4、俺の気持ちも知らないくせに
重厚な音楽が流れる、華やかな室内で――
多くの羨望の眼差しを受けながら、セオドアは愛しのアレクサンドラと踊っていた。
手を取り、腰を支え。
くるくると、何度も回って。
「楽しいね、アリー」
自分がそう言えば、いつも彼女は微笑み――
「アリー……どうしたの?」
期待とは裏腹に、アレクサンドラは悲壮な表情を見せていた。
正確なダンスの動きは止めず、ただただ涙を流し続けていて。
「ねえ、どうしたの」
そんな顔を見たことがなくて、見たくもなくて。
アレクサンドラが心配で、ダンスを止めようとしても。
なぜか彼女は踊り続けていた。
くるくる、くるくると、彼女は回る。
気付けば、自分は違う令嬢の手を握っていて。
いつも見ていた、青い瞳は、そこには無く――
相手は黒目がちの瞳を細め、感情の読み取れない微笑みを見せていた。
「殿下、不適格です」
「うああああっ!」
気付けば、自室の寝台の上にいて。
汗だくになっている事に、セオドアは気が付いた。
(お、俺……また夢で……)
忌まわしきソフィア・バートレットとの顔合わせから数日――
セオドアは、毎日のように悪夢に魘されていた。
アレクサンドラと経験したかったダンスや観劇……全ての場面が、何故かソフィアに代わっていて。
いつも彼女は『不適格』と囁くのだ。
(本当に最悪だよ……)
図書館から王宮に帰り、父に抗議しても彼の意向は変わらなかった。
『あんなおかしい奴といたら、こっちまでおかしくなる』と訴えても、『元々おかしかった』と素っ気ない返事。
しかも、『今のままではアレクサンドラ嬢とは会えない』と明言される始末。
アレクサンドラ恋しさに愚痴を零せば、傍にいる従者からは『お見合いをしたのに、他の女性の話をするなんて、不適格ですよ』と窘められて。
セオドアの鬱憤は溜まりに溜まっていた。
次の訪問は少し先になる為、セオドアは執務に取り組んで時間を潰すしかなかった。
自分としては連日のように通って、いち早く終わらせたい所存ではあるが――
『お互いの職務に差し障るような面会は不適格』と返されたのだ。
(本当に嫌な奴だよ。アリーは、いつでも会ってくれたのに……)
欝々とした気持ちで、書類を確認していく。
謹慎が解けたセオドアは、簡単な書類整理を命じられていた。
自室と王太子である長兄の執務室を往復し、時間は遅々として進む。
数日後の昼下がり、ようやく訪問の日を迎えた。
(やっとだよ)
早足で用意された馬車へと向かい――わざと歩みを緩める。
(これじゃあ、俺があの子に会いたがってるみたいじゃん)
「殿下」
王宮へ出る前、セオドアは後ろから呼び止められた。
振り向けば、銀縁の眼鏡をかけた青年が立っていた。
「ああ、テレンスか……久しぶり」
セオドアは、自分の側近候補の名前を呼ぶ。
テレンス・フェネリーは侯爵家の嫡男で、幼い頃から父親に連れられて王宮に来ていた。
彼がセオドアと親しくなったのは、幼き頃の茶会がきっかけだった。
小さい女の子を揶揄っていたテレンスを、セオドアが殴り飛ばした事がある。
その後、何故か彼はセオドアの側近候補に志願したらしく、それなりの関係を築いていた。
近頃は、アレクサンドラとの愛を深める事に忙しく、二人で話す機会が無かったが。
「殿下、ソフィア・バートレットと婚約するというのは本当ですか?」
抑揚の乏しく、張りの無い声――表情もいつも通り不愛想で、ソフィアとは違う意味で感情が読み取れない。
「誰が言ったの、そんな事……困ったなぁ。あの子とは見合いだけ。絶対に婚約しないから」
「そうですか」
セオドアの、不快さを隠さない返答に、テレンスは僅かに息を吐く。
その様子に、彼が安堵している事が感じられた。
(俺がアリーと離れている事を心配してくれてたのかな? まあ、俺達お似合いだもんね)
側近候補の労わりに、少し心が癒された。
テレンスはまだ何か言いたそうであったが――
「殿下、時間が」
従者に声を掛けられたので、渋々と足を動かす事にした。
「じゃ、俺は行かなきゃ」
「殿下」
追いすがるような目線を振り切って、セオドアは馬車へと向かった。
今日の馬車は、王家の紋章など掲げていない地味な外見で。
王族が私的に利用するものだった。
造りは頑丈で、中の快適性も問題なし。
(あーあ、やっぱり嫌だなぁ)
馬車に揺られながら以前の面談を思い出し、気持ちが落ち着かない。
以前とは違って、他の者が道を空けてくれないから、馬車の進みはゆっくりで。
御者が時々振り返り、しきりに謝罪を繰り返すが、セオドアは特に気にならなかった。
(アリーの時は急いでもらってたけれど、あの子なら別にいいしさ)
それでも、自分が思っていたよりは早く、図書館に到着したようだ。
馬車から降りると、見覚えのある白壁の建物が目に入った。
「申し訳ありませんが、今後は此方で待機させていただきます」
馬車が止まった場所は、以前のように図書館の前ではなく、少し手前の広場。
セオドアは従者と共に、目的地へと歩き出した。
王家の馬車で堂々と乗り付けていい日を選ぶと、数十日毎の休館日を待たなければいけないらしく、この方法を取ることにした。
バートレット伯爵も王都に邸宅を持っているが、そこに訪問する事は、セオドアが全力で拒否した。
(本当に婚約するみたいになっちゃうから、絶対に嫌だ)
出入りする人々とすれ違いながら、図書館の中へと入る。
『お忍び』という行為をしたことがないセオドアにとって、新鮮な体験だった。
(やっぱり……ここは好きになれない)
目に飛び込んでくる文字の洪水が、気分を滅入らせた。
なるべく本棚から目を逸らし、受付まで足早に進む。
「ソフィア・バートレットと約束しているんだけど」
受付には見慣れぬ者達しかいなかったが、事情は聴いているようで、速やかに案内してくれた。
鍵付きの扉を開けて、階段を上り、奥へと――
扉の向こうには、夢にまで見た、忌むべき存在が。
髪を一つに束ねた、ソフィアが、以前と同じように立っていた。
今日は渋茶色のドレスを着ていて、見るだけで気分を滅入らせる。
(やっぱり、華が無いよね)
思い出すのは、やっぱりアレクサンドラの姿。
自分の瞳の色のドレスを頻繁に贈っていたが、どれもよく似合っていた。
(この子も似合いそうだけど)
もう少し、明るいドレスを着れば、少しは見栄えも良く――想像して、やめた。
彼女に、自分の瞳の色を纏わせるなんて、絶対にない未来だった。
「御機嫌よう、セオドア殿下」
そんな彼の内心を知らぬソフィアは、以前と変わらない挨拶をする。
お手本通りの笑みに、お手本通りのお辞儀。
(やっぱり、好きになれない)
「久し振り」
セオドアも、事務的に返答した。
「どうぞ、お掛けください」
「ありがと」
勧められた椅子に座る。
目の前の机には、悍ましき量の本の山――ではなく、茶器類と菓子の皿。
本の山は、ソフィアの隣で存在を主張していた。
「本日は、よろしくお願い致しますね」
「ああ、うん」
(どんな難しい話をされるんだろう)
些か緊張した気持ちで、まずは喉を潤した。
「もうすぐ豊穣祭ですね」
「そうだね」
「今年の選評会には、殿下も参加されるとお聞きしましたが」
「うん。兄上からの引継ぎだね。俺は表彰状を渡すだけだけど」
身構えていた自分が馬鹿なんじゃないかと思うぐらいに、ソフィアとの会話は滞りなく進んでいた。
彼女は本を開くことなく、当たり障りのない話題をセオドアに振る。
(何だ、これくらい楽勝じゃん)
セオドアの気持ちも些か緩み始めていた。
公務や王宮での行事から、セオドア自身の話へと、話題は移る。
「殿下の好きな色は?」
「夏空のような青色」
これは、ずっと変わらない。
「アリーの色だからね」
アレクサンドラと出会った時から、セオドアは彼女の美しい瞳の色が大好きだった。
チーフやカフスボタン、硝子ペンなど、出来る限り彼女の色の小物を取り寄せている。
「殿下」
(あ、やっちゃった)
その一言で、セオドアは、自分の失言を反省した。
凪いだ瞳で、彼女は此方を見ている。
カップを置いて、右手の人差し指をぴんと立てて。
「不適格、ですよ」
微笑みを絶やさず、そう告げた。
(あーあ。これまでは上手くいってたのに)
王宮でも言われていた言葉を思い出す。
他の女性の名前を出すのは、礼儀に反すると。
「はいはい、ごめんなさい」
(でも、君の瞳より、アリーの方がきれいなのは当然だし)
仕方なしに、頭を下げて――
「殿下とアレクサンドラ・ブレイズ様の婚約は解消されています。縁の無い女性を愛称で呼ぶなど、お相手を貶める行為ですよ」
けれど、彼女の指摘は、はるかに残酷で。
「何でそんな事言うのさ!」
セオドアは思わず立ち上がっていた。
「お前に何でそんな事言われなきゃいけないの!」
「殿下」
周囲に控えていた者達が、慌てた様子で近付くのが見える。
でも、ソフィアは動じることなくセオドアを見上げていて、それが腹立たしい。
(縁の無い女性ってなんだよ……何も知らないくせにっ)
セオドアにとって、アレクサンドラとの絆は、命よりも大切な物。
他人に否定されたことが、悔しかった。
「お前が勝手に決めるな! 俺とアレクサンドラの関係を!」
「ええ、私は決めておりません」
いくらセオドアが声を荒げようと、ソフィアは憎らしいほどに冷静で。
「陛下と……先方が決めた事です」
ブレイズ公爵側を先方と濁したことは、彼女なりの慈悲だろうか。
しかし、セオドアの怒りは収まらなかった
「僕たちは決めてない! アリーだって!」
アリーは、自分が反省すれば、また婚約を結び直してくれる――セオドアはそう信じていた。
「殿下、不適格ですよ」
しかし、ソフィアも折れない。
(なんでそんなに強情なの!? 僕たちの愛を否定してごめんなさいって謝ればいいだけじゃん!)
怒りのやり場がないセオドアは、内心でソフィアに責任を押し付けていた。
「何が不適格なのさ! 何も知らないくせに!」
「私は法律を知っています」
「……は?」
ここで『あなたの気持ちはよくわかります』なんて薄っぺらい言葉を掛けられたら、カップの中身をぶちまける所だった。
しかし、予想だにしない返答を聞かされて、セオドアの思考は停止する。
すっかり冷めたお茶たちを脇に寄せ、ソフィアが本を置く。
分厚い本は見た目通りの重量らしく、ずしりと音を立てた。
(え……何?)
突然の事に毒気を抜かれたセオドアは、本に視線をやった。
表紙には『王国法典入門』の表題。
(子どもの頃、読まされたけど……)
大まかな法律を諳んじられるまで、何度も読まされた記憶が蘇る。
ソフィアは相手の反応など気にせずに、何回か捲り、本を開く。
彼女は、その中のある個所を指差した。
「この欄は、王国における婚約と婚姻……特に、王族の婚約についての条項が記されています。いいですか?」
「……う、うん」
彼女の眼差しに無言の圧力を感じた為、セオドアは座る。
(それは、聞いたことある、気がするけど)
「王族の婚約は、王家と婚家の合意の他、国の現状を鑑みて三大公爵家の審議の元に承認されます」
「う、うん」
「それは、当人――特に弱い立場に当たる者の権利、王族の血統や国力の保護の為に取り決められた法で、百年以上前に定められています」
「……うん」
「ですので、締結のみならず、破棄や解消に至る場合も、こちらが適用されます・・・・・・ここまではお分かりですか?」
「……うん」
「殿下とアレクサンドラ・ブレイズ様の婚約は、王家側の問題で解消となり、承認されています。これは、ゆるぎない事実です」
(分かっているけど……いるけどさぁ……)
アレクサンドラとは無関係という事実を、法律の観点から示されて、セオドアは何も反論できなかった。
「殿下が、アレクサンドラ様を愛称で呼ぶには、再び婚約を結び、先方から了承をいただく事が必要となります」
ソフィアはそこまで語ると、本から指を離し、茶を一口飲む。
論説を終えた彼女は、晴れ晴れとした笑顔を見せていた。
「お判りいただけましたか?」
再度、穏やかな微笑みを取り戻し、セオドアに向き直る。
感情では納得できないが、論理を突きつけられては、頷くしかなかった。
「うん、分かった……アリーの事は我慢する」
いくら抗おうとも、自分とアレクサンドラの絆が断ち切れた事実は変わりなくて。
今は耐える必要がある事は理解できた。
「もう分かったから……」
(もうやだ。今日は、もう帰ろ……)
意気消沈したセオドアは立ち上がり――
「いえ、まだ殿下は分かっておりません」
「えっ」
『王国法典入門』を片付けて、今度は違う本がセオドアの前に乗せられた。
(……『王国地方の逸話集?』)
色褪せた本は、セオドアも知らない表題であった。
ソフィアは相手の反応など気にせずに、何回か捲り、本を開く。
彼女は、その中のある個所を指差した。
「今から百五十年前、辺境が力を持っていた頃の逸話です」
(え、何でそんな話まで)
「当時の辺境を治めていた領主様が、国境付近の貴族達を宴に招いたそうです」
セオドアの疑問など、ソフィアは慮らない。
「領主様の奥方と、ある貴族は幼馴染で、愛称で呼び合っていたそうです」
「ですが、それを聞いた領主様は奥方の不貞を疑い、奥方は自害されました。それがきっかけとなり、国は荒れたのです」
「え、愛称で?」
「ですから、殿下の軽率な一言で、国が荒れる可能性があるのです」
「……愛称で?」
「納得していただけませんか……呼び方で歴史が変わった逸話なら他にも……」
(何で……こうなったの?)
セオドアの困惑を余所に、彼女は次々と本を開いていく。
歴史や民俗学に飽き足らず、医学や経済に至るまで――
セオドアが『アレクサンドラ嬢』と呼べるまで、彼女の論説は止まらなかった。