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自販機の前で

 自販機の前で紙コップにコーヒーが落ちるのを待っていると後頭部をじーんと一本の指が圧してきた。これ以上抵抗していると爪の先で頭皮が破れて血がでるな。

 アテネ・フランスの中でこんなことをしてくるのは麦子さんの他にはいない。

「きょうは早く来て、ちょうどよかった。お茶しよう、お茶。おごって」。ちょうどよかったって……?


 鞄を脇に抱え熱い二つの紙コップの上の方を両手につまんで、麦子さんの後ろについて自習室兼休憩室に下りた。米吉君は大学の午後の講義が休講になったので、英語のクラスが始まるまでの時間をゆったりと静かに過ごそうと思っていた、のに。


 米吉君が初めて麦子さんと出会った時、麦子さんは紺色の落ち着いた感じのワンピースを着ていて、レベルⅣの英語の最初のクラスが始まる少し前に米吉君が座っている席の右隣にやって来て、腕組みをしたまま机におしりをちょこんとのせ、白く美しい太ももを二つ並べ、米吉君を見下ろしながら、「ねぇ、君、いくつ?」と訊いた。……「……19歳です」と米吉君が訳も分からず答えると、「19かぁ」とため息をついた。「学生君ね。それじゃちょっと可哀そうかなぁ。私、麦子、28。女もこの歳になるとなかなか大変なのよぉ。一緒に住んでくれる人、捜しているの。ね、君ぃ、同棲しない?」。……「……勘弁してください」。……。


 その後、麦子さんは、米吉君の隣の席が空いていると、必ず来て座る。米吉君は知りたいわけではなかったが、麦子さんが栃木県出身で、東京の短大を出ていて、三井鉱山という会社の部長秘書で、好きな物はお酒と読書で、仕事ではたいへんで息をつく暇もなく、男のようには働けないと少し思い始めていて、内容は不明だが最近女として辛い状況にあるということを知った。「女として辛い状況」と言われても19歳の米吉君には分からない。麦子さんは背が高くスタイルも良く、ウェーヴのかかった長い髪はつやつやしていて、いかにも一流企業のできる秘書といった、すてきな服をいつも着ている。


 麦子さんと出会って間もない、ある時、隣の席に座った途端、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』を読んだことがあるかと聞いてきた。読んだことがないと即答したら、麦子さんはまるで欺かれ、裏切られ、陥穽(かんせい)()まったという表情を見せた。そんな顔されてもなと思っていると、「あのねぇぇ、こういう本は、人生を始める前の学生の時と人生を始めて暫く経った後に読んでおかなければ、世界の半分の存在を知らないままに生きることになるよ。読まなかったら、仮に君が世界のすべてのことを知り尽くしたとしても、世界のもう半分の存在には全く気づかないまま死んでいくことになる。まだ読んでいないのなら、君に現在見えているのは、世界の半分の、しかも、そのわずかな一部分にすぎない。要するにほとんど何にも見ていないに等しいね」と麦子さんは周りにも聞き取れる声で断言した。米吉君は何だか不安になり、自分の無知が怖くなってきた。

 

 自習室兼休憩室のテーブルに向かい合って座るとすぐに麦子さんはタバコに火をつけた。煙いなぁ。「私って、グロテスク?」と言った。大抵、脈絡なく麦子さんは自分にとっての核心部分から話を始める。そりゃぁ、麦子さんは非常にぶしつけで変な人だとは思うけれど、グロテスクだなんてそこまで自分のことを貶めて言わなくてもなぁ、でも、なかなか的確に自己分析できているかも。

「全然そんなことないですよ。自分のことをグロテスクだなんて、麦子さんはどっちかって言うと美人だし」。

「そんなこと訊いてないわよ。バカね」。バカねと言われてうろたえる米吉君を無視して、麦子さんはコーヒーを飲んだ。


「ねぇ、君、文学部でしょ、シャーウッド・アンダスンって知っている?」。


 麦子さんは、わがままに、話の先が見えないままに話を進める。米吉君だって黙っているわけではない、常に、心の中では。


「知っています。J・D・サリンジャーを読んでいた時に、アンダスンの名前が出てきたので、読もうと思って、『ワインズバーグ・オハイオ』を読みました。翻訳で、ですけれども。

「オハイオ州の架空のワインズバーグという町の住人たちの二十二の物語ですね。冒険ということばと手の描写が頻繁にでてきて、登場する女の人はみんな背が高い。

「何だかさえない人ばかり出てくる暗いおかしな小説でした」。


「『ワインズバーグ・オハイオ』、読んだんだ。少しは、やるじゃない」。少しは、やるって……?


「今、私、それ、繰り返し読んでいるの。ねぇ、ここのところ変だと思わなかった?」と、(おもむろ)にバッグから新潮文庫を取り出して、テーブルの上で開いた。「ここ」。米吉君の前に置いた本に、白い、細く長い、美しい指を伸ばした。


「この世界がまだ若かった初めの頃には、想念はおびただしくあったが、真理というようなものは一つもなかった。人間が自分で真理を作り、それぞれの真理はたくさんの漠然とした想念からの集成物だった。世界のいたる所に真理があり、しかもそれらの真理はみな美しかった。/老人はそれらの真理を列挙していた。だがわたしはその全部をあなたがたに語るつもりはない。処女性についての真理もあれば、情欲についての真理、富について、貧しさについて、節約について、浪費について、無頓着さや奔放さについて、の真理もあった。幾百も幾千もの真理があり、それがみな美しかった。」

「……変なところを捜しながら読めば、それらしいところは、あります」。

「ふーん、読んでいて気にはならなかったんだね。あのさ、君、文学部のくせに本の読み方が粗雑じゃない?」。とても傷つく。心の動揺を隠し冷静さを装い、主張する。

「そういうのは、やはり原文はどうなっているのか、原文と比べないと正確なことは言えないのでは?」。


 麦子さんは、早速バッグの中からペーパーバックの‘Winesburg, Ohio'を取り出し、そのページを開く。「ここ」。再びあの美しい指で示す。

 

‘That in the beginning when the world was young there were a great many thoughts but no such thing as a truth. Man made the truths himself and each truth was a composite of a great many vague thoughts. All about in the world were the truths and they were all beautiful. / The old man had listed hundreds of the truths in his book. I will not try to tell you of all of them. There was the truth of virginity and the truth of passion, the truth of wealth and of poverty, of thrift and of profligacy, of carelessness and abandon. Hundreds and hundreds were the truths and they were all beautiful.’


 ‘carelessness’は、棒線で消され、その上の余白に‘carefulness’と丁寧に小さな字が書き込んである。麦子さんの、変なところがあるという示唆があって、米吉君が文庫本を読んだ時、その部分だけ対比的な表現になっていないと気がついた箇所だった。でも、自分で読んだ時には気づかなかった。麦子さんに言われて初めて気がついた。米吉君は、自分の、本の読み方の「粗雑」さにがっかりした。

「あぁ、そうですよね、‘carefulness’がいいです、本当に」。

「何だ、君もやっぱりそう思う? よかった」と言って、麦子さんは、米吉君の読み方の甘さを指摘したにもかかわらず、米吉君のことばを聞いて素直に嬉しがる。そして、米吉君は、さっきの文に続いて「グロテスク」についての記述があったことを思い出して、その先を読んだ。

 

‘……the moment one of the people took one of the truths to himself, called it his truth, and tried to live his life by it, he became a grotesque and the truth he embraced became a falsehood. ’


 麦子さんの言った「グロテスク」は、これのことだったのか。けれども、麦子さんの質問の真意は分からない。


「君、この小説、さえない人ばかり出てくる、おかしな小説って言ったけどさ」。あんなこと言わなければ良かった。


「はい。でも、ひねこびた林檎が出てくる『紙玉』っていう話は、感動的でした。僕のことだから何か勘違いしているかもしれませんが」。どんな非難が飛んできてもいいように逃げ道を作っておく。

「あ、それ、いい話ね」。よかった。


 麦子さんは更に「この小説の中の現在って、いつごろだか知っている?」と訊く。文学部としては、是非ともおさえておくべき基本だった、今思えば。

「知りません」。

「ダメね」。「はい」。


「本が出版されたのは1919年、小説における現在は1890年代よ。

「今年が1978年だから、80年も昔。現在のアメリカ合衆国と違って、まだ自動車は走っていない。でも、産業主義が到来し世界史上最も物質主義的な時代になるのは、もうまもなくね。

「1831年にトクヴィルが、1842年にはチャールズ・ディケンズが、アメリカを訪れている。

「トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』を、ディケンズは『アメリカン・ノーツ』を書き残している。

「二人とも、アメリカにおける黒人やインディアンへの差別や抑圧について大きな懸念を抱いていて、この新世界に問題が全然ないとは言わないけれども、ヨーロッパにはない、つい先ほど創造されたばかりのような新鮮で健康的な暮らしぶりや新しい社会、制度のあり方を(おおむ)ね心から賞賛している。

「ワインズバーグはオハイオ州の町だけれど、トクヴィルは、オハイオ州は奴隷制を拒否し、労働が安楽と進歩とともにあり、人々が自己の持つ活力と知力を存分に仕事に発揮している州だと記している。

「ディケンズがほんの一晩だったけれど訪れたクリーブランドは、ワインズバーグの駅から西に向かう列車に乗ると行ける。

「トクヴィルやディケンズが訪れたアメリカから、50年、60年経ったのが、これらの話の現在。

「トクヴィルやディケンズのような旅人が単に通り過ぎながら見るのとそこで実際に生活を続けていくのとでは、全然違うのは言うまでもない。

「民主主義を政治の原理として、個人の自由が保障されて、富の追求と獲得が美徳とされ、徹底的な個人主義的活動を肯定して成り立っている、そんな社会の中で実際に生き続けるとしたら、……君は、どう?

「孤立した自己の中で出口を持たない孤独がどんどん深くなって、自意識過剰になったり被害者意識を募らせたり、現実から逃避したくなったりするかもしれないと思わない?

「でもね、それ、私たちの現在の姿だよ、ね?

「トクヴィルがオハイオ州の住民は勤勉だと言ったとおりワインズバーグの人々に怠惰な人はいない。

「けれども、アメリカ人は『家庭に帰ると、秩序と平安のイメージに直ちに接する』と書いたアメリカでは、もはやない。

「ワインズバーグに住む人たちは心の底から他者を求めようとしながらも、孤独だ。

「オハイオ州出身の、作者のアンダスンは、東部のピューリタニズム、知性偏重、わざとらしい上辺のお上品さといったものに反発していた。そして、名もなき人々への共感を持っていた。だから、この小説に登場する人物は、洗練されていないし、いかがわしかったりする。でも、共感的なの、アンダスンは。

「結局、君が言ったとおり、さえない人たちだと言えるかもしれないけれどもね。

「ワインズバーグの人々は、それぞれの人が聖性とも呼びうるような美質を持っている。それにもかかわらず、お互いには理解し合うことがない。そのことをわずかに知ることができたのはジョージ・ウィラードひとり。その彼だって理解できないことはたくさんあった。

「ワインズバーグの住民は、優しい人々同士だから蔑み合うことは、もちろんしない。けれども、その人の外見がその人の内面に近づくのを妨げている場合はある。

「ウィング・ビドルボウムはまだ40歳だったのに65歳にも見えた。彼が神々しい手を持っていることも子供たちの教師になる天性の素質を持っていることも知られることがない。

「胴がやたらと長く、首が細くて、足が貧弱で、薄汚くて、白目まで汚れているように見える、町一番の醜い人物であるウォッシュ・ウィリアムズには熱烈な宗教心にも似た生真面目さや何にも穢されることのない純粋な愛情があった。

「ジョージ・ウィラードの母親、エリザベス・ウィラードは45歳で、生気というものが全く抜けてしまい幽霊じみて見えるけれど、彼女に無垢な少女の、みずみずしい感性が潜んでいた。でも、それは、リーフィー医師しか知らない。

「口が悪く気ままな生き方をしていたケイト・スウィフトが人間の生活を作り上げもし、台無しにもする激しい情熱的な魂を持つことを誰も知らない。彼女には時に人を愛したいという衝動が訪れ溢れることがあるけれども、受けとめられることはない。

「アリス・ハインドマンは、ある雨の夜、さまざまな感情が通り過ぎていった後、裸で雨にあたっていると何年かぶりに味わう若さと勇気が身体の中に満ちて来て、誰か自分以外の孤独な人間を抱きしめてやりたくなった。そして、町の通りを駆け出した、裸で。彼女の思いは宙ぶらりんのままで終わり、自分のしでかしたことに動顚して身震いする。

「ジョージ・ウィラードは、一月のある夜、作男や鉄道の保線工夫ら労働者の住む木造家屋が並ぶ町並みに足を踏み入れた時、自分が大きく生まれ変わったような思いにとらわれ、このみすぼらしい通りに住んでいるすべての人々がみんな自分の兄弟姉妹であるような気がしてきて、もし勇気があれば、みんなを家から呼び出して握手をしたいとまで思った。けれども、暫く後で再びその通りにさしかかった時には、その通りは汚い何の変哲もない場所に見えて、逃げ出してしまう。

「彼ら全員にとって啓示の訪れとも呼びうる出来事が結局は彼らを最低の結末に導いてしまう……そして、みんなお互いの尊さを知ることがない」。


「やりきれない、暗い小説ですよね」。


「そうね。でも、じゃあ、君は、今の世の中は、みんな、お互いがその存在を認め合い大切にしあって生きていると言える?

「人間を、他者を本当に求め合っている? お互いの聖なる部分を、いいえ、ぶざまな部分をも含めて、ちゃんと関心だけでも持ち合っている?

「私たちがお互いに心の中に映し合っている他者の存在の影は、ワインズバーグの人たちのそれよりも濃いと、はっきり主張できる?

「ワインズバーグの人々は確かに孤独で不幸かも知れないけれど、人間に無関心だったり、人間をさいなんだり、さげすんだりはしないよ」。


「ねぇ、君、こういうことば、知っている? ‘corruptio optio quae est pessima. ’ラテン語の格言。『最善のものの堕落は最悪である』。このことば、気になって何度も考えた。これって『最悪は、最善のものの高みを示す』とも言えると思わない?

「その人が最悪だと思う程度がひどければひどいほど、その人の抱いている最善はそれだけの高みを持つの。失望の深さは希望の高さの裏返しでしょ。最悪の状況は再び最善へ折り返すための契機だったりするでしょ?

「ジョージ・ウィラードにとってみすぼらしい労働者たちが住む通りでの経験は無駄ではなかったわ。「彼は、初め他者を求めつつも他者を単なる対象としてしか見られなかった。ルイーズ・トラニアンが彼に愛を求めた時、彼は彼女と一緒でもinteractiveな関係を作れなかった。彼女に求めたのはセックスだけだった。

「でも、あの通りでの経験の後、小説の最後のところで、彼はヘレン・ホワイトとともにいることで、ヘレンにも、ともに生きてきた町の人々にも尊敬の気持ちを抱き、自らの心の深みを経験できた。一刹那であったかもしれないけれど、人間的に成熟した生き方を可能にするものに触れられた。すべての人と握手をしたいと思った直後には、それがばかげた思い込みに過ぎなかったと自分にうんざりしたけれど。どんな経験でも、たとえば、その直後には滑稽でばかげたことだとさびしく、悲しく、恥ずかしく思い返される経験でも、その経験は次の高みに至る階段の一段を上ったことには、きっとなるのよ。ねぇ、君、そうは思わない?」。


 紙コップのコーヒーは冷めている。


 年が明けて、暫くして、少し遅めの、アテネ・フランセの英語のクラスの新年会があった。米吉君は大学のレポートの提出日が近いので断ろうとしたが、麦子さんは「以前コーヒーをおごってもらったから、今夜はおごる、一緒に行こう」と言ってきかない。

 新年会は山の上ホテルのバーであった。「新成人の、大学生君は、これでいいね」とサントリー・ホワイトの水割りを麦子さんが作ってくれた。


 みんな学校や会社、仕事のことを取り留めもなくしゃべった。そのうち場が雑然となり、ふと周りに人がいなくなった時、麦子さんが米吉君にいつもとは違って、小さな声で元恋人の話を始めた。繊細で正直で真理を愛し、信念の人だった、と。その頃韓国では民主化を求める激しい運動が続いており、元恋人はずっとその支援活動をしていた。ある日、彼は、唐突に麦子さんに別れを告げ、会社を辞めて韓国に渡った。米吉君は、金大中氏釈放の記事を年末に読んだことを思い出した。


「ねぇ、君、真理とか正しい思想とか正しい信念とかイデオロギーとかによって世界は、正しく変わるのかな?

「変わるように変わる、そう思わない?

「変わらないようにしても、すべては、必ず変わる。そして、変わるようにしか変わらない。冷戦の状態の、対峙するソ連とアメリカ合衆国もいつかは変わる。思いがけなく。見ていてごらん。

「何もかも、思いがけなく、変わるようにしか変わらない、そう思わない?

「それでも、人間は、それぞれに真や善や美にむかって、それぞれに坂道をのぼっていく、闘っていく、のよね。‘he became a grotesque and the truth he embraced became a falsehood. ’

「なぜ? でも、必要なことなんだよね? 人間にとって。 ねぇ、君」


「韓国からの手紙は、ないの」と麦子さんは、うなだれた。

 麦子さんがふっと顔を上に向けた。目にいっぱいの涙の、大人の女の人にかけることばを、米吉君はひとつも知らない。


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