第十六話「垣間見えるもの」
「ごちそうさまでした」
リウンの好意であるスープ、「ウル」を僕は飲み終えた。
吐き気とかはしないが、まるで食道や消化器官が縮小したかのようにいつもの様に食事を出来ない僕にとってはこの液体の「ウル」はありがたいものだ。
今まで身体で覚えていた食べ物の咀嚼の回数と今の身体の状態による不一致に影響で固形物を食べることがままならないのだ。
「なあ……前から思ったのだが……
なんだその『ごちそうさま』とは?」
「え?」
僕の「ごちそうさま」という言葉に対してウェニアは不思議そうに尋ねてきた。
「森の中で木の実を食べてた時から感じていたが手を合わせて食事前と食後にいつも言っている言葉は貴様の世界の食事前の「儀式」なのか?」
「あ……」
森の中でウェニアが持ってきた害はなさそうだが味がとてもじゃないが食用に適さないえぐみのある木の実を食べる前に「強化魔法」の反動で体に力を入れるのに微かな痛みを感じながら手を何とか合わせて『いただきます』と『ごちそうさま』を言っていたことについて彼女は訊ねてきた。
そんな僕の一連の行動をウェニアは不思議に感じていたらしい。
そうか……
日本や海外でも違うし当たり前か……
僕の世界でも分かりやすい比較で日本の『いただきます』に該当するものとして西洋では『天におはします我らが主よ』がある。
文化や宗教が違えばそういったものが異なるのは当たり前だ。
ましてや世界が違えば尚更だし、彼女が不思議に思うのも無理はない。
「あ、うん。
僕の国じゃこれが普通かな」
「ほう?
やはりそちらの世界でもそういうことは言うのか?
それに他の国では異なるのか」
「ああ」
「やはり、世界が違えども国が多くあればその分だけ文化や風習、信仰も違うのは当たり前か」
ウェニアは以前、通貨の違いから僕の世界でも多くの国があることを把握した時と同じ様に今回の食べ物への感謝に種類があることを理解していた。
彼女はやはり世界をかつて半分以上手にした魔王として当然のことながらそれを知っていた。
そして、彼女はそういったことに興味を抱いている。
きっと彼女にとってはそういった知的好奇心も世界征服の原動力になっているのかもしれない。
「……そういえば。
ウェニアてそういうのはやらないのか?」
今度は僕の方がふと気になって彼女にこの世界における食べ物への感謝について訊ねた。
今まで彼女が食事の前と後に何も言っていない。
ウェニアは無教養から遥かにかけ離れたところにいる。
そういった礼儀作法には何かしらの拘りがありそうに思えたのだ。
「我はやらん」
「え」
僕の質問にウェニアは今まで見せたことのないほどの冷淡さ、いや嫌悪感を滲ませてそう答えた。
「ウェニア……?」
今まで怒りの感情を見せていたがその中には愉悦感や義憤にも等しいものが感じられていた。
しかし、今のウェニアはそれが全く感じられない。
『我はやらん』って……
この世界にも食べ物への感謝をする言葉はあるってことだよな……
ウェニアのその一言から『いただきます』などと同じ食事の際に言う言葉がこの世界にもあることは把握できる。
だけどウェニアははっきりとそれを拒絶している。
どうしてだ……?
僕の世界でも食事への感謝を言わない人間もいたので別にそこまで違和感を感じない。
でも、それはあくまでもめんどくさがっている人間がしていることだ。
だけど、明らかにウェニアはこの行為そのものに嫌悪感を募らせている。
でも、最初にこのことを訊いてきたのはウェニアだったよな……?
しかし、もし食事への感謝に対して嫌悪感を抱いているのならば明らかに今回のウェニアの行動は矛盾している。
この話題に最初に触れてきたのはウェニアの方だ。
それに彼女は好奇心に動かされていた。
もし彼女が食事への感謝そのものに嫌悪感を抱いているのならばそもそもこんなことを訊ねてくることはしないはずだ。
「……貴様のその言葉はどういう意味を持つのだ?」
「え……」
気まずさとウェニアの嫌悪感が化学反応を起こして精神的な害を及ぼしそうになっていると彼女は僕に『いただきます』の意味を訊ねてきた。
「……どうした?」
「え、えっと……」
意味を急かされたが彼女にしてはどうみても不自然な反応に僕は戸惑った。
間違いなく僕の質問は彼女にとっては「母親」と同じくらいの心の傷だ。
「………………」
僕は迷った。
謝るべきか謝らないかと。
今、ウェニアはさっきまでの話題から話を変える為にこの質問をしてきた。
つまりは彼女にとっては触れて欲しくない話題だ。
ここで僕が謝るのは簡単だ。
だけど、それは彼女にとっては触れて欲しくない話題を短い時間とはいえ引き延ばすことになる。
なら、ここは謝らないでそのままなし崩しに彼女の質問に答えた方がいいのかもしれない。
いや……
ダメだよなそれこそ……
でも、僕はそんな卑怯な考えを否定した。
確かに僕が触れないでいたら彼女を傷付けないでいられる。
だけど、相手が気にしないからと言って謝らないなんていうのは相手の優しさに甘えたり、心の傷に付け込んでいるのと変わりない。
「ごめん……」
「え……」
彼女からすればとっとと話題を変えて欲しいと思っているに違いない。
それでも自分の無神経な質問で彼女を傷付けておいて彼女に謝らないなんていう恥知らずな行動をしたくなかった。
これが独り善がりな考えなのは理解しているが僕は逃げたくなかった。
その結果、相手を傷付けその相手に恨まれることになっても僕は逃げたくないのだ。
「……よい。
気にするな。
それより、貴様のその言葉はどういう意味を持っているのだ?」
「ありがとう……」
僕の独善を彼女は責めなかった。
彼女もまたリウンと同じで優しくて強い人間だ。
誰かの為に痛みを我慢する。
それに対して、僕はこれ以上何も言えなかった。
何をすべきなのかわからなかったのだ。
「……うろ覚えだけど『いただきます』は命への感謝で、『ごちそうさま』は食べ物に関わった全てに対しての感謝だったような……」
拭い切れない罪悪感を抱えながら僕はそれぞれの食事への感謝の言葉の意味を答えた。
うろ覚えだけど、これは母さんが僕が子供の時に『いただきます』を言い忘れた時に窘めた際に教えてくれたことだ。
高校生になっても『いただきます』や『ごちそうさま』を言う僕のことを何人かは笑ってはいたけどこれだけは忘れちゃいけないことと考えて欠かさずにやってきたことだ。
「信仰とは関わっていないのか?」
「え?信仰?」
唐突に尋ねられた僕は困ってしまった。
何故ならそれはある意味日本人にとっては一番難しい質問をしてきた。
「……信仰というよりも宗教に関係しているかしていないかというと微妙かな……?」
「何だそれは?」
要領を得ない僕の答えにウェニアは首を傾げた。
恐らく彼女の意図している「信仰」とは「宗教」に直接繋がっているかということだろう。
しかし、日本人の『いただきます』や『ごちそうさま』が宗教と関係しているかというと非常に曖昧なのだ。
「いや、僕の国では……
何ていうか大多数の人間が色々な宗教をごちゃごちゃに使っていて特定の宗教を信仰している訳じゃないんだ……」
「何だそれは!?」
ウェニアは同じ言葉を使っているのに先ほどと打って変わって驚愕を隠さなかった。
いや、現代の日本人のごちゃ混ぜ宗教観は恐らく「ディウ教」と呼ばれる宗教を信仰しているこの国にとっては信じれないのだろう。
それにウェニアの今までの言動から「ディウ教」は千年前から存在していたのはほぼ確定している。
そんな歴史のある宗教のある国の人間からすれば現代日本の宗教観は驚くしかないだろう。
幼い時に七五三。正月に七福神や初詣。クリスマスやバレンタインにキリスト教。結婚式に教会と神前式。葬式に仏教。
その他諸々の日本人の宗教への関わりは説明するのが難しい。
「し、信じられん……」
ウェニアはまるで子供の頃に流行ったものを語った際に少しだけ年の離れた人間に知らないと言われた際にジェネレーションギャップを受けた時の様な衝撃を受けている。
相当、彼女にとっては、いや、彼女にすらこの日本人の宗教観は信じられないことなのだろう。
「……では、貴様の国の民にとっては『いただきます』やら『ごちそうさま』は特定の信仰によるものではないのだな?」
「……?そうだけど?」
けれどもウェニアはすぐに衝撃から立ち直り僕に新しい質問をぶつけてきた。
一応、日本にも神道や仏教という日本人の精神構造を形成している宗教はあるにはあるが、だからといって『いただきます』や『ごちそうさま』が特定の神様に対してのものではないのは事実だ。
「ならば我もそれを言うとするか」
「えっ!?」
ウェニアは予想外な発言をしてきた。
「何をそんなに驚いている?
それとも何かしらの宗教に入信しなければ言ってはならんことなのか?」
「い、いや……
そんなことはないけど……」
確かに僕は地元の神社の氏子だし、お宮参りも済ませているし、七五三もしているし、恐らくは死んだら葬儀場でお坊さんに供養されて先祖代々のお墓に葬られるけれども、『いただきます』や『ごちそうさま』
を言うのに特定の宗教に入る必要はない。
だけど、異世界の人間、それも魔王がまるで思い付きの様に『いただきます』や『ごちそうさま』を言うのは想像できないのだ。
異なる文化や文明に衝撃を受けることを「カルチャーショック」と言うらしいが、僕は逆にそういった異なる価値観をすんなりと受け容れた異世界の人間に衝撃を受けるという衝撃を受けた。
と僕が色々と混乱していると
「そうか……ならばごちそうさま」
「あ……」
ウェニアは構うことなく実際に『ごちそうさま』と手を合わせて言った。
「………………」
その姿は今まで感じていた細かいことや違和感がどうでもよく感じる程にとても尊く感じられた。
何よりも彼女の今のその姿には何かから解放されたかの様な清々しさと喜びに満ち溢れていた。
「よし、ユウキ。
行くぞ」
「え……?」
本日で何回目かわからない彼女に見惚れるという間抜けな姿を僕が晒していると、ウェニアは嬉しそうに僕に声を掛けてきた。
「リウンの所に行くのだろ?」
「……!
うん……!」
ウェニアに促されて僕はリウンに謝ることへの覚悟に加えて勇気を持つことが出来た。
……でも、ウェニアの今の顔を見ていると……辛いな……
今の彼女は心の底から嬉しそうだ。
彼女がそう感じるのはもしかすると先ほど見せていたこの世界、いや、少なくともこの国における食事への感謝に対する不快感や嫌悪感から解放されたことに対するものだろう。
きっと彼女にとってはそれが許せないことだったのだろう。
……そんな資格がないのは分かってるけど……何時か……
リウンの悲しみもそうだけど、今のウェニアが垣間見せた心の傷に対して僕はやるせなさと何かしてあげたいという気持ちが生まれてしまった。
こんな弱い僕に何か出来ることはないのが分かっているけれどもそれでも僕は彼女を支えたいと感じてしまった。




