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カレンダー

作者: 叶 こうえ

過去作品。

拙い描写、文章ですが、お読みいただけると嬉しいです。一応ホラー&サスペンスのつもりで書いてました。

 五日振りの会社で、早紀は少し憂鬱だった。無意識にため息をついてしまいながら、雑居ビルの二階にある自分の会社へと足を踏み入れる。就業の十五分前で、人もまばらだった。散在する彼らに挨拶をしながら、自席に着き、紙袋から卓上カレンダーを取り出し、自分のディスクの空いた場所に置いた。黒地に白抜きの数字が並んでいる。滅多にない色合いな気がした。黒地だからシャーペンでメモ書きもできやしない。 ペン入れの中の修正液に目をやる。……これでメモをしろと?

「なに? そのカレンダー」

 訝しげに、隣の席から牧野雅子が声をかけてきた。

「祖父からもらったんです。なんか……不気味ですよね。色が」

 祖父の形見でなかったら捨てていただろう。白抜き数字がゴシック体でなく、弱弱しい明朝体なのも、暗い印象に拍車をかけている。

 ずっと見つめていると、こちらまで陰気になりそうだ。

「あ……ご愁傷さま……です。でも大往生だったんでしょ?」

「そうですね、八十五歳でしたし……死に顔も安らかでした」

 住み慣れた家で家族に囲まれ、眠るようにして息を引き取った。医者での診断も老衰だった。たった三日前の出来事なのに、ずいぶん昔のことのように思えた。

「なにか特別なものなの? そのカレンダー」

 不思議そうな顔をして、雅子が白い数字を指でなぞった。早紀にも分からない。ただのカレンダーだ。少し不気味な色をした……

「もう必要ないから持っていけって言われて……断ったんですけど」

 死ぬ一日前だった。祖父と二人きりになった時、枕元にあったカレンダーを緩慢な動きで手にとり、正座をしていた早紀の膝に置いたのだった。「もう必要ないから……」その言葉がひっかかった。もう長くない事は分かっていたけれど、素直に受け取ればそれを肯定することになる。断ると、「いらないなら捨ててくれ」と言われ、仕方なく受け取った。

 祖父が亡くなり、通夜と葬式で慌ただしく時間が過ぎ、田舎から戻ってきたのが昨日の夜だった。

「これ、曜日も書いてないよね。数字がぽつぽつ浮いてるだけっていうか……」

「まあ、自分では買いませんよね。店に置いてあっても」

 月めくりの黒いカレンダー。一人暮らしの自宅に置くのは心細く、だからと言って捨てる気にもなれず、仕事場で使うことにした。もうすぐ三十だというのに、情けない。

「あ~早紀ってば……」

 雅子がいつの間にか、早紀の机にあったカレンダーを手に取りぱらぱらと捲っていた。

「この幼稚な癖、まだ直ってないんだ」

 呆れた口調で、雅子がつぶやく。

 その言葉で一気に顔が熱くなった。早紀は急いで雅子の手からカレンダーをもぎ取る。

「嫌なものは嫌なんです」

「だからって……幼稚すぎるよ。私だって嫌だけどさあ……」

 ほっといてよ……と、口の中で言う。癖なんて、そう簡単に直せるものじゃない。そろそろ五年――無意識の行為。だから厄介なのだ。

「牧野さんはいいですよね。もうすぐ寿退社だし」

 ついつい早紀は、羨望の眼差しを雅子に向けてしまう。雅子は早紀より二つ年上の、いわゆるお局だった。その彼女がとうとう今年の三月で退職してしまう。

「まあ、やっと長い春にピリオドが――」

「はあ? お前が渋ってたんだろ?」

 突然、自分達以外の声が割って入ってくる。

 驚いて後ろを振り返ると、雅子の肩に手を置いて「俺はもっと早くさあ……」と、お茶目にごねている男が目に映った。雅子の恋人――松井だった。

「あんたがなかなか出世しないからでしょ」

 小声で雅子が言い返した。力関係が一瞬で分かる。

 松井は入社十年目にあたる去年、課長に昇進した。これでも早い方なのだが。

 仲睦まじい二人をぼんやりと見つめながら、私も早く結婚したいなあ、と早紀は思った。目ぼしい相手は一応いるのだが、付き合い始めて三ヶ月も経っていない。微妙だ。

「松井さん! そろそろ行きましょう」

 松井の部下の桜木が、少し苛立った声で近づいてきた。

「ああ、ごめん」

 デレっと緩んでいた松井の顔が、一瞬で引き締まるのを見てしまい、早紀は思わず噴き出しそうになる。

 桜木の方へ歩き出そうとした松井の腕を、雅子が素早く引き戻し、彼に耳打ちした。

「ねえ、今度のバレンタイン、私以外からもらったら……」

「わーかってるって」

「義理もダメよ?」

「え? 義理チョコもダメ?」

 傍から見れば、うんざりする程どうでもいい会話だ。何気なく、後ろで佇んでいる桜木に視線を投げると、目が合った。彼が参ったね、という風に肩を竦めてみせた。早紀が苦笑で返すと、桜木が今度は柔らかく微笑み、早紀の方へと歩いてきた。彼も話に加わってくれるらしい。

「嫉妬なんて、牧野さん可愛い~」

 早紀が雅子を茶化すと、心外そうに言い返される。

「嫉妬じゃないわよ、全然! 彼、この前の検診で血糖値が高めだったの。糖尿病なんかになっちゃったら大変でしょ?」

 周りが一瞬シン……となる。

「愛されてるなあ、俺」

 少し感動したような松井の顔。朝っぱらから、なんだかなあ……と思いながらも、そんな二人が羨ましかった。彼らは五年以上も付き合っているのに、こんなにも情熱的だ。……自分達もそうなれるだろうか。そっと桜木の顔を伺うと、また目が合った。どきり、とした。

「ちょっと失礼」

 早紀の机に置いてあるカレンダーを、松井がひょいと取り上げた。

「二月十四日って何曜日だっけ? ……あれっ?!」

 カレンダーを一ページ捲った松井が、突然、素頓狂な声をあげた。

「これ……印字ミスかな? 二月のページ、真っ黒だよ」

「え? そんなわけ……」

 早紀は立ち上がって、松井が見ているページを覗く。――数字はちゃんと印字されていた。一日から二十八日まで、はっきりと。

「日にちはちゃんと載ってるじゃないですか。曜日はないけど」

 早紀の代わりに、桜木が答える。「ま、平日ですよ十四日は。義理チョコ、結構貰えますね」

 桜木の言葉に、松井が困惑したような表情になる。

「本当に見えるか?」

 松井が目を擦って、もう一度カレンダーに目を凝らした。

「……あれ? 今度は見えた。おかしいなあ……」

 首を傾げる松井に、「おかしいのはあんたの目よ。今から眼科に行ったほうがいいわ」

 雅子が不安の混じった声をあげる。「緑内障かもしれない」

 その言葉にぞっとした。緑内障――視界が黒で埋まっていく病気。放っておいたら失明する。

「牧野さんも落ち着いてください……もう見えますよね?」

 桜木が冷静な声で、松井に問う。

「ああ、大丈夫だよ。見えるよ」

 数字をなぞる松井に、早紀と桜木は安堵のため息をついた。

 雅子だけが、まだ心配そうな顔をしていた。


 月末の早紀と雅子は、無駄口ひとつたたかずに、ひたすら仕事に集中する。それでも残業をする羽目になる。いつものことで慣れてはいたが、早く帰りたい気持ちはなくならない。社内は静まり返っていて、唯一聞こえるのは二人がたたく電卓の音だけだ。手形の束から目を離し、少し遠くにある壁時計を見る。もう九時を過ぎていた。

「経理ってさあ、忙しい時と暇な時の落差が激しいよね」

 隣で帳簿とにらめっこをしていた雅子が、息抜きにコーヒーを飲みながら話しかけてきた。

「そうですね……肩凝っちゃいましたよ」

 苦笑しながら、早紀も机の脇に置いてあったコーヒーに手を伸ばす。

「……そういえば、松井さん。ちゃんと眼科に行ったんですか?」

 大きく伸びをして、深呼吸をする。少し疲れが取れた気がした。

「ああ……まだ行ってないみたい。営業なんだから外に出たついでに行けばいいのにね。まあ、最近は桜木君とペアで行動してるからそれも無理なのかもしれないけど。健康に無頓着なのよ、あいつ」

 首筋を揉みながら、雅子がぶつぶつと話し続ける。

「私が健康オタクだからバランスは取れてるか。やっぱ相性いいのかも」

 雅子の声が少し弾み、しかめっ面だった顔に微笑が浮かんだ。気晴らしの会話で、少し疲れが取れたようだ。

 雅子の顔はもともと小奇麗だが、笑うとその端正な作りが際立った。十年前だったら芸能界に入れたんじゃないか、と思うほどだ。三十路過ぎでもスタイルは崩れていない。……それに比べて自分は平凡だなあと、少し落ち込んだりもする。

 仕事にしても、早紀は補助的な事しかやっていない。雅子は簿記の資格も持っていて、スキルもかなりのものだ。経理部を仕切れるほどのバイタリティもある。正直、羨ましい。勝てるのは、二歳年下という事だけだ。

「……そろそろラストスパートしようか」

 雅子が、少し大きめの声で仕事の再開を告げた時、会社の電話が鳴った。ワンコールで雅子が受話器を取る。綺麗な、よそ行きの声で対応していたが、すぐに声音が変わった。

「はい……いますぐ向かいます」

 最後の方は、電話の相手に声が届かないんじゃないかと思うほど、か細く覇気がなかった。

 どうしたのだろう? 雅子の表情を見ているだけで、早紀も不安な気持ちになってきた。なにか……嫌な予感がした。

 電話を切った雅子が、受話器に手を置いたまま呆然としている。顔に血の気がなくなっていた。

「牧野さん? どうしたんですか?」

 恐る恐る、早紀は声をかける。

 はっと我に返ったように、雅子が早紀の方を見て、ぽつりとつぶやいた。

「松井君が、死んだって……」

 声が震えていた。



「あれってさ……予兆だったのかな」

 ぼそっと桜木が洩らした言葉に、早紀は「なにが?」と聞き返した。社内の給湯室で久しぶりに二人きりになったというのに、開口一番、色気のない言葉。少し面白くない。

「松井さんが亡くなる何日か前、カレンダーの数字が見えなかったことがあっただろ?」

 声を潜めて、桜木が言う。「二月が見えなかった」

 早紀は思わず眉をひそめた。

「……そういうのはちょっと……ふざけ過ぎじゃない?」

 カレンダーのことは、早紀も覚えていた。松井が「見えない」と言った時、本当に心配になったからだ。

「それに、結局は見えてたし。たまたまコンタクトの調子が悪かったのよ」

 松井はコンタクトを常用していた。時々彼は、コンタクトがずれて痛い、とぼやいたり、人工涙液を乱用している事があった。

「でもさ、事故を起こしたの一月三十一日だよ? なんかぞっとした」

 言い募る桜木に、早紀は少し幻滅する。

 松井が死んでから二週間が経ち、社内を取り巻いていた喪失感や悲壮感は風化しつつあった。彼がいなくなっても、会社も社員も稼動し続ける。現実はそんなものだ。薄情だな、と思いつつも自分のことで精一杯。だからと言って、松井の死を茶化していい事にはならない。

「あの松井さんが信号無視なんて……信じられないよな」

 それには早紀も同感だった。松井は用心深く、恐ろしく頭のきれる男だった。だから、雅子との会話を初めて聞いた時は、あまりのギャップに驚いた。二重人格かと思った程だ。

「やっぱり仕事、忙しい?」

 松井のことを一度思い出すと、浮上するのに時間がかかる。意識的に話題を変えた。

「ああ。松井さんの穴を埋めるのは大変だよ。毎日残業当たり前。……悪いな。週末会えなくて」

「いいよ。大変なのは分かってるから」

 松井の死後、彼の抱えていた仕事が殆ど桜木にまわってきた。平日は終電ぎりぎりまで残業し、休日は出勤しないものの、仕事を家に持ち込んでいるらしい。そんなわけで、早紀と桜木は二人っきりの時間を作ることができなかった。二週間ずっと……。

「早紀の誕生日はちゃんと考えてるから」

 無意識に、早紀は顔を綻ばせた。

「覚えてくれてたんだ」

「そりゃあね。僕たち付き合ってるんでしょ?」

 桜木は悪戯っぽく笑い、そのまま給湯室を出て行った。

 ――私って結構運がいいかも。

 桜木の後姿を見送りながら、早紀は思う。彼は男前だし、仕事もできる。社内の女子にも人気があるのに、自分を選んでくれた。何の取り柄もない自分を。

 仕事場に戻るのが憂鬱で、給湯室にある洗物を時間をかけて片付けた。松井の死が、早紀の仕事にも影響を及ぼしていた。雅子の退職取り下げを認められたのが、すでに彼女の穴埋めとして新しい女性社員を採用した後だった。つまり、一人余るのだ。早紀は自分が危うい立場になるのではないかと、不安に押しつぶされそうになっていた。新しい社員は、早紀よりも五歳年下で、仕事の覚えもすこぶる良かった。

 早紀の不安は日増しに強くなり、会社へ行くのも苦痛になっていった。早紀はどこかで、雅子に気に入られているから自分は大丈夫だと、高を括っているところがあった。だが、一度教えたら完璧に覚え、将来性もある若い新入社員に、雅子を含めた周りの人たちが期待や好意を持って接するようになったのだ。急速に、早紀の立場まで後輩は追いついてくる。……追い越されるのは時間の問題だと思われた。


 松井が亡くなってから一ヶ月が経ったが、早紀の恋人は相変わらず仕事に忙殺されていた。プライベートで会える時間は皆無で、妥協案として、お互い残業して自分達以外に人がいなくなった社内で、こっそり話をするようになっていた。

「まあ、後輩が出来のいい奴だと、正直焦るよな」

 早紀の隣の席――雅子の席――に腰をかけた桜木が、わかるなあと呟きながら首を何度も縦に振った。

「出来ない奴だと、それはそれで苛々するんだけどな」

「……そうだね」

 コーヒーを啜りながら、早紀は静かに頷く。

「でもさあ、私が、今日は残業するって言ったら、凄く意外そうな顔するんだよ。なんか生意気っていうか……態度がさあ」

 ついつい愚痴が零れる。後輩のユカリの顔が浮かんできて、また怒りがぶり返してきた。「やる事あるんですかぁ?」そう言いたそうな表情だった。若いし可愛いし有能で……言葉使いが多少アバウトでも許されている後輩。苛々する。この気持ちの正体は分かっていた。それでも認めたくない。早紀にもプライドがあるのだ。

 思いつめた顔をしていたのだろう。桜木が、早紀の肩をぽんぽん、と優しく叩いてくれる。少し気持ちが和らいだ。――そうだ、私には彼がいるじゃないの。もしクビにされたとしても、彼がいれば……そんな甘い気持ちが過ぎる。今度の誕生日で早紀はとうとう大台に乗る。そろそろ決めたい、という気持ちがあった。桜木の気持ちさえ固まれば……。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、桜木が早紀の机にある、例のカレンダーを手に取り「早紀の誕生日って何曜日だっけ」と言いながら、ページを三月にした。その瞬間、桜木の顔が強張った。

「……どうしたの?」

 桜木のカレンダーを持っている手が小刻みに震えていた。

「……なんでもないよ。悪いんだけど、早紀の誕生日、一緒に祝えないかもしれない」

「……え? なんで急に……」

 突然の態度の変化に、早紀は戸惑ってしまう。不平不満をここで爆発させたい気持ちもあったが、そういう状態ではないような気がした。桜木の顔が見るからに青ざめていたから。

「仕事がなかなか片付かないんだ。松井さんの抱えてた仕事が半端じゃないんだよ。四月までは多分無理だ」

「仕事なら仕方ないけど……」

 無理やり声を絞り出した。物分りの良い振りだ。本当は、もっと物理的にも、精神的にも距離を縮めたいと思っていた。このままじゃ、結婚の話にたどり着くまで何年かかるか知れない。桜木は早紀と同じ年だというのに、結婚願望が無いのだろうか。男の人は適齢期が遅いようだし、それなら仕方ないのかもしれないけれど。

 


 三月十五日。早紀の誕生日前日に、いきなり桜木が会社を休んだ。熱を出してダウンしたと会社に朝、連絡があったようだ。

 早紀は仕事中に、こっそり化粧室の個室で、桜木の携帯に電話をかけた。もっと近づけるチャンスかもしれない、と思った。彼が病気で弱っている時に、おかゆを作ったり、看病をしてあげれば、見直してくれるかもしれない。アドレス帳から桜木の番号を選び、発信ボタンを押す。何コールか待つと、桜木の声が聞こえてくる。いつもと同じで、しゃがれたりはしていなかった。喉にはこなかったのだろうか?

「桜木君? 風邪、酷いの?」

 ずっと休まずに仕事に精を出していた。その疲れが一気に爆発してしまったのだろうか。

 ――ああ、大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて。多分明日は行けるから。

 咳も出ないようだ。スムーズに話ができている。……良かった。大したことはないようだ。

「ねえ、会社帰りにお見舞いに行っていい? 消化のいいもの作ろうか? 買い物していくから」

 喜んでOKしてくれる……そんな期待があった。だけど、返って来たのは、慌てたような声での断り文句だった。

 ――嬉しいんだけどさ、風邪をうつしちゃ申し訳ないから。本当に大したことないんだよ。一日食わなくても平気だし。

 あまりしつこくするのも、良くないのかもしれない。そう思って、早紀は、お大事にね……とありきたりの言葉でしめて、電話を切った。空回り。自分だけが彼を好きなのかもしれない。普通、恋人同士だったら、風邪を引いていたって会いたい。仕事が忙しくたって、時間のやりくりをして、なんとか会えるようにするものだ。……少なくとも、前の彼氏はちゃんと会えるように、努力してくれていた。彼の心を占めているのは、仕事? それとも……私より好きな人がいるのでは? マイナス思考に転がると、歯止めがきかなくなる。自分は誰からも必要とされない人間なのではないか……そこまで暗いことを考えてしまう。

 仕事も、どんどん後輩のユカリは覚えていっている。早紀の出来る仕事は、ユカリも殆ど出来る。そこまで追い上げられている。早紀とユカリの能力の差は歴然としていた。

 雅子の態度は変わらない。早紀にもユカリにも平等に接してはくれている。だが、その姿勢がいつまで続くのか、早紀は不安だった。

 個室から出ると、ちょうど雅子が化粧室に入ってくるところだった。早紀は思わず声をかけていた。

「牧野さん……久しぶりに仕事が終ったら飲みにでも行きませんか?」

 本当に、久しぶりに誘った。松井のことがあったから、自分から声をかけるのは自粛していたのだ。松井が死んでからも、雅子は毎日休まずに出勤していたし、それほど落ち込んだ様子を見せなかった。いつもと同じように振る舞っていた。相当無理をしているのだと思う。

 雅子は一瞬驚いた顔をしたが、申し訳なさそうな表情になり、「ごめん、今日は先約があるの。定時で帰んなきゃ」

 両手を顔の前で合わせて、もう一度ごめん、と言った。

「あ、じゃあ、また機会があったら飲みに行きましょう? 私はいつでも大丈夫なので」

「うんうん!」

 雅子が嬉しそうに笑いながら頷いた。綺麗な目元に、皺がすっと入った。見てはいけないものを見てしまった気がして、さっと視線を床に落とす。ピカピカに磨かれた桃色のタイルが目に入ってくる。……十代の頃は、自分の肌に皺が刻まれるなんて、思っても見なかった。でも老化は誰にでも等しく訪れる。綺麗な雅子にも容赦ないのだ。

「どうしたの? 下向いちゃって」

 不思議そうな声で、雅子が聞いてくる。少し罪悪感が湧いて、首を横に振り、「お先に失礼します」と言って、化粧室を後にした。


 ――その日の夜、夢を見た。

 今住んでいる場所ではなかった。見渡すと一面が海だ。

 砂浜には、幼い頃の早紀と、彼女の母親と、死んでしまった祖父の姿があった。

 潮風で、顔がべたつき、服も湿っていた。砂の上にしゃがみこみ、持っていたシャボン玉を吹いて飛ばした。空は灰色で、不機嫌だった。それでもシャボン玉のピンクが綺麗にその色に溶けてくれる。――ああ、灰色とピンクは相性がいいのだなあ、色って面白いなあ。夢中になってシャボン玉を飛ばす。座っている体勢に飽きてきて、立ち上がり、走りながら飛ばす。心に足がついていかなかった。足がもつれ、そのまま顔から転んだ。それほど痛くは無い。ただ、シャボン玉の容器から液体が全て流れて、砂浜に吸い込まれていった。

 早紀の幼い顔が、くしゃりと歪む。

 ――ああ、泣いちゃいけないよ。泣いたら……

 でも、あの頃の早紀は我慢できずに、火がついたように泣きだした。

 その瞬間、怒声が、早紀の鼓膜を直撃した。早紀の泣き声など覆い隠すほど、大きい声。本気で怒った声……

「泣くな! 泣くんだったらさっさと自分の家に帰れ! うるさいっ!」

 祖父が叫んでいた。顔が真っ赤。こめかみには、血管が浮き出ていた。「おじいちゃんとおばあちゃんは、お母さんと違って優しい、怒らない」そう思い込んでいた早紀は、祖父の激しい怒りを真正面から見せられてびっくりした。そして恐怖した。

 いつの間にか、自分が泣いていた事も忘れた。……どうして泣いたんだっけ?


 目が覚めた。心臓がどくどく言っている。思わず苦笑が洩れた。三歳頃の自分は、何もかもが自分の思い通りにいくのだと信じて疑わなかった。あの祖父の逆鱗を見て初めて、違うのかもしれないと思ったのだ。

 あの時の話を、中学生の時に母親に話した。あの時のおじいちゃんは怖かったね、と。すると母親は「いつもああなのよ、あの人は」

 他人の話をするように、醒めた声で呟いた。

「自分の思い通りにしないと気がすまない人なの。周りがどれだけ傷ついても知らん顔。なんであんな人と再婚したのかしら、お母さん……実はね、あの人は早紀の本当のおじいちゃんじゃないのよ? 良かったわね」

 あの時の母親の顔に映っていたのは、紛れもない憎悪だった。具体的に、何があったのかは聞いていない。ただ、何か、母親には許せないことがあったのだろう。

 ふと、カレンダーを渡された時のことを思い出した。あんなに元気に怒れた祖父が、弱弱しい手つきで、カレンダーを早紀の膝の上にぱさっと置いた。

「ありがとう」と言って、カレンダーを手に取った時、祖父は笑った。その表情は少し変わっていた。嬉しそうな笑顔ではなかったのだ。なんと言えばいいのだろう……口元を少し歪めただけの、歪な笑みだった。

「役に立つ……そいつは絶対に役に立つよ……早紀」

 怖くなって、醜く歪んだ顔から視線を引き剥がした。あの、入れ歯の入っていない空洞の口。嫌な臭いのする、どろどろなピンクの穴に飲み込まれそうな錯覚。血は繋がっていない……その言葉が浮かんで、安堵してしまった自分。ごめんね、でも……この気持ちはどうしようもないんだ。

「黒く染めろ……黒く染めろ……お前は幸せに」

 祖父は眠りに入りそうになりながら、呟いた。

「お前はわしと血は繋がっていないけど……一番似ていた」

 吐き気がした。

 母親に「これ、どう見ても黒だよね?」と、カレンダーを見せると、「白内障だから白くみえるんじゃない?」軽く返された。「ちょっとボケてるしね」

 相変わらず、祖父を嫌っていた。


 時計を見ると、まだ朝の五時だった。まだ眠れる……そう思ってもう一度目を閉じる。と同時に、枕元に置いてあった携帯が鳴り始めた。無視したい……と思ったが、流れた着信メロディが、桜木からの電話専用だと思い出し、飛びつくようにして電話に出た。

「もしもしっ?」

 ――ああ、ごめん。寝てるとは思ったんだけど、電話したくなっちゃって。

 陽気な声。少し酔っているような、そんな声だ。しゃっくりが一つ。

「どうしたの?」

 ――嬉しくてさ。俺、未来を変えたんだぜ? 今日生きてる!

 意味不明だった。相当酔っているのかもしれない。一人で飲んでいるのだろうか?

「……意味がわからないよ」

 ――カレンダーだよ、カレンダー! 三月十五日までしか数字が載ってないように見えたんだ。十六日から消えてたんだよ。俺の考えすぎだ、そんなことないって思ってたけど、近づいてくるうちに怖くなったんだ。だから昨日はずっと部屋に閉じこもりっぱなし! 馬鹿だよな! あはは!

 一瞬、返す言葉が出てこなかった。カレンダーの数字が、見えない? 三月のページ。ちゃんと三十一日まで載っていたはずだ。会社で何度も見ているんだから間違いない。

 桜木の悪ふざけだろうか? 昨日休んだのはただのさぼりなのかもしれない……

働きすぎて、突然切れてしまったのかもしれない。突然上司が死んで、仕事を引き継いだのだ。ストレスも相当溜まっているのだろう。

「わかったから……とりあえず、二日酔い我慢して、会社に来なね」

 言い終わると同時に、電源を切った。

 日付が変わって、今日は三月十六日。早紀の誕生日だ。それなのに、桜木は「おめでとう」の一言も言ってくれない。きっと忘れているのだ。なんだか、とても淋しい気分になった。


 結局二度寝せずに起きていたため、少しぼんやりとしながら会社に出勤した。就業五分前。経理部を通り過ぎ、営業部を覗いてみるが、桜木の姿は見えなかった。いつもこの時間なら席に着いているはずなのに。

 早朝にかかってきた電話を思い出す。

 自席に向かい、置いてあるカレンダーを手に取り見つめた。三月十六日は消えていた。当たり前だ。早紀が自分の誕生日を塗りつぶしたのだから。二十五歳を過ぎた頃からだ。自分の誕生日が来るのが嫌で嫌で堪らなくなった。来なくていいのに……来るな。カレンダーでその数字を見るたびに綺麗に消した。馬鹿げた行為だと自分でも分かっている。……でも、消した後少しだけスカっとしたのだ。雅子には何度か見られ、「幼稚なことしなさんな」と咎められていた。

 三月十六日が消えていたというのは分かる。だが、桜木は「三月十五日までしか数字が載っていないように見えた」と言っていた。

 突然胸騒ぎがした。馬鹿らしい、と思いながらも、気になりだしたら止まらなくなった。人目が気になり、会社の玄関を出てから桜木の携帯に電話をかける。が、ずっと呼び出し音が聞こえてくるだけ……嫌な予感が増した。

「電車が遅れているだけかも……」

 自分に言い聞かせようとした声が、震えていた。じっとしていられなくなった。階段を使って一階に降り、ビルの外へと出た。大通りに面した歩道に立つ。ちょうどその時、向かい側の歩道から陽光を浴びた桜木が、早紀に向かって手を振っているのが見えた。閉まった店のシャッターに背中を凭れかけさせていた。気だるそうに信号が青になるのを待っている。

「よかった……」

 あっという間に、早紀の緊張がほぐれた。体の力が抜け、へたり込みそうになるのを堪える。……私の考えすぎだったんだ。

 太陽が眩しくて、早紀が目を閉じようとした時だった。車道を走っていた車が異様な音をたてて、歩道に突っ込んだ。桜木の立っていた場所へ……

 桜木の体が、シャッターと車に挟まれていた。右腕は上がったまま。真正面を向いていた顔は、右側を向いていた。……首が異常な角度で曲がっていた。

 瞬きをするのも忘れ、早紀はその光景に釘付けになっていた。

 あまりにも突然の出来事に、何が起こったのか理解できない。だから、恐怖を感じる余裕さえなかったのだ。


 恐怖が訪れたのは、警察に目撃したことを呆然としながらも話し終え、会社に戻った後だった。正午を過ぎていた。

 自分でもあり得ないことだと思いながらも、もしかしたら……という考えをやめられなくなっていた。桜木は、十六日に死ぬ運命だったのではないか? 松井のケースを思い出した。「二月のページが真っ黒だ」そして、彼はその前日の一月三十一日に亡くなった。二人とも偶然なのだろうか。体が自然と震え、止まらない。


「牧野さん、ちょっとお時間いただけますか?」

 桜木の死で、社内は落ち着かずざわついてはいたが、仕事はやはり通常通りだ。松井の時と同様だ。

 早紀達の仕事場も、とりあえず仕事は普通にこなしている。

 仕事中だと分かっていたが、どうしても雅子に聞きたいことがあったのだ。

「なに? どうしたの?」

「ここではちょっと……空いている会議室で話をさせてください」

 ユカリに一言断りを入れて、二人は仕事のフロアを出た。

 会議室のドアを閉めたとたん、早紀は口を開く。

「松井さんの死についてわかっている事があったら教えて欲しいんです」

 雅子は松井の死体を確認しに、警察に赴いた。会社から聞いた情報以外に知っていることがあるかもしれない。

「なんで? いきなり……」

 雅子の表情が固くなった。困ったような顔をしている。

「桜木君の死と関係があるかもしれないんです。カレンダーと関係があるかもしれないんです」

 早紀が一気にまくし立てると、雅子がいきなり噴き出した。

「カレンダー? 数字が見えないって言ってたやつ? 怖いの? 頭大丈夫?」

 笑いがおさまると、今度は見下すような目で早紀を見た。信じてくれていない。当たり前かもしれない。早紀だって、なにがなんなのか分からないのだから。

「言っておくけど、松井君が死んだのは超常現象とかじゃないわよ? 信号無視。緑内障だったのよ、彼」

 もういいか……雅子が口元を意地悪げに歪めながら話を続ける。

「前からそうじゃないかって思ってたのよ。カレンダーの件がある前に、彼とドライブに行ったことがあるんだけど、その時も信号が見えなくて危うく事故を起こしそうになったの。信号機を見逃すなんて相当な事よ? 片目の視力は失っていたんじゃないかしら」

 その言葉に疑問を覚えた。

「そんなに酷い状態だって知ってたのに、車に乗るのを止めなかったんですか?」

 雅子と松井の力関係は、二人の会話で歴然としている。雅子が一言、車に乗るなと言えば、松井は運転を自粛していただろう。それなのに。自然と責める口調になる。

「運転をやめさせてどうするの? 彼の緑内障はもうかなり進行していたし、両目を失明するのは確実だったわ。……全盲の亭主と一生暮らせっていうの? 無理よ。幸せになれないわよ」

「わざと乗らせたんですか? まさか……」

 でも、なんで死なせるようなことを? 婚約破棄をすればいいだけのことだ。

 早紀の思ったことがわかったように、雅子が言葉を発する。

「だって、婚約者が失明するから結婚やめますって……私が悪者みたいじゃない? 断りづらいわよ、普通。言っとくけど私は何も悪くないわよ? ただ忠告しなかっただけよ。松井君が自分の体に無頓着なのがそもそも悪いんでしょ? まあ、片目しか見えないのって結構気がつかないらしいけどね」

 なにがいけないのよ? 開き直ったように雅子は言い放つ。

「桜木君だって運悪く、歩道に突っ込んできた車に轢かれただけでしょ? 超常現象じゃないわよ」

「でも、本当にカレンダーの日付が見えなくて、怯えてました」

「あー嘘嘘! 嘘八百よ! だって昨日の夜、お酒飲んで陽気にはしゃいでたわよ?」

 ……なんでそれを雅子が知っている? 頭の中が混乱する。雅子は昨日、飲みの誘いを断った。先約の相手は……相手は……。

「ああ、桜木君とはね、松井君が死んでからヨリを戻したのよ。桜木君はあなたとも付き合ってたみたいだけどね。でも私が本命だったと思わない? 週末はここのところ、ずっと会ってたし」

 勝ち誇ったような雅子の顔が、なぜか滲みはじめる。頬に手をやると、濡れていた。何の涙だろう? 早紀自身わからなかった。信じていたものを失ったような、どうしようもない気分に陥る。耳の奥がつまったように、雅子の声が遠のきはじめた。

「ま、松井君と婚約する前までは、二股だったわけ。あなたより年上だけどね、私の方が遥かにもててたわけよ?」

 呆然としている早紀をよそに、雅子はしゃべりつづける。ずっと我慢していたものを吐き出すかのようだった。

「カレンダーが不気味だとかなんとか言ってたけど、あなたにとっては幸運のカレンダーだったんじゃない? 松井君が死んで、私は結婚しそびれてお局続行だし、桜木君が死んで、彼に弄ばれることもなくなったし」

 思ってもみないことだった。二人も人が死んだのだ。どう考えたって不幸を呼ぶカレンダーではないか。たとえ偶然だとしても、あのカレンダーを会社に置いてからろくなことがない。

「わかってるのよ? 年上の私がいるってことを拠り所にしてるんでしょ? 私の笑い皺を見て喜んでるしね」

 すべてこの先輩はお見通しだったのだ。雅子に対する、暗い優越感も……

「くだらないことばっかり考えてるから仕事ができないのよ、あなた。 残業は渋るし、仕事は間違えるし、電話もワンコールで取らないし。四月ぐらいにはユカリちゃん、あなたを追い越しちゃうと思うわよ?」

 言いたいことを言ってすっきりしたのか。一方的に話し続けた後、雅子は鼻歌まじりに会議室を出て行った。


 気がついたときには、窓の外は真っ暗だった。終業時刻はとっくに過ぎている。雅子と話が終わったあとからの記憶が無かった。自分の席で、私は何をやっていたんだろう……ぼんやりとしていただけで、仕事も何もしなかった。なのに、周りは何も言わない……自分の存在感のなさに、絶望的な気分になる。

 突然、祖父の声が蘇る。

 ――役に立つ……そいつは絶対に役に立つよ……早紀

 そして、雅子の声も。

 ――カレンダーが不気味だとかなんとか言ってたけど、あなたにとっては幸運のカレンダーだったんじゃない?

 それが本当だったら、なんで自分は今、こんな事をしているんだろう。全然幸せではないじゃないか。

「……こんなもの!」

 小さい叫びをあげて、早紀は衝動にまかせ、黒いカレンダーを屑篭に突っ込んだ。そこに、機嫌の良さそうなユカリの姿が映った。営業部の方から歩いてくる。

「あれ~まだいらっしゃったんですか? 先輩。もう五時過ぎてますよ?」

 他意はないのかもしれない。だけど、今の早紀には、嫌味を言われているようにしか思えなかった。「やることあるの?」と。

 突然、この場から消えてしまいたい、と強く思った。急いで席を立つ。

 この後輩の、顔を見るのも声を聞くのも苦痛になっていた。分かっている。自分の嫉妬がそうさせるのだ。彼女は早紀より五つも年下で、そのうえ仕事まで自分から奪おうとしている。

 それでも早紀は、笑顔を作って「おつかれさま」と言葉を返し、後輩の前を通り過ぎた。不自然な程明るい声が出て、余計いたたまらなくなる。屈辱感。

 その時、背後でガサッと紙の擦れる音がした。

「あれ……このカレンダー捨てちゃうんですか~?」

 後ろから声をかけられる。……人が捨てたものを手に取る無神経さ、語尾をくねらせたぶりっこ声。全てが、癇に障る、気に入らない! 聞こえない振りをして、早紀は足早に玄関口に向かうが、またしても声が聞こえてきた。

「ああ、不良品だからか~」

「……え?」

 思わず早紀は振り返った。

「ほら、四月以降が真っ黒」

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