3、最悪だよ
「はぁ……」
セオドア・ヘクターは、今日何度目かの溜め息を吐いた。
おそらく、両手両足の指でも数えきれないとは自覚している。
「いやだなぁ……行きたくないなぁ……はぁ……」
王宮から馬車に乗り、東の方へ――
そこは、学校や商会など貴賤を問わず出入りできる施設が並ぶ区画。
彼の目指す場所は、その中に位置する『王立図書館』であった。
「図書館の司書、かぁ……どんな子なんだろう」
先日、父である国王から命じられた見合いの相手が、『王立図書館』に関わる人間らしく、セオドアは面談の為に向かっていた。
「ソフィア様はバートレット伯爵家の一族だけあって優秀で、聡明な令嬢だと聞き及んでいます」
馬車に同乗していた従者が答える。
壮年の男は長らく王家に仕えている人物で、長兄から貸し出された形でセオドアに付いている。
彼から訪問をする時の礼儀などをみっちりと仕込まれて、セオドアはこの日に至った。
(もう十分勉強した気がするけど……わざわざ結婚したくない相手と見合いする必要あるのかな?)
父や姉の言う『政略結婚を教えてもらう相手』という存在に、セオドアは未だ疑問を持っていた。
「バートレット伯爵家は有名なのは知っているけどさ……」
『本の虫』『活字中毒』『乱読家』
バートレット伯爵家の話題になれば、誰もがそのような単語を口にする。
活版や製本の技術が珍しかった昔から、彼等は総じて無類の本好きであった。
本の収集や作成に手を出して、いつしか蔵書は膨れ上がり、領地と王都にそれぞれ図書館を築くに至った。
その為か、一族の者は総じて聡く、また、領民達の識字率も高い。
歴史的価値の高い資料も保管されている図書館は、いつしか王族も支援するまでに至った場所である。
セオドアの元に届いた身上書にも、バートレット伯爵令嬢の優秀さは記されていた。
『学力は誰それの元で学び、礼儀作法はどこぞの夫人のお墨付き。王立図書館での勤務態度は問題なし。趣味は読書』
謹慎中の暇つぶしに呼んだ内容は、ごくごく普通でありきたりであった。
(アリーの身上書は、もっと立派な事が書いてあった気がしたけれど)
勢いでセオドアがアレクサンドラに結婚を申し込んだ後、お見合いの場が整えられ、身上書を交換した事があった。
その時はアレクサンドラの可愛さに夢中で、長々と連ねられた経歴や実績など気に留めなかったのだ。
(そうだ、その子の絵姿もあったけど……あんまりぱっとしなかったなぁ)
アレクサンドラとの時と違い、ソフィア・バートレット嬢の絵姿も添えられていた。
金髪で細身である事は分かったが、セオドアにとっては『アリー以外の令嬢』でしかない。
(アリーは何してるんだろ……早く終わらせて、今日に会いに行けるかなぁ……)
「到着しますよ」
あれやこれやと唸りながら思案にくれるセオドアを見守っていた従者が、口を開く。
気付けば、馬車の速度はゆっくりと落ちていき……やがて停止した。
「着いたの?」
そっと窓の外を覗いてみれば、やたら大きな建造物が近くに見える。
噂に聞く、王立図書館の姿であった。
(俺、来た事無いんだよね……アリーはよく通っていたらしいんだけど)
アレクサンドラは本が好きで、私室にいつも本が積まれていた。
図書館に行く時に、自分も付き添いを希望したが、結局、彼女は本を取り寄せていたように思う。
王家の馬車が来ても問題ないように、訪問日は『館内整理のための休館日』を指定された。
その為か、周囲に人の姿は無い。
自分達の到着を待っていたらしく、中から誰かが出てくる姿が確認できたため、従者と共に馬車を降りた。
「これはセオドア殿下……まさか、本当に……いやはや、ご足労掛けて申し訳ありません」
小柄な、壮年の男は、セオドアを前に落ち着かない様子であった。
額の汗をしきりに拭い、視線はあちこちを彷徨って。
(誰だっけ……?)
王宮で見た記憶があるような、無いような。
「クリフト・バードレット殿です」
従者の囁きに、合点がいった。
バートレット伯爵家の当主で、件の御令嬢の父君――彼も無類の活字中毒だと噂は聞いている。
そして、人付き合いや社交が不得手だとも。
「伯爵殿、今日はよろしく……それで令嬢は何処に?」
主導権を握って、さっさと面談を済ませてしまおう――そんな打算の元に、伯爵へ声を掛ける。
その言葉を聞いて、相手は軽く目を見開いていた。
「いや、本当に、お会いになるのですか?」
「……そうだけど」
セオドアを見つめ、従者の方を見て――何かを悟ったように、大きく頷く。
「そうですか、そうですか……では、ご案内いたします」
(……何か変な感じ。会わせたくない理由でもあるの?)
くるりと身を翻し、先を行く伯爵に不審さを感じながらも、セオドアは後に従った。
黒い木製の扉の向こうには、未知の光景が広がっていた。
セオドアよりも背の高い本棚が規則正しく並び、大きな硝子窓から柔らかな日差しを受けている。
所々に様々な形の椅子や机が配置されており、好きな姿勢で本を読むことができるようだ。
壁面や高い天井には繊細な彫刻が施されているが、余分な装飾を排除し、可能な限り本を詰め込んだような空間であった。
「うわぁ……」
父たちの書斎や王宮の図書室よりもはるかに多い蔵書の数に、ただただ圧倒される。
色とりどりの背表紙やあらゆる国の言語で書かれた表題を見ているだけで、頭が痛くなった。
「一階は誰でも利用できます。保管には適さない環境ですが、自由に読書を楽しむ場所を目指しておりまして……」
本棚の隙間を縫うようにして進み、小さな扉の前へと。
「ここからは、関係者のみが入れる場所なのです」
厳重そうな鍵を開けた扉の先には、大きな階段が待ち構えていた。
「地下は、古い書籍を保管しているだけです」
それだけを言うと、伯爵は二階へと足を進めた。
「どうぞ、こちらへ」
控えめだが、品のいい絵画や調度品が飾られた廊下を進む。
幾つか扉を通り過ぎて、一際立派な扉の前に到着した。
「娘はここにおりますので」
控えていた使用人が扉を開ける。
王宮のものと遜色ない、上質な家具が置かれた部屋だった。
背の低い机と、柔らかそうな椅子があり、その前に佇む人物がいた。
すらりと背が高く、細身の体形。
淡い金色の髪を一つに束ね、青いリボンを結んでいる。
身に纏う紺色のドレスも装飾が無く、王宮の使用人達と遜色ないぐらいの質素さで。
件の令嬢と思しき人物は、黒い切れ長の瞳でこちらを見つめ、穏やかに微笑んでいた。
(絵姿と変わらないけど……やっぱりぱっとしないなぁ)
いつもアレクサンドラの華美な装いを見ていたセオドアからすれば、ひどく地味に見えた。
「御機嫌よう、セオドア殿下」
低く、落ち着いた声が耳に届く。
そのまま礼を執るが――
(やっぱり、アリーの方が何倍も上だ)
令嬢らしき澄まし顔も、よく躾けられたカーテシーも、アレクサンドラと比べると冴えないと思う。
(こんな子とお見合いしても、何の意味も無いよ)
セオドアは、そう判断した。
自分と目線が変わらない彼女を見つめ、軽く手を振った。
「君に興味はないからさ。話があるなら早く済ませて」
後ろで嘆息する声が聞こえたが、セオドアは特に気にならなかった。
(アリーの代わりにもならないよ。どうして、父上はこんなのを紹介したんだろう)
別に、怒って帰っても構わない――そんな気持ちで声を掛けたが。
セオドアの予想とは裏腹に、彼女は表情一つ変えない。
右手の人差し指をぴんと立て、小さく口を開いた。
「殿下、不適格です」
(……はぁ?)
穏やかで、優しささえ感じる口調で放たれた言葉に、セオドアは何も言い返せなかった。
(不適格ってどういう事? 何でこいつに偉そうに言われなきゃいけないの?)
王宮の教育係にでさえ、このような言葉を使われたことはない。
初対面の――しかも伯爵家の令嬢に、面と向かって批判されたことに、セオドアは内心憤慨していた。
しかし、彼女の主張も分からなくもない。
自分の態度は、おそらく王命で呼ばれただろう令嬢に対して『不適格』だ。
労いや感謝の言葉を貰って当然のはず、と思っているのだろう。
「おおおお前、何という事を!」
セオドアよりも先に声を上げたのは、バートレット伯爵であった。
「申し訳ございません、娘は、突然の王命に混乱しているだけで、どうか、他意は無いんです! なにとぞ、なにとぞ命だけは!」
「いや、べつに、そこまでは……」
這いつくばるようにして倒れ込み、何度も頭を上げ下げする姿を見せられて、怒りのやり場を失ってしまう。
「ほら、お前も謝らんか!」
「ですが、お父様」
伯爵を鷹揚に見下ろしながら、令嬢は微笑みを崩さなかった。
「『セオドア殿下に、政略結婚を教えてほしい』という王命を承ったのですから。陛下の言葉を蔑ろにしてはいけませんよ」
「それにしても、やり方があるだろう!」
「やり方、と言いましても……」
その時になって、初めて、頬に片手を当てて困ったような表情を見せる。
その仕草は、セオドアにはわざとらしく映った。
(アリーは困った顔も本当に可愛かったのに……)
「結婚を前提としない政略結婚なんて、何をお教えしたらいいのか……」
さほど困っている口調には聞こえなかったが、彼女の主張は理解できた。
(本当だよ。この子に何ができるのさ)
彼女が無理だというなら、これ以上、自分も時間を浪費することはないだろう――セオドアはそう結論付けた。
(適当に話を合わせて、政略結婚が分かった事にしておけばいいよ。早く父上の所に行って……)
この場を切り上げようとセオドアが口を開こうとするが――
「ですので、私、頑張りました」
「はぁ?」
(頑張るって、何を?)
令嬢が僅かに体を横へずらす。
今まで気にしていなかったが、後ろの机には本が積まれていた。
(え、何これ)
客人を迎えるには、それこそ『不適格』な状態であるが、彼女は敢えて見せたいらしい。
(……うわぁ)
数冊、ではなく、何十冊――机の端から端まで本の山が形成されている状態に、セオドアは目を剥いた。
「父から仔細を聞いて、十日もありませんでしたが……出来る限りの知識は得たと思います」
表題を見ると、歴史や法律、神話、心理学、恋愛小説と種類は様々。
(十日足らずで、これ、読んだの?)
セオドアでは、一冊も読み切れないだろう。
「私、出来る限りの事をお教えしますので。殿下、頑張りましょうね」
彼女の瞳は真っ直ぐにセオドアを見つめていた。
「それでは、やり直しましょうか」
呆気に取られて何も言えないセオドアも。
立ち上がる事を忘れ、口を大きく開けて娘を見る伯爵も。
まるで気にしていないように、彼女は微笑む。
「私は、ソフィア・バートレットと申します。以後お見知りおきを」
そして、再び、彼女は礼を執った。
(こんなのを相手にしなきゃいけないの?)
アレクサンドラ以外の……しかも、自分に対して不遜な態度を取る令嬢を前に、セオドアは呆然としていた。
積まれた本から察するに、数日やそこらでは終わらないだろう。
思わず、逃げ出したくなったが。
「殿下。これは、ソフィア嬢への王命であると同時に、殿下への王命でもありますので」
今まで存在を忘れていた従者の囁きで、現実を突きつけられる。
「……最悪だよ」
アレクサンドラとの再会は、まだまだ先らしい――
絶望するセオドアの耳に、「不適格です」という声が響いた。