第346話 姫巫女の傷(2)
「--あの二人は…… そしてアスルとて、昔からああだったわけでは無いのだ……」
場所はリワナグ様の執務室。突然始まって一瞬にして終わった修羅場の後、残された僕らは揃ってここへやってきた。
いつもは島主としての覇気の様なものをまとっている彼女が、弱りきった様子で少し話を聞いてくれと言うのだ。アスルも気になったけど、頷く他なかった。
彼女はぐったりと椅子に身を預け、まだ日も暮れていないと言うのに度数の高そうな酒を呷っている。
「--あのご様子、普通ではありませんでした…… 以前リワナグ様は、明るかったアスルが、何かを切っ掛けに変わってしまったとおっしゃっていましたが、それが関係しているのでしょうか……?」
そう問う僕に『白の狩人』のみんなが息を呑み、リワナグ様がゆっくりと頷く。
そして彼女は、まるで自身の罪を懺悔するかのように語り始めた。
--切っ掛けは、おそらく子供同士の些細な喧嘩だったのだと思う。
あれはアスルに物心がついた頃、十年ほど前のことだ。俺が仕事から帰ってくると、この屋敷の裏庭から我が夫、ヒミグの悲鳴が聞こえたのだ。
急いで声の元へ向かうと、そこには幼きアスルが血まみれで佇んでいた。
アスルの視線の先には、血を流しながら倒れ伏す我が長女ムティヤ、そしてムティヤに恐慌状態で縋り付くヒミグの姿もあった。
最初は何が起こったのか分からなかった。周囲に魔物や曲者の姿も見えなかったからな。
しかし、血に濡れた手を伸ばし、ムティヤに歩み寄ろうとするアスルを見て直感した。この子がやったのだと。
泣きもせず、超然とした表情でいる血濡れのアスルに、俺は空恐ろしいものを感じてしまった。
三人の間に割って入った俺は衝動的にアスルを突き飛ばし、すぐにムティヤを司祭の元へ担ぎ込んだ。
今にして思えば、アスルのあの様子もただ混乱していただけだったのだと分かる。酷いことをしてしまったものだ……
ともあれ、結果あの子は奇跡的に命を取り留め、幸いアスルの方にも怪我はなかった。
後から聞いたヒミグの話では、少し目を離している間にムティヤとアスルの喧嘩する声がしたらしい。
いつもの事かと思っていると大きな水音がして、驚いて二人の元へ戻ってみると、ムティヤが血を流して倒れていたそうだ。
おそらく、アスルはあの日、偶発的に水魔法を発現してしまったのだ。
しかも幸か不幸かあの子の才覚は、発現した瞬間に人を殺めうるほどの力を行使できる、非常に強力なものだった。
そしてあの事件以降、俺達の関係は壊れてしまった……
--我が夫ヒミグとは、政略結婚の様な形で一緒になった。あれは歌と詩を愛し、優しいが気弱な男だった。俺の戦働きの話など、顔を顰めて嫌がるほどでな……
だが、長年連れそえば子もでき、情も通う。
アスルの三つ上の姉であるムティヤは、姿も性格もヒミグに似ていた。この島を継ぐには、少し心配なほど臆病な所もあった。
アスルはやや体色は濃いものの、やはり姿はヒミグに似た。だが、性格は若い頃の俺にそっくりだった。やんちゃで手を焼いたものだ……
ヒミグは自分に良く似たムティヤを特に可愛がったが、アスルも同様に自分の子供として愛していた。
俺はどちらかというとアスルによく目をかけていたが、俺たちは家族としてうまく行っていたと思う。あの事件が起こるまでは……
事件の後、ムティヤは司祭のおかげで数日ほどで回復し、教会から屋敷へと帰ってきた。
あの子なりに謝ろうとしたのだろう。出迎えて声をかけようとするアスルを前にし、ムティヤは尋常でない悲鳴を上げた。先ほどお前達も目にしたような恐慌状態だ。
あの幼く、気弱な子が、死にかけるほどの目に遭ったのだ。無理もないだろうが、あの子の心の傷は十年経った今でも癒えていない。
ムティヤは引きこもりがちになり、常に怯えたような様子で暮らすようになった。
そんなムティヤの様子を目にしたヒミグは、事件を引き起こしたアスルを、まるで得体のしれない化け物であるかのように扱い始めた。
ムティヤだけに自分の子として愛情を注ぎ、アスルの事は嫌悪して遠ざけたのだ。
あれだけ自身に似ているというのに、もはやヒミグはアスルを自分の子供とは思っていまい。
一時など、伝説の海の悪魔、暴食不知魚と私がまぐわって生まれたのがアスルだなどと言い出してな……
ヒミグとは長く連れ添っているが、夫婦喧嘩のようなものをしたのはあの時だけだ。
そして、よく笑うやんちゃな子供だったアスルは、あの事件以来ほとんど感情を見せず、人との関わりを断つようになってしまった。
なんとかしたかったが、俺もアスルに負い目があり、関わり方が分からぬまま時間だけが過ぎていった……
そして数年程前、アスルが突然軍の仕事を手伝いたいと言い出した。島を守る手伝いがしたいと。
--最初は反対したのだ。才はあってもまだ幼すぎると。だが、あの子の意思は堅かったし、家に閉じこもるよりは健全だろうと、手練れを護衛につけて警備の仕事を手伝わせてみた。
するとあの子はあっという間に実力をつけ、もはや護衛は足手纏いになる程の使い手に成長した。
軍の仕事に従事して力を強め、海神の巫女となったことで、人を遠ざけてしまう弊害はあったが、アスルはやり甲斐を感じているようだった。
マニルが奉公に来てくれた事も大きい。最近になって俺とアスルの関係は、普通に話ができるほどには改善していた。
そして、お前達が来た。ほんの一月半で、アスルはこれまでと比べ物にならないほど明るくなった。
島の連中も、そんなアスルに畏怖よりも親しみを覚え始めているようだ。全てお前達のおかげだ。本当に感謝している。
--これならば、俺達はまた家族に戻れるかもしれない。そう思い、ヒミグとムティヤに少しづつアスルの話をし始めていた矢先だった……
今日、俺達は再びアスルを傷つけてしまった。ヒミグは拒絶し、ムティヤは恐怖し、俺は何もできなかった。
アスルは自分なりに道を見つけ始めていたというのに、俺達は十年もの間ただ足踏みをしていただけだ……!
為政者として、俺はこの島を上手く治めてきたつもりだ。だが、母親としては失格だったようだ……
長い独白を終え、リワナグ様は再び酒を煽った。窓から差し込む夕日が彼女の苦悩に満ちた横顔を照らし出している。
「--リワナグ様。僕は、こうしてアスルの事を案じるあなたが、母親失格だとは思いません。
ヒミグ様も、ムティヤ様も、もちろんアスルだって、誰も悪く無かった…… ただ、巡り合わせが悪かったんです。
その、僕らが帰ってくる時節は悪かったですが……」
「ふふっ、そうかもしれんな。だが、最後のについては気にするな。お前達に非はない。
しかし、末の娘が頑張っているというのに、いい大人である俺達はいつまでも足を止めたまま…… 全く、情けない限りだ。
いや…… つまらん話を聞かせてしまったな。ああなってしまっては、アスルはしばらくは誰とも会わん。
だがあの子は強い。必ずまた立ち上がる。その時は、以前と同じように接してやってくれ」
「はい、それは勿論ですが……」
暫くしたら必ずまた立ち上がる、か。確かにアスルならそうするだろう。
でもそれまでの間、彼女は自分の過去と現在の家族関係に、一人で向き合うことになる。
ムティヤ様も確かに同情されるべき体験をしているけど、彼女はもう成人しているし、常に味方であるヒミグ様が側にあった。
だが、アスルは……?
「--姉と、父との関係か…… 私も非常に悩み、長年克服できずにいた。タツヒトのお陰で今では乗り越えることができたが……」
「僕は今だに家族を許す事はできません。タツヒトさん達と出会って苦境から抜け出すことができましたが、多分、死ぬまで彼女達への恨みは消えないでしょう…… あ…… す、すみません!」
「いや、構わん。家族の在り方、乗り越え方に、答えなど無いのだろう……」
ヴァイオレット様とプルーナさんの言葉に、リワナグ様は鷹揚に頷いた。
「タツヒト。シャム達は、アスルのために何か出来ないのでありますか……? シャムが困っていると、いつもタツヒト達が助けてくれたであります。シャムも、アスルを助けたいであります……」
眉をハの字にしたシャムの言葉に、ハッとさせられる。そうだ。僕は何を遠慮していたんだ。
アスルは僕らの仲間だ。一人で立ち直るのを待たずに、余計なお世話で無理やりにでも助けたっていいはずだ。僕ら『白の狩人』は、いつだってそうして来たのだから。
だがどうやって元気づけよう。根本的な問題である、ヒミグ様とムティヤ様との確執は、一朝一夕に改善できる事じゃない。
考えを巡らせる内、僕の脳裏にある光景が浮かんだ。この島に来た時、リワナグ様とアスルに歓迎の宴を開いてもらった時の情景だ。
あの食卓を囲んでいる間は、誰もが孤独ではなく、おしゃべりや食事を楽しんでいた。
……うん。やっぱりこれだな。しかし、僕が人を元気づける方法として思いつくものって毎回一緒だな。もう少し人生経験を積む必要がありそうだ。さておき。
「シャム…… そうだね。みんなでアスルを元気づけよう。 --あの、リワナグ様。厨房をお借りしてもいいですか?」
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