■1■ 泉での出会い
国に伝わる伝説の騎士に憧れた、幼少の頃。
ささやかな幸せが続くことを、ルシアは望んだ。
騎士になる約束を交わしたその日。
漠然とした夢は、二人の目標になった。
──これは、一つの戦争の記録──
──そして、二人の少女の物語──
朝の太陽が昇る頃、今日も中央広場には一人の少女がいた。背中まで伸びた紅の髪がさらさらと揺れる。教会の泉を中心とした中央広場には、朝早くから右から左へ、左から右へ、仕事に向かう大人が通り過ぎていく。その中で一人、泉をぐるりと囲む石造りの囲いの縁に、その少女は腰掛けていた。紺色の半ズボンに白いシャツ、というボーイッシュな格好で足を遊ばせている。
「ヘレナ・ランカスター……」
少女は泉の側にある像を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。この国を、そしてこの平和を打ち立てた一人の王と、一人の女騎士の伝説。ヘレナ・ランカスターというのは、その騎士の名前だった。その功績を称えられ、中央広場にはその女騎士の石像が安置されている。物心ついた頃から、何度も両親に聞かされた建国の話──それを聞くたびに、少女は憧れの念を強くしていったのだった。
「私も、ヘレナみたいな強い騎士になれたらなぁ……」
少女の名前はルシア。鮮やかな紅の髪を水面に映し、自分が生まれるよりずっと前の伝説に憧れる、ごく普通の八歳の子供だった。ふわり、と風が吹き、少女の髪をゆらして水面を撫でていく。こうして今日も、この町の──ルシアの一日が始まる。
ルシアの両親は貿易業を営んでいた。国の南側そして東側が海に面したこのブルーメ国において、諸国と陸路・海路での交易を行っている。
「ルシア嬢、その帳簿を旦那様の所まで持って行っておくれ」
「はいっ!」
丸眼鏡をかけた初老の婦人に頼まれ、ルシアはテッテッテッと小走りで帳簿を運んでいく。大きな家の中、ルシアは主に雑用係、小間使いとして日々家の手伝いをしていた。
「お父様、ルシアです!」
とある部屋の前で立ち止まり、トントントン、とドアを叩くと「入りなさい」という優しい声が返ってくる。ルシアがゆっくりとドアを開けると、中にはよく手入れされた髭を持つ紳士風の男がゆったりと椅子に座っていた。ルシアの父親である。立派な横長のテーブルには、読みかけの新聞が置いてあった。
「秘書さんから、帳簿を届けるように言われました」
ルシアが言うと、男は軽く笑みを浮かべる。ルシアはてくてくと部屋に入り、ぐるっと机を回って父親の目の前に行くと、帳簿をすっと差し出した。
「ご苦労様、ありがとう。ふむ……モント国との塩の取引帳簿か」
ルシアには何のことだか分からなかったが、モント国というのがすぐ北にある同盟国だということは知っていた。
「頑張って、お父様! 私も、お手伝い頑張るから!」
ルシアはキラキラとした目で父親を見上げた。
「ははっ、ありがとう」
父親はそっと帳簿を引き出しにしまうと、ルシアの頭を撫でた。
「さ、また向こうで頑張っておいで」
「うんっ」
もうしばらく撫でていてほしい気持ちを胸の奥に押しやって、ルシアはドアへ向かった。
「また、後で来るから!」
ルシアが言うと、父親はゆっくりと手を振った。ルシアも手で小さくバイバイをしてから、そっとドアを閉めた。
夕暮れが迫る頃、再びルシアは中央広場の泉へ向かう。この時間の広場は、一日も終わりに近いこともあって、少し疲れた顔の大人があちこちにいた。仕事に向かう朝と違い、ある者は家路を急ぎ、ある者は小休止し、ある者は夕日を眺めてぼんやりしている。ゆったりとした時間が流れていた。
「綺麗な人だったんだろうな……」
この時間のヘレナ像は夕日の色に染まり、まるで本当に生きているかのように見えた。燃え盛る火を宿したかのような凛々しい目、悠然と空の彼方を見守る姿からは、町を守る力強さ、そして人々に対する慈愛の念が感じられた。ルシアがしばらく見つめていると、ふと像を挟んだ反対側に人がいる気配を感じた。
「……誰?」
思わず声を出し、ルシアはさっと反対側に回り込む。
「あっ……」
声を出したのはどちらだったか……ルシアの目に飛び込んできたのは、明らかに貴族の娘と分かる服装をした、同い年くらいの三つ編みの少女だった。一瞬、目を見開いてお互いを見詰め合う。茜色に染まった瞳はゆらゆらと揺らぎ、その彼方にルシア自身が映っている。幼さを残した目元は優しさを帯び、長い睫毛が瞳の下に小さな影を落としていた。水色と白を基調にしたフリルの服も朱く染まり、栗色の髪がゆったりと胸の前に垂れている。女の子なら誰でも見とれてしまうような、お人形のような子──それが、ルシアがその少女に抱いた第一印象だった。
「……あなたは?」
最初に口を開いたのはその少女だった。まるで天から語り掛けられているかのような、綺麗で澄んだ声。ルシアの胸の鼓動がどんどん速く、高くなっていく。
「あっ……えっと……」
ルシアは我に返ってパチパチと瞬きをする。しかし、ルシアの思考は停止して、すぐに返事をすることができなかった。
「わたしはリムネッタ・フォン・スタンドーラ。あなたの名前を教えて?」
そのリムネッタという少女は、一つ一つ、丁寧に言葉を紡いだ。
「あっ、私、ルシア……ルシア・イルバスター。この先の、貿易商のお家に住んでるの!」
無意識に視線を逸らし、ルシアの口から出たのは、そんなありきたりな自己紹介だった。人差し指で遠くにある自分の家を指し示す。
「えっと、君、リムネッタっていうんだ……素敵な名前!」
ルシアが言うと、リムネッタと名乗った少女は、少し恥ずかしそうに目を伏せた。リムネッタの頬は少し上気していたが、夕日の色に紛れてルシアは気づかなかった。
「あの……」
リムネッタが口を開いた時、不意に教会の鐘の音が鳴り響く。一日の終わりを知らせる教会の鐘の音だった。
「あっ……今日はもう帰らないと。ねぇ、また明日、ここに来る?」
「……うん」
ルシアが尋ねると、リムネッタは少し間をおいて、こくりと小さく頷いた。
「今日はもうお別れだけど、私、明日もまたここに来るから」
リムネッタも必ず来てね、という言葉を言外に含めつつ、ルシアは言った。後ろ手に組んで小さく前傾姿勢をとると、ちょこんと一歩、後ろに下がる。リムネッタはそんなルシアを見て、微かに微笑んだ。
「それじゃあね、リムネッタ!」
くるっと背を向け、ルシアが大きく手を振る。それに対して、リムネッタも小さく手を振り返した。
「リムネッタ……」
家に向かう途中、ルシアはさっき会った少女の名前を口にする。まるでお人形のような綺麗な少女の姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
「お友達に、なれるといいな♪」
そうつぶやくルシアの顔には、自然と笑みがこぼれていた。