2、離れたくない
セオドア・ヘクターは、国王夫妻の第六子である。
既に二人の兄と三人の姉がいた王子は、家族に可愛がられ、大切に育てられた。
王族としての教育もゆっくりと進められ、その為か、年の割には幼い部分が見受けられる。
表立って言われはしないが、浅慮で直情的と表現されるような落ち着きの無さは、一部から心配されていた。
『令嬢を揶揄っている令息達を撃退した』『仔馬を見るために厩舎に忍び込んで母馬に蹴られかけた』等、世話係の肝を冷やす事態も幾つか。
ただ、セオドアは愚かではない。
十六になるまでは、未熟ながらも正義感と倫理観を養い、王族に相応しい振る舞いを模索し、行動していた。
――だからこそ、父である国王が、頭を抱えるような失態など初めてであった。
「此度は我が娘の未熟さが招いた事。教育が足らずに申し訳ありません」
「いや……本当に、愚息が申し訳ない……」
国王と公爵家当主――国の要が頭を下げ合う隣で、セオドアは居心地悪そうに座っていた。
先日の茶会から、婚約者に会えない日が続いており、セオドアは苛立っていた。
彼女を案じて贈った手紙に返事はなく、会いに行こうとしても側近達に止められる。
毎日のように文を交わし、声を交わしていた彼にとっては、とても辛い罰である。
(皆の前であんな事したから、怒られるのは分かるけど……)
寝ても覚めても思い出すのは、最後の婚約者の姿。
(アリーが泣いたの、初めて見た……ちょっと、やり過ぎちゃったかな……)
幼くとも淑女であるのだから、公の場で異性と密接する姿を披露して恥ずかしかっただけ、少し休めば元気になるだろう――と、セオドアは軽く考えていた。
だからこそ、『ブレイズ公爵が来た』と連絡を受けた時、彼女に会えると急いで父の私室に向かったのに。
父と向かい合って座っていた客人がブレイズ公爵一人である事に、内心落胆しつつも黙って座っていたのに。
国王と公爵の謝罪が終わったら、婚約者と会えるよう取り計らってもらう心算だったのに。
「王家の前で無様な姿を見せるなど、あってはならない事……娘は婚約者から辞退させます。賠償として、私財の一部を献上いたすべく……」
「え、待って」
予想していなかった公爵の言葉に、思わず声を上げた。
「セオドア」
「だって、今、辞退って、どうして」
国王の制止も耳に入らない。
(俺との婚約は? 父さんは、それでいいの?)
「事情を確認し、アレクサンドラは殿下の婚約者として相応しくないと私も判断しました」
「公爵の判断じゃないよ。俺は、アリーと結婚したいんだ」
淡々と、もう決定したかのように話す公爵に苛立ち、思わず立ち上がる。
「娘の意向も確認しました。厳罰を望んでいますが、責任は私が……」
「嘘だ!」
「セオドア!」
普段声を荒げる事のない父の叱責に、思わず身が竦む。
射貫くような視線から、『黙って座れ』という無言の命令を感じ取り、大人しく父の隣に座り直した。
三人の間に、暫し、沈黙が流れる。
「……ブレイズ公爵、ここでの発言は記録に残らぬ」
女官が茶を淹れ直した後、切り出したのは国王であった。
「こいつの将来の為にも、正直に話してくれないか?」
慮るような柔らかい声色とは対照的に、公爵の顔に険しさが増す――言いづらい『何か』を隠し持っているように見えた。
(ひょっとして……アリーは、俺と婚約破棄なんてしたくないんだよね? 公爵家のために、仕方なく、そう言っているんだよね?)
セオドアは、期待を込めて、公爵の言葉を待つ。
「……婚約して、五日程経った頃でしょうか……娘が零したのです……」
その頃なら、自分は『好き』『可愛い』と言っていた筈で――セオドアは思わず身を乗り出すが。
「……しんどい、と」
「え?」
予想だにしない言葉に、セオドアの思考は停止する。
「毎日の手紙や贈り物の対応だけでも手間がかかるのに、訪問の頻度も多く、監視されているようだと」
(え……嘘だよね……アリーがそんな事言うなんて……)
自分は最大限の愛情を込めていたのに、彼女にとっては負担であったらしい――聞きたくなかった事実は、セオドアに衝撃を与えていた。
「学習の時間も取れないし、何処に行くにも付いて来て、友人にも会えない。政略結婚は、もっと建設的なものだと思っていたのに。王命だから義務で付き合っているだけで……」
「わかった、もういい」
話し始めている内に言葉が溢れ出してきた公爵を、国王が宥める。
隣で悲嘆に暮れる息子の姿が、居た堪れなくなったのだろう。
「まあ、とにかく、娘の気持ちとしてはそんな感じで」
堪えていたものを吐き出した為か、些かすっきりした様子の公爵は茶を飲み始めた。
「アリーは……俺の事、好きじゃなかったの?」
セオドアの絞り出すような声に、国王と公爵は顔を見合わせる。
「まあ、元々は、お前が相手に望んだからなぁ。此方としても、優秀と評判だったアレクサンドラ嬢が伴侶になってくれるなら安心かなと思って……」
「王命だったから、婚約してくれたの?」
少しでも、自分を良いと思ってくれていたら――縋るような気持ちで公爵を見上げるが。
「アレクサンドラは……幼少の頃から、結婚よりも仕事をしたいという気持ちが強くて……婚約や花嫁学校にも興味を持たなかったのですよ……だから、デビュタントも顔見せ程度にしか考えておらず……」
「まさか、ああなるとはなぁ……」
父親同士が溜め息を吐いたのは、デビュタントでのセオドアの振る舞いを思い出したからか。
「王家から婚約の申し出があった時、娘は隣国への逃亡を考える位には悩んでいたそうです。でも、王太子妃殿下や王女殿下のように国の為に尽くす生き方もあるかと、踏みとどまってくれたようで……だからこそ、セオドア殿下の愛情の注ぎ方は、些か、娘には重いようで……望まれて嫁ぐなら悪い扱いは受けないだろうし、殿下の情熱も若気の至りだろうと静観していた私共にも責任はあるでしょうし……」
公爵の独白を終えて、部屋には再び沈黙が訪れていた。
(そうか……俺の気持ちは、アリーに届いていなかったんだ……)
ゆったりと茶を楽しむ父を横目に、セオドアは一人思案していた。
父親同士の中では、既に婚約解消で纏まっているのであろうが、自分は納得しきれない。
(まだ、婚約して三か月なんだよ? これからお互いの事を知り合っていけばいいんじゃないの? ちょっと喧嘩したっていいじゃん)
これからどうすべきか考え――決意した。
「陛下、公爵……俺は、どうしてもアリーと結婚したいんです」
呼び掛けられた二人は、困ったように顔を見合わせた。
「殿下にそう望んでいただけて光栄ですが……」
「また泣かせるだけだろう」
遠慮がちな公爵と、遠慮しない国王。
『否』と返されてもセオドアは諦めきれなかった。
(俺は、アリーにまた会いたい。笑顔を見たいんだよ)
『殿下、お初にお目にかかります』
少しか細いが、高く澄んだ声。
青い瞳を揺らし、此方を真っすぐ見上げる笑顔。
栗毛色の髪を緩く纏め、白いドレスを纏った彼女は、本当に愛らしかった。
デビュタントで初めて彼女を見た時の衝撃を、今でもセオドアは覚えている。
初めて、『恋』という感情を知ったのだ。
自分の気持ちを押し付けて、一人で幸せに浮かれていたのだから、今度は、自分が彼女を幸せにしたい――セオドアは、そう思っていた。
「俺は、アリーじゃなきゃ駄目なんです。今度は、きっと泣かせないと誓います。アリーが望む政略結婚でいい」
会う回数を減らしたり、触れるのを我慢したりするのは辛いけど、泣かせるよりはいい。
セオドアとしては、身を切られるような決断であった。
しかし――
「お前は、政略結婚というものを分かっていないな……」
国王は首を横に振るだけであった。
「え、お見合い?」
ブレイズ公爵との面談から数日後――
自室での待機を命じられたセオドアに渡された物は、知らない令嬢の姿絵と身上書であった。
「何で他の女の子と会わなきゃいけないのさ。俺は、アリーとやり直すって言ってるの!」
それらを差し出した執事の説明も聞かず、部屋を飛び出す。
(父さんか、いないなら母さんに……)
「両陛下なら視察でご不在よ」
国王の執務室を目指すセオドアを呼び止める人物がいた。
「……姉さん」
侍女を従えた第三王女であった。
先日の茶会で、アレクサンドラが退出した後、セオドアを叱りつけて部屋に送りつけた人物でもある。
セオドアと歳が近いせいか、他の兄や姉よりも厳しい彼女が、セオドアは少し苦手であった。
アレクサンドラが憧れを持って接していたため、少し嫉妬の感情も混じっているが。
「お見合いの事なら決定事項よ。貴方の私事で公務を滞らせないで」
「俺は、アリー以外の子と結婚するつもりはないって!」
声を荒げるセオドアを、王女は冷ややかな目で見つめていた。
「これは、両陛下とブレイズ公爵家の意向よ。貴方に政略結婚を学ばせるための」
「……政略結婚を?」
お前は、政略結婚というものを分かっていない――先日の国王の言葉を思い出す。
(アリーと仲直りする前に、俺が勉強しろって事?)
「紹介された令嬢は、貴方に婚約者との距離感を教えてくれる教師のようなもの……感謝しなさい」
わざわざ、そんな事をしてくださる方なんて、そうそう居ないわよ……と説明する姉の言葉を聞き流し、セオドアは来た道を振り返る。
(みんながそう言うなら、会うしかないか)
「じゃあ、早く会って終わらせてくる。これが終わったらアリーとまた婚約できるんでしょ」
「貴方は、少し周りを見なさい。そういう所がアレクサンドラに嫌がられているのよ」
呆れたような言葉を受けて、顔が熱くなる。
(何で、そんな酷い事言うんだよ)
「姉さんは、誰かを好きになった事が無いから分からないんだよ」
婚約や降嫁の噂も無く、外遊に勤しんでいる第三王女は、セオドアにとって、無機質な仕事人間に見えていた。
セオドアの八つ当たりにも思える台詞に、王女は軽く溜め息を吐く。
「私はね、貴方の事が好きよ……勿論、弟として。馬鹿だけど、害悪ではないし、ずっと一緒に過ごしてきたもの。馬鹿だけど、良い所も悪い所も知っている。お父様、お母様、それにきょうだい達のみんなだってそう思っている」
普段、自分の思いを吐露することの無い姉の言葉に、思わず足を止めた。
姉の方へと向き直るが、彼女の澄ました表情からは感情が読み取れない。
「でもね、皆が皆、そうではないの。貴方の良い所を見る前に、嫌いになってしまったら、それだけで、貴方の存在が害悪になるの。王族だからって、皆に好かれるわけではないけれど、『良い顔』をつくる事を覚えなさい」
もう、手遅れだと思うけど――小声で零すと、王女は侍女達を引き連れて立ち去った。
「……どういう事なの……」
よくよく考えたら、ただの悪口ではないか――些か釈然としない気持ちのまま、セオドアは姉の後ろ姿を見つめていた。