスはローストチキン派ですか、ローストビーフ派ですか!?」


 鏡花らしい立ち振る舞いと面白い話題に、さっきから続く渋い顔がようやく緩む。それだけだと物足りないだろうから、口を開けて声を出して笑ってみる。


「笑って誤魔化してるけど、どっちなの!?」

「えぇー、鏡花はどうなの、先に言ってよ」

「私はぁー、骨ありビーフ派ですっ」

「へぇー。どっちでもいい」

「どっちでもいいは無しだからぁ!」


そこにいるのは紛れもなく鏡花なのだけど、それは私の知らない鏡花で、何度だってこうやって見境なく突っ込んでくる。まあ、私の部屋に数年ぶりに上がれた友人、というだけはあるのかもしれない。


足を絡めるように組んでいたのを忘れて、躱すために勢いよく立ち上がると、姿勢を崩してそのままベッドにうつ伏せに倒れこんでいた。余裕で勝者な目付きで見下しちゃったのを、気付かれてないといいんだけど……。いや、鏡花が私の表情なんて、いちいち窺ってないか。どんな表情でも、どんな悪徳でも、隣に存在すればいい。それしか頭にないから、鏡花も後から私の横にぶっ倒れにやってきた。

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