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Step by Step  作者: Ehrenfest Chan
第2段:蛺蝶趁花
2/63

2-1

 私の机の上には今、鏡花のテスト結果だけが置かれている。しかし鏡花は、それを突き付けたっきり、無言のまま私の横に立っている。他人の成績を許可なく仄見てしまうような輩にはなり下がりたくないので、鏡花の顔を見上げた。それから、回遊するその瞳を追いかけた。


 うーん、何かを訴えたいのだろうか。意外と素朴に褒めたら、思いがけない側面を覗かせてくれたりするのかな。いやでも、心をこじ開けられるのは、鏡花もこりごりだろうし、でもでも称えてほしくないのに成績表を突き付けてくるか?周りが続々と教室を後にして、段々活気がなくなっていく中、私たちは延々と膠着していた。


「えーっと……、あっ昨日の夜、地震あったらしいけど気が付いた?」

「ん……?」

「あー気付いてないかー。私は飛び起きちゃったよー」

「ん……」


 めちゃくちゃどうでも良さそうにされた。再び鏡花の瞳は回遊を始めた。


「しかもその後、全然寝付けなくてさー。ついツイッターに張り付いちゃうんだよね。すっごい時間を無駄にした感じがするんだけど、辞められない……助けて」

「うん……」

「しかも深夜に限って飯テロが流れてくるからなー。理性が吹き飛びそう……」

「その話、詳しく」


 鏡花は机に両手を突いて、ちょっとだけ前のめりに迫ってきた。食べ物の話には食いついてくるんかい。どこまでも分かりやすい子だなぁ。まあ、面接を念頭に置いて美化するために、素直って言葉を贈っておこう。


 時雨と対峙した時も、鏡花は無言のまま、私の腕を必死に手繰り寄せていた。それでも私は構わないんだけど、鏡花がいつか困るかもしれないから、きちんと言っておこうと思った。軽い気持ちで、フィラーのつもりでも謝らなければ、無用な取り引きもないだろうし。


「島袋さん?頼みなら何でも承るけど、ちゃんと言葉にしてくれなきゃ伝わらないかも、鈍感だからさ」


 鏡花はすぐに表情を強張らせながら、声を震わせてお願いしてきた。


「あの……点数、私が勝ってたらご褒美ください……なんてねっ、意味わかんないよね、こんな私の戯言とか聞かなくていいから、ていうか忘れてっ!」

「うーん、残念だけど、それは叶わぬ夢かなぁー。合計点なら私のほうが20点上だから」

「いいって、いいから、善意の押し付けは禍々しいーいっ」


 慌てふためき溢れる照れ隠しが終わらない鏡花を横目に、私は自分のテスト結果をカバンから取り出して見比べた。しかしまあ、これだと私に勉強のことで泣きついてくることは無さそうか。


「とにかくっ、私の点数も順位も本名も、この紙の隅々まで見ていいからっ」

「あんまり嬉しくない……」

「ほら見て!探せば0~9まで全部あるよ!11進数ならどうかな、気になるよね!?」


 暴走状態の鏡花は、自分のテスト結果の紙を至近距離で見せつけ、私の視界を塞いだ。しかし今さらフォローされても、何事も一人で迷いに惑わされてそうな鏡花が、行動を起こしてまでご褒美を欲しがった理由は何なのか、気にせずにはいられない。


 まあどうせつまらないことに、おおかた時雨のせいだろう。少しでも努力した自分を慰めたかった……いや、単純に意固地だから、一度結んだ約束は、どんなゆがんだ形であれ、片付けたくなってしまったんじゃないかな。


 私には鏡花の性格が手に取るようにわかる。そりゃそうか、軽挙妄動に走って人を傷付ける、愚昧な時雨にさえ付け入られたのだから。おっと、年上は敬わないといけないんでしたね。


 そんなことより、とりあえず辛い気持ちを早く忘れられるように、鏡花を労ってあげよう。食べることが好きなのは、もうくどいぐらい理解したので、美味しいものでも奢ってあげようかな。


「何か今、食べたいものある?」

「えぇ……、ご褒美とかほんとにいらないって」

「いやー、単純に食べたいものだよ」

「だから……無いって……具体的には……」


 ということで、何だかんだ言って鏡花に手を引かれ、スイーツ食べ放題の店にやってきた。甘くて腹を満たせれば、メドヴニークでもパヴロヴァでもロズビラバンでも、何でも構わないという意味らしい。私がコーヒーを一口飲む間に、鏡花の皿からケーキが3つ消えている。


「うーん、季節限定が変わってなかった……」

「この店、前にも来たことあるの?」

「うんっ」

「それって、もしかして例の人と?」

「うん」

「えぇ、なんか嫌じゃないの……?」

「別腹だよ、別腹別腹……豚バラ?しょっぱいものも食べたくなってきた、パスタたのもー」


 食欲を前にすると、鏡花でさえ明世みたいになってしまうのか……。だけど、そんな人間の単純な性質のおかげで、鏡花は完全に息を吹き返した。


 それはそうと、どうやら点数が時雨より上だったらご褒美、という契約だったそうで、結局自分で代金を支払っていった。もちろん鏡花のことだから、もし奢ってあげると言っても、約束は約束だって意固地になっただろうし、果たして私は必要だったのだろうか……。


 まあいっか。私の隣に、確かに幸せを感じている人がいるのだから。鏡花の恍惚とした横顔を時折見ながら、勝利にも似た満足感で足湯を楽しみつつ帰宅した。



 同じ学校にいる以上、避けては通れないんだろうけど、やっぱりドキドキする。誰が隣に並び立っていようと、どんなに仲睦まじく罵りあっていようと、もしかしたら私に気が付いて、ハンドをシェイクしてくれるかもしれない。


 そんな愚昧な期待のせいで、いつも以上に周りを見回していた。そんなんじゃダメだ、ただの変人だ。そもそも時雨が自分の教室に、私以外の用件で来るわけないっ。でも退屈だ……、机に突っ伏して昼休みをスキップしたいところだけど、昨日はスイーツ食べ放題のおかげで、かつてない良質な睡眠が取れてしまったから、全然眠くない。


 それで、自然と縁佳のほうに視線が吸い寄せられていった。縁佳はいわゆる一軍と称される男女に囲まれ、手を叩いて爆笑したり、時に小突き合ったり、それは私にとっては宴のようだった。視界に入っただけで、網膜が焼き切れそうだ。


 私もあの中に混ざりたい……のかな。確かに私は、青春したいって思ってもみたりする。でもそう思っているのは、自分とは無縁だって分かってるからでもある。簡単に手に入るものに、高い値段はつかない。


 熟考していると、あっという間に時間が過ぎている。そう、考え事って時間を食うのだ。脳のほとんどの部分を使ってないのに。あーあ、休み時間終わっちゃった……。縁佳の取り巻きも、蜘蛛の子散らしたように、解散していく。


 その日は縁佳と顔を合わせることもなく終わった。いつも通り、バスの中で一日を振り返ってみれば、私は本当に縁佳と話したかったって、すぐに気付いていた。この間みたいに、前の席に来るのを受動的に待っていたんだ。


 まっまあ、私と違って縁佳には友達が沢山いるわけだから、順番が回ってくるまで待とう。そう、私が一歩踏み出したって、更なる災厄を招くだけだ。自分の心を縛り付けるだけだ。そう自分に言い聞かせた。何なら、隣に誰も座ってないから、ぶつぶつ唱えてもみた、呪詛を。


 私は本当に運が悪い。自販機から飲み物を取り出して振り返ると、時雨が階段を下りて行った。絶対、絶対、私、あの人の視界に入っちゃったって。混乱した私は、その場にかがんで目を瞑っていた。


 ただのカラーバス効果なのかもしれないけど、いつでもどこでも、時雨が近くにいる気がしてしまう。それはやがて、怒りのような感情に移ろっていった。


 時雨の横にはいつも、誰かがいて一人じゃない。二か月も前の私にとってはそんなもの、強がりじゃなくて、本気で羨ましくも何ともなかった。それが今は間違いなく、寂しさを感じている、一人ぼっちで居たくないって願ってる。人と交わることを知ってしまった。責任を取れって、厚かましい怒りが薄っすらと浮かんできたんだ。


 でもそれもこれも、私は言葉にできなかった。バカヤローでも、口くせーんだよの捨て台詞も吐けなかった。もちろん、縁佳に対しても同じだった。そうだ、そもそも縁佳の趣味とか性癖とか知らないし、雑談を持ち掛けようにも無理だよ。しょうがないしょうがない。


 こうして私は、教室にいる間に限り、縁佳の観測者として不干渉を貫いていた。抱腹絶倒して天に召されそうな姿も、教壇に足を引っかけるドジっ子な姿も、学級委員のように取り仕切る姿も……何だかどんどん遠くなっている気がする。


「島袋さん、どの競技出る?」

「はぁ……、はあー…………」

「あれ、島袋さーん、どうした?生気抜けてるけど」


 勝手に、もう縁佳が話しかけてくることは無いと信じ込んでいた。不意を突かれて、頭が真っ白になり、情けない声を漏らしながら、両足を前に蹴っていた。まあ、後ろの席の人も情けない声出してたから、私だけじゃない椅子ぶつけてごめんなさい。


「体育祭の種目だよ。特別に好きなの選んでいいよ」

「いや、別に何でもいい」

「えぇ!?ガントレットでもいいの!?か弱い少女には、ちょっと酷な種目じゃない!?」

「モロックマ……。とりあえず座りなさい、あとモロックマの声よく通るんだから、静かにしてなさい」

「何でもいいっていうのは、そういう危険性をはらんでいるんだよっ!わかったかっ!」

「そう言えば台風の目で棒って使うから、確かにできるね。してやろうか?」

「おうおう、武器なんて捨てて一人ずつ、徹夜してからかかって来い!」


「まっ茶番は置いといて、希望はある?」

「パン食い競争」

「ごめんねー、無いんだよ、定番なんだけど」

「じゃあ騎馬食い競争」

「何じゃそれ、お腹すいてるの?」

「ふん、大食い競争」

「ついに体育祭じゃなくなった」


 満を持したが、縁佳は釣られてくれなかった。例に漏れず、私は運動が得意ではない。その上、チームの興亡を背負っていると思うと、余計におかしな方向へ進んでしまう。できれば出場したくないんだけど……。


 こうして質問をはぐらかし続けたら、 “縁佳と” 二人三脚を担当することになっていた。って、正気の沙汰じゃない!



 どうしてこうなった。神様は私以上に不器用すぎる。これじゃあただの試練だ。本当にガントレットになってしまった。何でもいいって言うのはもうやめよう……。


 業務連絡みたいなものとは言え、話しかけてくれたことに心躍っちゃうはずだったのに、悪い緊張の仕方をしている。3秒に1回は体育祭のことを考えてしまう。あーもう、また飛び出しちゃおうかなーっ。


 放課後、私は二人三脚の練習のために、ランダムウォークしながら校庭に出た。私にとってその決断は、人生に一度あるか無いかぐらいの重さがあった。でも行かなかったら縁佳に迷惑がかかるから、自己は捨てないといけない。これ以上、迷惑を掛けたら……嫌われちゃうかもしれないし。


 どうやら先に応援合戦の練習があるらしく、私は一段高い所からその様子を、律儀に体育座りをして眺めていた。何だかもう浮かれた空気が漂っている気がする。ちゃんと盛り上がれるなんて、少し妬けてしまう。


 冷や汗をからかうようにそよ風が巻き起こり、縁佳の真紅のはちまきがなびいた。そのまま縁佳はお立ち台……ではなく証言台に上がった。そしてその気迫は泡沫のように消え、結局何してるのかよく分からないまま終わった。証言台から降りる時、縁佳はよそ見どころか、私に手まで振ってきた。


 応援合戦の練習が終わると、縁佳は小走りでこっちに向かってきた。私も気は進まないけど、砂地のほうに降りた。


「島袋さん、見てたのねー。そう、本番でもコサッ紅団長として前に立つから。応援団の応援よろしくね?」

「んー、ん……」


 なんだ、そのふざけたチーム名は……。やっぱり、いろいろ根堀り葉掘り、あまねく全ての不満を問いたださないと気が済まないっ。


「何か言いたげな顔してるけど、どうかした?」

「そりゃまあ……。だって、はっ初めてでもあれは無いよっ……と思います……」

「あれ?」

「あの体たらくっ……あぁーっいや、とぉーっても良かったよ、うん、完璧ー」


 手を糸車のように回して死に物狂いで弁明している傍ら、縁佳は目を逸らしながら、口に手を当てて静かに吹き出してた。笑って取り繕ってくれてるけど、余計なことを言ってしまった、絶対1点減点されてる……!


 私の口からは相手を立てたり、阿るような言葉は出てこない。ただ、私が思ったことを垂れ流すだけの、装置でしかない。それで、いつも微妙な空気にしてしまう。話しかけてほしいなんて、どうしてその願いだけが叶ったの……。


「確かに、練習から手を抜いていたら、本番が上手くいくはずないもんね。それは島袋さんの言う通りかも」

「違うのっ。いいよ適当で、どうせ私が足引っ張るだけだし……」

「島袋さん、なんか難しいこと考えてない?」


 縁佳はそう言って、私の胸の前の拳を鷹揚な手つきで、少しだけ自分のほうに手繰り寄せた。縁佳の目はとても穏やかで、怒っては……ないだろうけど……。


「私は島袋さんに何を言われても、気を悪くしたりしないから。友達に気を遣うなんて、先輩に敬意を払う次に馬鹿らしいよ。さっ、二人三脚は真面目に練習しようかー」


 縁佳はそう言うと、自分のハチマキを外し始めた。まあ、歯切れは悪かったけど、言いたいことを言えたからか、聞きたかったことを聞けたからか、胸のすく思いがした。


 やっぱり、縁佳は私のことを結構わかっている気がする。そう頼んだ覚えはないから、私は傲慢な人間ではない……はずだ。この人となら、二人三脚ぐらい完走できる、そう確信していた。


 ハチマキを足に結び付けて体を起こした縁佳は、小首をかしげて、まだ何かが引っかかっている様子だった。


「まだ何か言いたいことでもあるの?」

「えっ?まさか……」

「これから二人三脚するのに、気の迷いがあったらコケるよ」

「じゃあえーっと……、なんで裁判みたいな小道具を……?」

「あぁ、そのことねー。応援合戦は今年から、というか私たちで企画したものだから、まだ準備が整ってないの」


 逆になんでそんな物ならあるんだ、と心の中では頸動脈をチョップしていた。


「さあ?この学校、遅刻を3回した生徒は、法廷で裁かれるって伝説があるけど、その物的証拠じゃない?」

「それはバスドライバーの腕にかかってる……って、応援合戦は、ひっ平島さんが提案したの?」

「そうだよ。だって、あーいうのがあったほうが、盛り上がるじゃん」

「うわぁ、自己顕示欲でいっぱいなんだね……」

「人並みだわ。引かないでよ」


 残念だけど、私に青春は早かったらしい。畏れ多くなってきて、肩を組もうにも手が震えてる。真面目に練習しようって言った矢先、今にも私が脱落しそうだ。


「たっ大変僭越ながらっ、かっ肩、肩失礼しやすっ」

「ふふっ、比較的身を委ねてくれていいからね」

「ひっ、比較的!?」



 生徒会長の机の上に今度は、一枚の絵が置かれている。もちろんその作者は鏡花である。紅き炎をまとった、ドラゴンにしては覇気のない生物が、まあ見事に描かれてはいる。そう言えば以前、時雨と逢い引きしてたのって、美術室だったっけ。その手の才能はあるのか。


「上手いよ。そんな不安そうな顔しないで」


 鏡花の性格からして、この出来栄えで見せるのは不本意なんだろうから、きちんと正直な感想を伝えるとして、その後は……、鏡花があっさり白状してくれるわけないか。それにさすがの私でも、この間どういう顔をしていればいいのか、全然わからない。


 そうこうしていると、生徒会室のソファでスマホをいじるばかりで、全く仕事を手伝わない好奇心旺盛な明世が近付いてきた。


「あ、応援旗ってこと?いいじゃん、でかい旗をふりふりするのが、革命の醍醐味だもんね!」

「別に革命を起こすわけじゃないんだけど……」


 しかし、鏡花がここぞとばかりに首を縦に振っているので、珍しく明世が的を射たことを言えているらしい。心と心が通い合った途端、鏡花は目を激しくしばたたかせつつも、普通に話し始めた。


「昨日、練習見てて、旗持ちがいたらもっと派手になっていいと思った。だから旗の図柄を描いてきた……いい、よね?応援合戦には不可欠だよね?」

「なるほどねー。意外と盲点だった。なにせ、実行委員に経験者がいなかったからね。高学歴は声が小さいの」

「いや、開成高校とかあるし。きっとあいつら、喉をすり潰してるでしょ」

「むさくるしい男の話はしてない。よし、採用!早速旗作りに取り掛からないと」


 私が賛同すると、わかめを熱湯に入れた時のように、鏡花の表情はすぐ、晴れやかで鮮やかになった。前で組んでいた手も解放されていた。


「えっ、でもでも、本番は今週末だよ?それに白軍の旗も必要でしょ?間に合うのかなぁ」

「そこを何とかするのが……モロックマの使命でしょ?」

「えっ、私、体育祭は不干渉の構えなんだけどっ!?」

「別に、モロックマの代わりなんていくらでも居るからいいよ」

「そんな嫌味っぽく言われたら、ちょっとだけ協力して、厚かましくしてやるもん」


「まあそういうわけだから……、出来れば白組の分もデザインを考えてきてくれる?旗の制作自体は、皆でやっておくから」

「うん!任せて。すぐ作るから」


 鏡花は強く頷いた。何だかすごく、楽しそうにしている。興味のない人には、いつもオドオドして、自己主張しないって思われてるだろうけど、本当はこの絵のように、燃えたぎる想いを抱えている。まあ、ちょっと向き合うだけで、結構簡単に触れるんだけどね。


 なんて言うか、私以上に私らしいのかもしれない。そう肌で感じながら、学校の金で無地の旗をいっぱい発注しておいた。


 そういうわけで、やる事は増えたけど、二人三脚の練習を怠るわけにもいかない。こういう時に一番、スケジュール管理が得意で良かったと思う。二人三脚自体は、意外と息ぴったりで、今のところ一度も転んでない。


 西日が眩しい時間になったので、ハチマキをほどき、防球ネットに寄りかかってひと休みすることにした。


「今日はもう終わり?」

「そうしようかな。島袋さん、結構体力あるね……」

「お世辞?」

「違うよっ。素直に感心してるだけだって」


 お茶を吹き出しそうになった。私の言葉ぐらい、虚心坦懐に信じてくれてもいいじゃない。


 鏡花は軽い動きで腰を下ろし、反対の柱に寄り掛かった。涼しい顔で、何気ない空を見上げていた。


「そう言えば、応援旗の制作は順調だよ。ちゃんと本番に間に合いそう」

「ごめんなさい……。私がその場の思い付きで変なこと言ったから、余計な負担を増やしちゃった」


 その場の思い付きなのは、そういう自分を卑下する言葉だって、本人は気付いてないらしい。あの旗には、鏡花の粒々辛苦と色んな思惑が潜んでいるに違いない。少なくとも私はそう捉えている。


「それより、ずっと気になってたんだけど、あの動物?って何なの?回答によっては中二病だなーって思うけど」

「さっサラマンダーだよっ。あのパラケルススが提唱した四大精霊の一角。なんてったってあの、フランス国立印刷局もロゴマークにしてるし……」


 鏡花は饒舌に語りだして止まらない。存外、明世と気が合うんじゃないか?


 しかしそこまで気合いが入ってるとなると、生半可な気持ちで背負えないなぁ。


「でもどうして、そこまでしてくれたの?」

「そこまでって言うほどでも……」

「んーん、私はちゃんと見てるからね。あの日、一日中眠そうにしてたでしょ」


 鏡花は前を向いて、ちょっと俯いてしまった。それから耳も頬も赤くして、静かな夕暮れに似合う小声でささめいた。


「羨ましかった……皆が……」

「羨ましい?」


 聞き返すと、鏡花はこくりと頷いた。


「あの、騒がしいのとか、悪ノリとかは苦手だから、あの輪の中に入るのは無理だけど……。でもほんのちょっとだけ、触れてみたかったから……」

「そっか。あぁ、応援合戦やる人たち、みんな喜んでたよ。これで士気も上がるね。ありがとう、島袋さん」


 応援旗を作ることになって、盛り上がっているグループLINEでも開いた。それを流し目で見た鏡花は、後ろ髪をカーテンのようにして、顔を隠してしまった。


「うわぁーっ、恥ずかしい、やっぱさっきの嘘だからっ。感謝とかしないで!私が惨めに見えるーっ」

「あーもう、上手くいったんだから気にしないのーっ。ほら、さっさと着替えて帰るよー」


 背中を優しく2、3回叩くと、鏡花は仕方なさそうに立ち上がった。それでもなお、瞬きの回数は多いし、もじもじして落ち着かない様子だった。


「あ……ありがとう……。平島さんが、手伝ってくれなかったら、机上の空論で終わってたんだし……。二人三脚の練習も付き合ってくれたし……」

「友達なんだし、できることはするよ。これからも、頼りにしてね」

「んー、二人三脚で1着になったら」

「それはダメだよ!島袋さん、約束を破れないから」

「むぅ……じゃなかった、はい、頼りにしますっ!」


 鏡花は息が詰まるぐらい堅苦しく、威勢よく返事をした後、私と目が合って笑ってくれた。私も、鏡花からはたくさん元気が貰える。明日を迎える意味を貰える。タブラ・ラーサに戻った君は、どうか、そのまま何も記されないまま、正直で意固地で一生懸命なままでいてください……。


「あっでもっ、1着は狙う……できる気がする……」

「その意気だよ。本番も頼むよー」



 向暑の候、今年も白山高校、略して(はく)(たか)の体育祭が始まった。それはもう、雨が降って中止になってくれれば、それ以上何も言うことはないんだけど、現実はそう甘くない。誠に残念ながら、私に天候を操る力など宿ってない。


 で、縁佳は最後まで出番たっぷり引っ張りだこなのに対し、私は二人三脚以外に用もないので、だいぶ長い間ぼっちでテントに籠ることになる。しかも私に暇を与えたら、スマホで美味しいご飯の画像を検索してしまう。そして、お腹が空く。


「豆大福~、豆大福はいかがですか~」


 やる気がなさそうな、寝起きみたいな声ではあったが、豆大福には抗えない。振り返ると、こんなに暑いのに、長袖ロングスカートのメイド服を着た人が、立ち売り箱にありったけの豆大福を積んで巡回していた。これが和洋折衷というやつかー。無論、迷わず駆け寄った。


「すっすいません!豆大福50個ください!」

「えぇ、50個?ほんとですか!?」


 あまり表情を変えなさそうな人だったのに、たぶん優曇華ぐらい珍しく咲いた。って、違う冗談じゃないって、本当に食べるって!いやでも、冷静に考えて50個も大福を食べる女子って、冗談にしか聞こえないよね……。現に笑われたし。


「ああああ冗談です、日本語習いたてでっ。5個でいいです、5個5個」

「そっそうですか……。5個ですか……?」

「はい!5個!」

「1500円になります……。ノルマ達成は遠いなぁ……」


 こんな感じで、この白高の体育祭には、個性的な人たちが面白いことをやっている。観覧しているだけなら悪くないかもしれない。それにしても、やっぱり50個にしておけば良かった。あと1個だけど……そうだ、縁佳に差し入れしよう。


 縁佳は別のテントで、応援合戦まで待機していた。練習の時とは違って、スカートなら校則違反にならない長さの学ランに袖を通し、髪はしっかり結い上げていた。普段と雰囲気が全然違う。私ごときの旗を背負うには、あまりにも整いすぎている。


 私が距離を取って、縁佳の立ち姿を静観していると、ハチマキを巻いてあげる人、水を差しだす人、うちわで縁佳を扇ぐ人、ただ冷やかしに来ただけの人、一緒に写真を撮る人、男女問わず色んな人が私の視界を遮る。


 私はあの集団に近付けなかった。二人三脚の練習をしている時は、お互いに肩を借りて、汗と喜びを共有していたのに、くっつくほど近くにいたのに、今はあまりにも触れがたい。100段、いや1000段ぐらい上にいる感じで、私とは生きている世界が違う。


 取り巻きの一人が私を怪訝そうに見てくる。つい、豆大福を両手で圧縮していた。まあどうせ、自分で食べるんだから問題ない。味にムラがあるわけないけど、何だかさっきよりしょっぱく感じた。


 豆大福を食べ終わって顔を上げると、校庭の真ん中で、今度はちゃんとしたお立ち台、いや晴れ舞台に立って、応援団長を務める縁佳が目に飛び込んできた。


 練習の時からは想像できない、ハリのある動きとチームを統率する掛け声に、私は釘付けになっていた。私のような慮外者をも熱気の渦に巻き込む、圧倒的な吸引力が縁佳にはある。現に応援合戦が始まった途端、万籟はひれ伏し、私の視線の先以外から音が消えた。そして誰にも邪魔されることなく、何も間違えることなく、淡々と事が運んでいく。


 あの時もそうだった。時雨に対して何も言い出せない私の隣で、毅然とした態度を貫き、私と持論を守り通した。私は人の心が足りてないから、他人を簡単に好きになることはあっても、かっこいいとか推したいとか、そんな概念をいだいたことが無い。でも今は、自分から距離を置かせていただくような、驕慢極まりない感情が、爆発しそうなことを自覚していた。


 縁佳は私にとってみれば、天の玉座で構えている神のような存在だ。手が届くはずない。自分が幾分勘違いをしていたことに、私はようやく気付いた。……事実を直視するのって、とても嫌なことだ。突拍子のないことで、自分を慰めたくなる。あの人は、縁佳に血相を変えて叱られるほど変な人じゃなかったんだなぁ……。


 最後まで応援団長を務めた縁佳は、反対側のテントに吸い込まれていき、また沢山の人に囲まれて、華やかに談笑していた。そう言えば、私はあんな縁佳と、後で二人三脚に出場しなければならないんだった。とりあえず、賑やかな場所はもうこりごりだ……。


 体育館のギャラリーに繋がる外通路の下は、基本的に静かでひんやりしている。私はそのコンクリートに寄りかかって、ほっぺたも押し付けて涼んでみた。


「なぁーにしてるのぉー?」

「う、うおわっ」

「鏡花、驚きすぎぃー。私だよぉ、常葉お姉ちゃんっ」

「ん……、なんで分かったの……」

「さぁ、ないしょっ」


 眠気が吹き飛んだ感触で、さっきまで寝ていたことを実感した。えっと、この赤いふちの眼鏡をかけたお姉さんは、児玉(こだま)常葉(とこは)である。家庭の事情で顔見知りになっただけで、そうでも無ければ2個上の人と関わる機会があるわけない。


「いやぁ、びっくりしたよぉー。鏡花からぁ、そんな声が出るなんてぇー」

「んん……、常葉お姉ちゃんと違って、ちゃんと歌、歌えるし」

「あれはあえてだよぉー。わざと音痴に歌うとぉ、みんなのリアクションが面白いじゃーん」

「そうだったんだ……」

「ところでぇ、どうしてこんな所にぃ?あっ、わかったぁ。あれでしょ、出たくないんだぁ!」


 常葉お姉ちゃんは手を叩いてそう言った。そう言われれば、結果として客観的に観測すればそうなんだけど、縁佳様と共にわらわごときが二人三脚するのは不敬であるし、それにこの私が、ささやかでも赤組の足を引っ張るようなことがあってはならないわけで、かく正当な理由により、私はここに座っている。


 常葉お姉ちゃんは私の隣で足を伸ばした。そして日陰に咲く満面の笑みを見せた。


「いいんだよぉ、サボっちゃえっ」

「んー……」

「どうでもよくない?ここに隠れてればぁ、ぜぇーったいバレないしっ。お弁当なら私が鏡花の教室から取ってくるからぁー。つまみ食いするだろってぇ?まっさかぁ。鏡花のお弁当、量が多すぎて食べきれないよぉー」


「ちゃんとやってくる」

「ええええ!?どぉーしちゃったの??」


 私は私自身を制御できない。こういう時は反骨心が出しゃばってしまって、思わず立ち上がっちゃうのである。常葉お姉ちゃんはズボンをつまんで引き留めようとしてきたけど、甘言に乗せられて逃げることは、悪いことだと思うから、私は今だけ日陰者をやめることにした。


 なんて、勇ましいことを胸に秘めていたけど、縁佳を前にしたら全部吹き飛んだ。そう、この縁佳は紛れもなく、さっきの全身全霊応援団長であり、そして時雨に対して手も足も出ない私が、縋り付かいても文句一つ言わないでくれた人。同じ階に並び立っていい存在じゃない。


「あっ、島袋さん、ちょうど良かった。ん?なんか浮かない顔してるけど、どうした?」

「私、やっぱり辞退するっ」

「えっえっ、ちょっと待ってよ!何があったの!?」


 手詰まりになると逃げるし、ねじ切れそうなぐらい矛盾した性格だし、私はどうしようもない愚かな人間だ。自分をもっと嫌いになりながら、常葉お姉ちゃんも居なくなった階段下に、とんぼ返りしていた。私が出場しないほうが、誰にとっても幸せに違いない。そのはずなんだ……。


「島袋さんっ、探したんだよー」

「ん……」

「モロックマ、どこに居たの?」

「あぁ、校舎の東側をうろついてた。体育館のほうから来たんじゃない?」


 どうやら、縁佳は知り合いを総動員して探していたらしく、その一人に捕縛されて教室まで連行された。優柔不断な私は、別の正義に負けて、あの日陰から飛び出していたのだが、そこをぱくっといかれたのである。


 それで私は、反省の色もなく、人目も憚らず、涙目を隠すように謝ることしかできなかった。後で振り返った時に、いたたまれなくなる事もわかっているはずなのに……。縁佳の顔の輪郭だって、視界に入れられない。


「ごめんなさいっ、ごめんなさい……」

「まあまあ、そんなに謝ることもないよー。んー、緊張してるの?」


 思わず適当に頷いてしまった。すると縁佳は励まそうとしているのか、私の両肩に触れて迫ってくる。今度は体が動かない代わりに、葛藤と正義が吹き飛んだ。


「だーいじょうぶだよ、なんとでもなるって。他の人よりは練習したんだし」

「それは……、平島さんが二人いたら、何とかなるかもだけどっ。私じゃ足引っ張るだけだからっ」

「どうして急に、そういうことを考えるようになったの?」

「だって、平島さん、やればできる人だから……」

「なーんも関係ないじゃんっ。島袋さんとの練習は、私、気合い入れて頑張ったし」


 私の言葉なんて縁佳は一笑に付して、ただいっぱい励ましてくれた。


「私、物覚えがいいんで、島袋さんの足のリズム完璧に記憶してるから!むしろ、練習通りにやってくれないと困っちゃうなー」

「ん……」

「元気出して、島袋さん。私はなんか朝から気持ちが昂っちゃって、収まらないぐらいなんだから!」

「んー……」

「私、島袋さんと優勝したい!」

「うん……、わかったよ……」

「本当!?ふあー良かった。やる気になってくれたっ」


「あぁえーっと……。やるよ、もちろん走るけどっ。どうして、こんな私を引き留めようとしてくれたの……?」

「うーん、まあ、島袋さんのため?が大きいかな」

「こっこの間も私のために色々やってくれたし、なんでそんなに優しくするのかなぁーって……。うわぁっ、違うよっ、侮辱してるわけじゃなくてっ」


 まあこんな事、縁佳にとってはちっぽけな話だって、ちゃんと見せつけられたけど、聞いてしまっていた。縁佳は自然な笑顔を作って、整然と回答してくれた。


「私は友達みんなに優しくするよ。その手の質問をすることになるとしたら、どうして冷たくするの?になるんじゃない?逆に、なんの理由もなく冷たく接したりしないから」


「よっすーっ、やばいぃー、一大事ぃーっ」

「どうした露崎、今行くからー。ごめん、行ってくるね。すぐ戻ってくるよ。一緒にご飯食べよ?」


 私はうっかり舌を噛むぐらい頷いてしまった。


「ところでがすよ、いつまでハチマキを着けるつもりだい?朝からずっと着けてるけど」

「え?ちょっとモロックマ!気付いてるなら早く言ってよ!」


 縁佳は珍しく慌てて、ハチマキを脱ぎ捨てた。そしてそのまま、教室からは誰もいなくなった。って、私のしおれた顔、縁佳以外に見られてたってことだよね!?それは恥ずかしい……とっとりあえず、お弁当を用意しようっ。そう思って振り返ると、床に2本のハチマキが落ちていることに気が付いた……。どっちだろう?



「きゃーっ、かっこいいーっ」


 刑部はわざとらしく甲高い声で、まあでも本当に褒めてくれた。


「先輩、うちわで扇がせていただきますね。風、入りまーす」


 篠瀬は七輪に空気を送るように、片手を添えながら優しい風を送ってくれる。ちなみに篠瀬は2年生である。


「おやっさん、水をお持しいやっさぁ」


 露崎は舌足らずにスポーツドリンクを差し出す。まあちょうど喉が渇いていたので、ありがたく受け取ることにした。


「そんなにじろじろ見られると、飲みにくいんだけど……」

「えぇー。飲んでる時の、喉が脈打つ感じが見たいんじゃん」

「それが狙いかよ……」

「それじゃあ、うちには鎖骨を見せてよ」


 篠瀬はそう言って、襟ぐりをまさぐり始めた。この人は冗談で止めてくれないので、野放しにしてはいけない。篠瀬の手からうちわを抜き取り、角?でやつの頭を小突いた。こんな感じで、いつでもどこでもどんな時代でも、篠瀬と露崎は変態である。そういうキャラクターなのである。


 まあそれはさておき、校庭中の視線を集めている気がする。あちらこちらから写真を撮られてるし。そんな騒ぐほど似合ってるのかなあ。


「おー、何だか懐かしい感じがしますね。普段より凛々しくなって、似合ってますよ」

「大村先生!ありがとうございます。この学校、昔はこういう事もやってたらしいですね。先生の頃もありました?」

「そうですねぇ、今思えば私も、こういうことを経験してたらって、大人になってから空騒ぎのありがたみが身に染みるものです」


 まあ、これだけの憧憬と羨望を集められる機会なんて、社会に出てからはそう無いだろうからなぁ。しみじみしていると、今度は露崎が私の腕に抱き着いてきた。


「しのせんぱーい、私たちを撮ってよー」

「えぇーっ、ずるいーっ、うちも入れてー!」


 篠瀬はすかさず反対の腕に抱き着いた。


「うーん、じゃあ大村先生に撮ってもらえば?ほら、洞窟ちゃんも」

「えっ!?いやいやいやいや、私なんかと、よっすーは釣り合わないよっ、あのよっすーだよ?きゃーっ、かっこよすぎますぅーっ」

「そう言いながら、擦り寄ってきてるじゃねーか」

「こう近くで見ると、かっこいいというより、いつも通りのかわいさだねっ」

「そりゃ、顔自体は変わってないからね……」


 ただでさえ高温多湿なのに、どうして密着して写真を撮ってるのだろうか。まあいいや、これは後で共有するとして、そろそろ出番である。気合い入れていきますか!その雰囲気を皆にお裾分けするために、アンニュイに水平線のその先を見つめているような表情に切り替えてみた。そうするだけで、校庭から音が消えていく……。


「よーしうちも準備万端っ。後で盛りまくって送るよ」

「雰囲気壊さないでよ!」



「おつかれさまー。すごいな、がすよってあんな声出るんだ」


 テントに戻って、熱を帯びた学ランを脱ぎ捨てていると、明世に笑われた。


「おかげさまで喉枯れた……。午後もあるってマジ?」

「やれやれって顔してるけど、自分で買って出たんでしょ。まーそうだなぁ、私が馬だったら背中差し出してる!」

「意味わからん」

「おー?とりあえずチョキタッチしよーー」


 明世はそう言って、チョキを掲げながら過ぎ去ろうとしたので、握り拳をかすめてあげた。振り返って見ると、明世は人差し指と中指に息を吹きかけたり、ちゃんと動くか何度も確かめたりしていた。


「よっっすぅーー!」

「うおわっ、あぐりぃっ!?どうしたどうした?」


 安栗はそれなりに身長があるのに、平気で背中に体重をかけてくる。同窓会で同じことされたら、骨折するかもしれない。


「いいね!よっすー最高だよ!人生で最高に輝いた瞬間じゃない!」

「そっそう。うん、ありがとう」

「うひゃーっ、口角上がっちゃってるじゃーん」

「褒められると誰でも嬉しくなるでしょ」

「あっそうだ、そうだよ、嬉しくなってるところ悪いけど伝言だよっ。放送の鑓水が実況変わってほしいってさ。私じゃ気の利いたこと言えないよぉーって、泣き言を抜かしてた」

「鑓水、そういうの向いてなさそうだもんね……。わかった、任せて」

「よっすーなら任されてくると思ったー。そいじゃっ、選抜リレーは期待してるよっ」


 体育祭が終わる頃には、声どころか精神も枯れ果ててそうだなぁ。と、幾度とあらゆる行事で思っているけど、結局いつも次の日になったら全部忘れて、友達とどんちゃん騒ぎしているような気がする。若いって、最高。


 そしてどの行事でも例外なく、私はあらゆる方面から呼び出しが絶えない。ここまでやっているのだから、行事を取り仕切っているのはこの私、という風に威張って、自負してもいいと思う。。


 午後もやること山盛りなので、早めにお弁当を食べよう。教室へ戻ろうとしたら、校舎前の石畳で鏡花の後ろ姿が目に入った。さては、お腹が空いて早弁しようとしてるな?せっかくだし、一緒に食べるかー。


 鏡花も手放しで喜んでくれると思ったのだが、それとはまるで正反対な態度で断られ……逃げられた。今日は朝から鏡花と話してなかったけど、それが原因か?いや、一回も話さない日なんてざらにある。もしかして、鏡花って本番に弱い?とりあえず、逃げられたら追いかける。それは私の仕事だ。


 しばらくすると明世が鏡花を確保してきた。急いで教室に戻ると、ちょうど明世が両肩に手をのせて、鏡花を連行してきていた。


 一歩前に踏み出すだけで、この間の相対した時の倍は怯えてくれる。ただ緊張しているだけじゃないことは理解した。じゃあ一体、何が鏡花の心を蝕んでいるのだろうか。鏡花の陥りそうな思考……自分は縁佳の隣に並び立つ権利がないとか?何がきっかけかは重要じゃないからどうでもいい。そして、どうやら図星を指していたらしい。


 本当に、鏡花ってわかりやすい。あーでもでも、上品に余裕ぶった笑顔を欠かすわけにはいかない。鏡花の輝くつぶらな瞳を直視していると、油断してしまう。


「よっすーっ、やばいぃー、一大事ぃーっ」


 露崎が呼んでいる。鏡花には申し訳ないけど、明世に指摘されて、投げやり気味にハチマキを取りながら、そっちに向かった。でも露崎って、物事を針小棒大に告げる癖があるから、どうせ大したことない。そしてそのヒューリスティックは当たった。


「やばいやばい、あのなもち先輩にバトンを渡すことになっちゃった。やばいやばいどうしよう……」

「大丈夫だよ。だってなもちと足の速さ大差ないじゃん」

「先輩を付けろ、先輩を!」

「耳元で騒ぐな……」


 どうして私が露崎のご機嫌取りをしなきゃいけないのか、と恨み言を連ねるつもりは毛頭ないし、そもそも別に悪い気はしないけど、鏡花と比べたら優先順位が下なので、さっさと自分の教室に戻ることにした……。


「どしたー?」

「あっ、あーっ、露崎!頑張れ!なもちなんて抜かしちゃえ!」

「だから先輩を付けろ、先輩を!あと、同じチームだから!」


 心臓が止まるかと思った。なんてったって、私が今さっきまで巻いてたハチマキに、鏡花は己の鼻に近付けて、そこまでしたら目的は一つで……私は、とっさに露崎を大声で呼び止めていた。


「こっちが平島さんの。床に落ちたから拾っておいた」

「そういうこと……、あっありがとね。まあ、私はそういうの、あんまり気にしないけど」


 鏡花は、一家族がお花見に持っていくような重箱を机の上に広げ、一転して幸せそうな表情をしている。それはきっと、美味しいご飯が山盛りだから、だよね……。鏡花にそんな、上級の情緒を解する心意気があるなんて……。


 いやいや、鏡花は悲劇のヒロインだったじゃん。自分に正直だからこそ、愛のままに動いてしまう。それが破滅に繋がっていても、鏡花は意に介さない。……そうか、だからまだ、鏡花は時雨に夢を見ているはずだ。


 ていうか、私が3、4時間巻きっぱなしだったハチマキのにおいを嗅がれたぐらいで、何大げさなことを考えてるんだろう。露崎や篠瀬にやられたって何も思わないのに、何となく鏡花の行動には、重大な意図が正直に籠められているような気がしてしまう。


 とは言え、鏡花もそう単純な人間ではなくて、いざ肩を組むとなったら、最初の日みたいなぎこちなさが伴っていた。


「えっと……肩失礼します……」

「やっぱり、本当は緊張してるの?大丈夫、私が島袋さんの動きに合わせるから」

「ん……、そうじゃなくて、平島さんが好きなように動いて……」

「私がリードしたほうがいい?」

「うん……応援団長な平島さんを見て、そんな気がしてきた……。か、かっこよかったよっ、なんか憧れちゃうっ」


 鏡花は正直に言い切ると、いつも通り私の反応を探るようにゆっくり目を開けた。そして私は、いつも通りにそれに応える。


「そっか、言われて一番嬉しい言葉かも。頑張ろう、やるなら一着目指そう!」

「おっ、おー」


 さっきまで薄い雲に遮られていた太陽が、全力を取り戻した。鏡花を疑うなんて、私もどうかしていた。憧れって、なんと甘美な響きなのだろうか。



 縁佳が扉を閉める。この静寂極まる生徒会室に縁佳と二人っきり……、どうしてこんなことに!?人前でソファって、どうくつろげばいいんだよぅっ。


「Beef or Chicken?」


 足を何度も組み替えていると、縁佳が爽やかな顔で、選択を誤ると床が抜けるようなことを聞いてきた。


「干支ですか……?」


 一瞬の沈黙の後、縁佳は口元に手を押し付けて、ひたすらに笑いを堪えようとしていた。なんか私の血迷った一言を、縁佳は気に入ってしまったらしい。腹を抱えながら、何度も思い出し笑いをしながら、縁佳は何とか倉庫のほうへ、部屋を横断していった。


「あの……、ビーフシチューかコンソメスープか……、どっちがいいっ?」

「両方」

「ですよねー。はい、どうぞ」


 縁佳は机の上に、缶のビーフシチューとコンソメスープを2本ずつ置いた。うーん、具材がないと、食べた気がしない。そもそも、スープの主役はパンだったらしいじゃないか。


「なんでこんな物が……?」

「さあ?賞味期限が今日までだから、飲んじゃおうかなーって。美味しい?」

「ん……、まあまあ」

「そうだよねー。こういうのって、熱々にして寒い冬に飲むのがいいんだよねー」


 そう、ご飯にかけて食べるのが美味しい。白米は全てを受け入れる。


「今日は何の用……?」

「暇だからだよー。ゆるくおしゃべりでもしようかなーって」

「おしゃべり……、何を?」

「あーあー、そんな身構えなくていいのに。島袋さん、体育祭お疲れ様」

「おっ、お疲れ様です……」


 そこで会話は途切れている。気まずい……、干支より面白いこと言える気がしない。心の中でてんやわんやしていると、縁佳がスマホいじり始めてしまった。そうだよね、私、つまらないもんね、ごめんなさい……。やっぱり人と話すの苦手だ。


 縁佳の指先から目を離せないでいると、私のスマホに通知が来た。縁佳が早く開けと言わんばかりに、莞爾としてこちらに視線を送ってくる。


「これ……体育祭の時の……!?」

「そうだよー。かっこいいなんて言ってくれたじゃん。だから、どうぞっ」


 縁佳が両手を張って、精魂の籠った応援を送っている写真が送られてきた。私がどんなに藻掻いても、決して届かない孤高の存在が、そこには写っている。でも私はそんな縁佳に、心を動かされてしまった、憧れてしまった。写真なのに、あの時の声や動き、熱気がたやすく再生できる。


 つい見惚れていると、現実の縁佳が手を振って語り掛けてきた。


「おーい、この私と同一人物ですよー」

「えっ!?いやいやっ、私にはもったいないっていうか、ダメだよ!自分の顔が入った写真を、他の人に送るなんて!」

「すでに色んな人に出回ってるっていうか、そもそもそれ撮ったの友達だし」

「そういう問題じゃないっ」


「えっ、島袋さん、何してるの?」

「一方的に送られっぱなしなのは、フェアじゃないから」


 私は自分のスマホを、震えながら高く掲げてみた。でも人生経験が足りないから、上手く笑えない。隣の縁佳はこんなにもこなれているのに……。


「なっなんで……っ」

「いいからー、あっ後で私にも送ってねー」

「待って、心の準備がぁーっ」


 縁佳は片手を伸ばし、私の人生みたいにブレまくりな私の手を押さえて、シャッターを切ってしまった。しかも、もう片方の手で両頬を挟まれている。恥ずかしさのあまり、後でひっそり消した。

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