第九話「憎しみと怒り」
「がっ……!?」
大トカゲに腕で薙ぎ払われて僕はそのまま弾き飛ばされて急激な浮遊感と風に包まれた。
それはまるで、バットに打たれたボールの気持ちを体感したようだった。
「ぐっ……!」
直後に僕は石でできた床をまるでボールの様に転がっていく。
この速さならゴロではなく、ヒットだろう。
いずれにしてもとても痛い。
でも、一つ予想していたのと違うことがあった。
それは
あ、あれ……?
僕の身体に傷がなかったことだ。
確かに痛みはある。
しかし、それは立つ際に我慢できないものではなかった。
そして何よりもおかしいのは
……さっき、確かに僕は爪を諸に喰らったのに……
あの巨大で鋭利な爪に当たったにも拘らず僕の身体には切り傷が一つも付いていなかったのだ。
いくら何でもこれは有り得ないはずだ。
この身で味わったあの大トカゲの腕による勢いで分かるが、あの速度で何か刃物のようなものを切り付けられたら普通は無傷で済む筈がない。
本のページでさえ指を切ることだってあるんだ。
ましてや相手の爪は大きさも鋭さも丈夫さもそこら辺の刃物よりも圧倒的に上だ。
明らかにおかし過ぎる。
「……ぐぅう」
どうやら大トカゲも僕と同じく自分の攻撃で僕が死なずとも傷を負っていないことに異様さを感じていた。
今、冷静に見てみるとこの大トカゲに人間らしさを感じてしまった。
しかし、大トカゲと僕には決定的な大きな違いがあった。
それは
「……お前、何をしたんだ?」
この不思議な状況を生んだ理由の手がかりを、いや、答えそのものを知っていると言うことだ。
―何をしたと言っても我はただ貴様が死なんようにしただけだが?―
張本人である魔王は恐らく、ニヤニヤしながら言っているのだろうとても人を苛立たせる上から目線的な口調で肯定した。
「死なないって……いくら何でも―――」
余りの大雑把過ぎる答えに僕は詳細を求めたが
―憎イ!!―
「―――えっ?がっ!?」
突然、頭の中に響いて来た魔王のものとは異なるまるでこの世の全てを呪うような声と先ほど、身体で味わった衝撃によって妨げられた。
そのまま僕は宙を飛んでいく。
そして、
「ぐっ!?」
ガツンとでも岩の音が鳴りそうな程の勢いで柱に背中をぶつけた。
痛ぅ……でも、死んでない……
あんな勢いで飛ばされかなり堅いであろう石柱にも当たったにも関わらず僕は死ななかった。
それどころか、痛みだけで怪我すらしていなかった。
あの大トカゲの強靭な腕から出て来るであろう運動エネルギーと鋭利な爪を喰らい、さらには石柱にも当たったと言うのに関わらず無傷なのは明らかにおかしい。
となると
「……こう言う事かよ?
死なないって……」
魔王の言葉の意味を身を以って僕は知ることになった。
―ようやく理解できたようだな?―
魔王は僕の問いを否定しなかった。
どうやら魔王は何か僕にしたらしい。
「お前、何をしたんだ……?」
僕は一応確認した。
自分の身体に何かされたのだ。それを知らないでいるのは不安だ。
それに魔王は『どれぐらい痛みに耐えられるか?』と訊ねて来たのだ。
それもあってか僕は不安でしょうがない。
―簡単なことだ―
と魔王が説明しようとした時だった。
―憎イッ!!―
「うわっ!?」
またあの憎しみが込められたかのような声が聞こえて、嫌な予感がしたので周囲に気を配っていると再び大トカゲが僕に襲い掛かって来ていた。
僕はそのまま本能のままに後ろへと飛び跳ねた。
しかし、この時頭の中で思い描いていたこととは異なる結果がまたしても起きた。
「……て、えっ!?」
なんと僕は5メートルくらいも後ろへと下がっていたのだ。
これは余りにもおかし過ぎる。
僕は走り幅跳びで男子高校生の平均とも言える5メートルは出せるけど、それは助走あってのことだ。
今の僕は走ってもいないし、何よりも後ろへと跳んだのだ。
それなのにこれは明らかにおかしい。
「……僕の身体のことを強化でもしたのか?」
―そうだ―
ようやく具体的な答えに至ったので確認を求めると魔王は正解だと答えた。
どうやら今の僕は常人じゃ考えられない程に身体能力が強化されているらしい。
しかし、それでもおかしいことがある。
「……いや、でも……いくら何でもそれでも怪我をしない理屈にはならないだろ……」
いくら身体が強化されていても相手の攻撃を喰らったのに怪我どころか傷一つ付かないのは異常だ。
よくRPGとかで防御力とかのステータスがあったりするけどいくら何でも現実じゃあり得ないだろう。
どんなに身体を鍛えようが人は銃で撃たれたら皮膚を破られるし、炎に触れたら皮膚は燃えるし、剣で斬られたら皮膚は斬れる。
いくら何でもこれはおかしい。
―ふん。抜かりはない。
今の貴様には外からの衝撃や刺激や干渉に対して自動的に障壁が生まれる様にしてある……
理解したか?―
そんな僕の疑問を晴らす様に魔王は補足してきた。
「え?それってバリアのこと?」
僕は魔王に自分の認識が合っているのかを訊ねた。
―「バリア」……?
なんだそれは?―
「え?いや、それは……」
魔王は「バリア」の意味を訊ねて来たが僕も元々の意味を知らないので答えに窮してしまった。
この世界で疑問に思ったことだけど、どうしてこの中世ヨーロッパみたいな世界で日本語が通じるのだろうか。
これじゃあ、カタカナ語をどうやって説明すればいいのか分からない。
仮にこの世界から帰ったら確りと言語の勉強はしようと僕は感じた。
―憎イッ!!―
「て、うわ!?」
またもやあの声が響き僕は大トカゲの一撃を受けた。
しかし、その瞬間僕はあることを見逃さなかった。
大トカゲの爪が触れた瞬間、僕の身体と爪の間に何か光の壁のようなものが生じ、爪が僕に当たらないようにとした気がしたのだ。
ただどれだけ阻んでも衝撃は防げず再び僕は飛ばされた。
まるでだるま落としの輪のように。
……これが「慣性の法則」かな?
これが物理の授業で習う「慣性の法則」なのだろうか。
この世界に来てから割と学ぶべきことは多いと言うことを実感させられる。
まさか役に立たないと思っていた物理の授業の知識がこんな所で理解させられるとは思いもしなかった。
……じゃなくて!
のん気な物理の授業や言語の自己勉強の大切さを噛み締めるよりも僕はそれらのことよりも気になることが出来たのだ。。
魔王のおかげで死ぬこともケガもしないで済むようになったし、痛みにも慣れても来た。
しかし、そんな事よりも僕にはどうしても気になることがあるのだ。
「さっきから『憎い』て言っているのはお前なのか?」
僕は先ほどから頭に響き続けるあの憎悪に満ちた声について魔王に訊ねた。
―はあ?なんだそれは?―
魔王は何言ってんだこいつと言ったニュアンスで殆ど否定に近い答えを返して来た。
どうやら魔王が言っている様ではないらしい。
じゃあ、一体……?
魔王でもないとするとこの確かに聞こえて来る声は何なのだろうか。
その正体を詮索している時だった。
「があっ!!」
―憎イッ!!―
「……!? ……がっ!!」
再び大トカゲが襲い掛かって来て同時にまるで一つのセットになったかのように『憎い』と言う声も聞こえて来た。
「痛ぅ……」
傷を負うことも死ぬこともないとは言え衝撃はマトモに来るので痛い。
クラスの連中の一部や王国の兵士に散々暴力を振るわれ、大トカゲに襲われているのにも拘わらずやはり痛いものは痛かった。
慣れるものじゃない。
「……っう……まさか……」
痛みがジンジンと残る中だが僕は気になることが出来た。
それは
こいつなのか……?
先程から聞こえて来る『憎い』と言う声。
その正体を僕は目の前の大トカゲではないかと考えてしまった。
理由としては先程から『憎い』と聞こえるのは目の前の大トカゲが僕を殺そうとしている時だった。
いや……だけど、いくら何でも……
それでも僕は確信が持てなかった。
相手が知性がなさそうな大きなトカゲと言う見た目もあるにはあるが、そもそもなぜ僕が言葉を話しそうにない相手の声を聞けるのだろうか。
それが引っかかってしまうのだ。
そして何よりも僕には気になることがあった。
どうして……憎いんだ……?
仮に本当のにあの『憎い』と言う声が目の前の大トカゲのものだとするのならば、なぜ憎いんだろうか。
今、完全に襲われているのは僕だ。
普通ならば大トカゲが抱くのは『食べたい』とか、食欲を思わせる感情のはずだ。
『憎い』と言うのは捕食者が抱く感情としてはあまりに不自然だ。
―憎イっ!!―
「ぐっ……!」
それに僕は知っている。
その感情と叫びを抱きたくなる理由を。
「なんで、憎いんだよ!?」
―おい、どうした?―
僕は思わず目の前の大トカゲに対して叫んでしまった。
殺されそうになっているのは僕だ。
それなのになんで僕が憎まれなくてはならないのか。
「があぁ!!」
―憎イッ!!―
「くっ……!」
しかし、そんな僕の叫びが無意味だとでも言うのかのように大トカゲは問答無用と僕を爪で切り裂こうとする。
それを目にして僕は
「……このぉ……馬鹿野郎!!」
殴り合いなどしたこともないのに大トカゲに対して感情のままに殴りかかってしまった。
それで少しは気が晴れると僕は思っていた。
しかし、
「ガウッ!?」
―痛イ!?―
「……っ!?」
それは晴れるどころかさらに心の重石となるだけであった。
右拳に重い衝撃と同時に大トカゲは僕が左頬を殴ったことでそのまま転倒した。
しかし、その時感じたのは爽快感ではなかった。
聞こえて来たのは『憎い』ではなく、『痛い』だった。
僕の右手には未だに殴ったことによる痛みがあるが、そんなものよりもとても胸糞悪いものが胸を苦しめ続ける。
『おい、雪川!てめぇ、雑魚なんだから少しぐらい役に立てよ!』
『的役になれよ。それぐらいは役に立つんだからな!』
『この化け物が!』
『勇者の中に魔族がいるなんてな』
『おいおい、雑魚ばっかりじゃねえか?』
『俺たちの役に立てよ?』
「……ふざけんな……」
―……ん?―
ギリと僕の口から歯が鳴るような音がした。
「ふざけるなぁ……!!!」
―……!―
僕は自分の頭に浮かんだ吐き気を感じるこの世界に来てから見て来たことを思い出しその苛立ちを何かにぶつけるように喉が張り裂けても構わないぐらい叫んだ。
「ふざけるな!!ふざけんなよ!!!
なんだよ……なんでこんなに気持ちが悪いんだよ!!?」
僕は思いの丈を叫んだ。
生まれて初めてとも言える他者に暴力を振るうと言う行動の結果に訪れた胸糞の悪さを晴らしたいがために。
「どうして……どうして、こんな酷いことを笑いながら出来るんだよぉ……!!?」
しかし、それでもそれは晴れることはなかった。
辛い。苦しい。悲しい。
僕は殴った。
それは僕が加害者になったと言うことだ。
僕は常に暴力を振るわれる側で被害者だった。
それなのに今の僕は加害者になった。
その結果、僕は辛かった。
本当に気分が悪い。
「正義が味方だったり、法律で捕まらなかったら相手を一方的に殴っていいのかよ?!!
そんなの違うだろぉ!!!」
この世界に来てから僕に暴力を振るってきたクラスの連中や王国の人間たち。
そして、この迷宮に来てから連中は魔物を「狩り」と評して殺した。
奴らは楽しんでいた。
「そりゃ、魔物は化物だよ!!
殺しに来るんだから殺すしかないよ!!
でも、でも……」
僕は泣きそうになりながら
「殺すことを楽しんじゃいけないだろぉ!!!」
怒りと悲しみを世界にぶつけるように叫んだ。
どうしてあんな風に軽々しく暴力を振るえる。
なぜこんなにも恐いことが出来るんだ。
なんでそれが楽しいんだ。
理解できなくて悔しくて僕は泣くしかなかった。
「ガアッ!!」
―憎イッ!!―
「がっ……!!?」
僕が心のままに自分に降りかかった暴力と初めてに等しい暴力を行使したことへの苛立ちをぶつけていると大トカゲは憎悪のままに尾で僕を薙ぎ払った。
殴られたことに怒りを込めるように。
感情を爆発させて隙があり過ぎた僕はその力強さもあって避けることも受身も取れず僕は倒れた。
怪我も死にもしないとは言え身体中に痛みが走る。
「ぐうううううぅぅぅうううッ……」
―憎イ―
「……っ!」
獲物を殺せたり弱らせたりしていないとは言え、痛めつけることは出来たのに大トカゲは相も変わらず憎しみを抱き続ける。
それを感じて僕はなぜか悲しかった。
だけど……!
それでも僕はすぐに起き上がった。
「ガアッ!!」
―憎イッ!!―
「くっ……!」
再び襲い掛かって来た大トカゲを僕は避けた。
「クソぉ!!」
「ぐぎゃ!?」
―痛イッ!?―
「僕だって生きたいんだよ!!」
僕は大トカゲの胸目掛けて足に力を入れてそのまま前に飛び掛かりながら右拳を突き入れた。
大トカゲの悲鳴がまるで訴える様に僕の耳に響き渡る。
それはとても苦しかった。
なんでこいつが憎むのかわからない。
もしかすると、仲間の魔物たちを人間に殺されてきたかもしれないし、親や兄弟と言った家族を奪われたからかもしれない。
確かに魔物だからと言って住処を荒らされ殺されたりしたら人間を憎むのは当たり前だ。
それは僕も共感できる。
いや、僕だからこそ共感できるのだ。
でも、僕だって生きたい。
だから
戦うしかない……!
戦って勝つしかない。
本当は戦うなんて嫌だ。
もちろん殴られるのも痛いのも嫌だ。
でも、相手を殴るのも嫌だ。
戦うのがこんなに恐いことなんて知らなかった。
だけど、僕だって生きたい。
死にたくない。
「グウ……ガッ!」
―憎イッ!―
「くっ……うあああああああああああ!!」
大トカゲはあんなにも『痛い』と叫んだのに再び襲い掛かって来た。
どうして逃げないのか理解できない。
痛いなら逃げればいいのに。
やむを得ず僕も渾身の力を込める様に足腰を据えて右腕を後ろに構えて右拳に力を入れ、そのまま
「終われえええええええええええええぇえぇええぇぇえぇええぇえぇ!!!」
「グッ!?ギャアアアアアアアアアアアアアア!!?」
―痛イッ!?痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ痛イ!!?―
戦いが終わって欲しいと願って迫り来る大トカゲを迎え撃つように僕は大トカゲを殴り飛ばした。
そして、大トカゲの苦痛を訴える声が僕の頭に響き渡る。
「ハアハア……!
ウッ……!?おえぇ……!!」
響き渡る声に耐えられず僕は吐いた。
まだ戦いは終わっていないかもしれないのにも拘わらず隙を作ってしまった。
僕はまだ吐き気が収まっていないのも気にせずにすぐに大トカゲの方へと顔を向けた。
「フッー……フッー……フッー……」
―痛イ……痛イ……痛イ……―
だけど、その危惧は不要なものであった。
既に立ち上がる気力もない大トカゲがすぐにでも息が切れそうになりながら横たわった。
勝ったのか……?
どうやら僕の最後の一撃が決め手となったらしい。
だけど、勝ったと言うのに僕は喜べなかった。
―痛イ……痛イ……痛イ……痛イ……痛イ……―
弱々しい大トカゲの訴えを耳にして僕は目を閉じた。
そして、そのまま
「……ごめん……」
大トカゲの近くに座り、自分でも馬鹿で身勝手だと感じながらも大トカゲの痛んでいるであろう場所を撫でた。
自分を二度も殺そうとした相手だと言うのに僕はこいつの痛みが少しでも和らぐ様にザラザラとした皮膚を撫で続けた。
昔、怪我をした時に母さんに『痛いの痛いの飛んでけぇ~』と優しくあやされた時のように。
それを僕は魔王が来るまでの間、続けようと思った。
実際、殴っている相手の感情が自分の頭に響いてきたら気持ち悪くなると思います。




