お騒がせな猫たち
煌々とした光を放つ満月は刻々と天頂に近づいていた。じっとりと湿り気を帯びる生ぬるい風が、黒いシルエットになった木々の葉をざわりと揺らした。
吸血鬼と人狼という、人間も人間ならざる者も恐れる魔物の2大代表格の決闘が行われるに、まこと相応しい夜。
――が、肝心の吸血鬼は、約束の時刻が迫っているというのに、のんびりと自分の館に居座っていた。暖炉の前のソファに陣取り、のんびり茶なんぞを啜っていっかな動こうとしない。
「何だ、まだいたのか?」
居間のドアが開き、彼の異母兄がその姿に気付いた。外出用のコートをまとったその姿は、彼がこれからどうしようとしていたのかを容易に想像させた。
「ふん、何で俺があんな単細胞と訳分かんねぇ理由で喧嘩しなきゃなんねーんだ」
「ほう」
そんな兄の方を見ようともせず、ふてくされた顔でカイルは答えた。その口調は、まるで家庭教師に逆らう生徒のように子供じみている。黄金の眼に軽い失望が浮かぶ。
「では、人狼の不戦勝か」
「ぶはっ!」
ぼそっとした何気ない呟きに、カイルは口に含んだ紅茶を吹き出した。
「……」
たったの一言。だが、それはカイルが目を背けていた一番痛い言葉。
争い事は嫌いだが、負けるのはもっと嫌いだ。しかもそれが、巻き込まれたとはいえ売られた喧嘩なら、もっと悔しい。しかもしかも、それが兄貴とか、同レベルの吸血鬼同士との戦いだと言うのならともかく、狼なんぞに、戦わずして勝利を譲る?
人間の伝承上では、人狼は吸血鬼の僕とされている。そんな立場の者から逃げ出す吸血鬼…それはあまりに情けない。
( まあ、仕方ない。お前ではその程度だ)
目は口ほどに…と言うが、無言のまま、げほげほとむせている弟を眺めやるラルクの冷めた視線は、正にモノを言っていた。
「た、タダの喧嘩なら、負ける気はしねーよ!だけど…」
ざくざくと突き刺さる視線の矢に耐えかね、カイルは口元を拭い、ラルクに向き直った。
フリートを叩きのめせば、放浪する必要のなくなったノワールは今度こそこの館に完全に腰を据えるだろう。だからと言って、カイルの気性ではそんな彼女を冷たく追い出せる訳がない。そうなると、思いこみの激しいケイの事だ。今度は一体どうなるか――
「どちらにしろ、一旦受けた勝負をお前が放棄すると言う事実は変わらない」
その勝負を押しつけたのは、どこの誰だろう。そんなツッコミを、この無敵な黄金の吸血鬼に出来る者が果たして存在するのだろうか。
「わーったよ!とりあえずあいつだけはぶっとばして来る!!猫の話はそれから考えらぁ!!」
相変わらず単純明快。負けず嫌いの単細胞。愛用のコートを召使いから引ったくるように受け取ると、ラルクを残し乱暴な足取りで彼は居間を出て行った。
「長生きするな、あいつは」
不死を謳われる種族にあるまじき言葉を、ラルクは微笑と共に呟いた。それは天使の微笑みであり――悪魔の含み笑いにも見えた。
玄関の扉にかけた手に力を込める寸前、カイルは、つと階上に目をやった。二階のケイの部屋。顔を合わせないまま、何日経ったろう。
「……」
人狼男と戦う前に会って、せめて誤解を解いておきたいと思ったが、きっと今夜のことが決着付くまで部屋のドアが開かれることはない。
「ったく、あの意地っ張り」
カイルは大きく舌打ちし、重い扉を押し開けて自らの館を後にした。
「カイルのばかああっ!!」
ガリガリガリっと擦過音が連続して響き、新たな引っ掻き傷が真紅の絨毯に増やされた。
部屋中、床から天井に至るまで無惨な白い傷だらけ。綺麗に刺繍が施されたお気に入りだったクッションも、今やずたずたになって床に綿をまき散らしている有様だ。
「…っく、ひっく……えっ、えっ……」
真っ赤に泣きはらした目で、ケイは部屋の窓から見える夜空を見上げた。
天頂に煌々と輝くのは、紅い満月。――約束の日。カイルがノワールの為に戦う……
「ぶわかぁっ!!」
突き立てた爪が、再び絨毯を引き裂いた。
「カイルなんか…カイルなんか!!大っ……」
そこから先の言葉は、喉から飛び出す寸前に止まった。
言えない。言えるわけがない。もう、何日会ってないだろう。会おうと思えば会えたのに。時々、部屋の前に来てくれた気配は感じていたから。でも…
ちょっとだけ、意地を張っていたことを後悔した。寂しい。
カイルに引き取られた夜を思い出した。信じてた人間に裏切られ、もう誰も信じないと思っていたのに…
『――何なら、俺の所に来るか?』
どうせ要らなくなるんだったら、どうしてあの時あたしを呼び止めたんだよ。
今だってはっきり覚えてる。あたしに差し出された手。引っ掻いたり咬み付いたり、あんなにあんなにひどいことしたのに…どうして――あんな優しい目で…
止まりかけた涙が、またもぼろぼろと緑の瞳から頬を伝ってこぼれ落ちる。
「ケイ」
突然の声に、ケイは驚いて伏せていた顔を上げた。
「あ……」
大好きな大好きな人の姿が、いつの間にか、目の前にあった。
「カイ…ル……」
誰よりも大切で、いつだって側にいたくて――
「今夜、行くんじゃ…なかったの…?」
白い手が、ケイの亜麻色の髪を梳いた。
「何処にも行かないよ」
穏やかに笑い、彼は優しくケイを抱き寄せた。
細いけれど、力強い腕。
すごく久しぶりだった。 こうやってカイルの胸に頬を寄せるのは。ここは、こんなにも安心できるものだったんだ…
ケイの耳元で、カイルが囁いた。
「あいつやノワールなんて、どうだっていいんだ。だって、俺の一番大切なのは……」
最後の言葉が、何故か小さくなって聞き取れない。
「カイル?なに?」
それはきっと、ケイが一番聞きたい言葉――
「…あまり爪を立てられると、一張羅に穴が空いてしまうんだが」
がらりと変化した声に、ケイはびっくりして顔を上げた。今、自分を見下ろしている顔は…
「ふぎゃああっ!!」
悲鳴と飛び退くのと、どちらが早かっただろう。
今までケイがひしと抱きついていた相手は――
「自分からしがみついておいて、悲鳴を上げることは無かろう」
カイルとほぼ同じ体格、でも――
「な、な、なな……」
天下無敵の美貌の主が、どことなく傷付いた顔をして憮然と立っていた。
「ななな、なんっっっでラルクがあたしの部屋にいるんだよっ!」
涙は一気に引っ込み、恥ずかしさと困惑と怒りがごっちゃになってケイの顔を紅く染めた。尻尾どころかうなじの肌まで逆立っている。
「たまたまお前の部屋の前を通りがかったら、珍しく静かになっていたからな」
てっきりカイルの後を追っていったのかと思い覗いてみたら――と言うわけだ。
「ふぇ…?じゃ、じゃあ……」
今のは、夢?カイルはやっぱり――
「カイルは、もう行ったぞ。約束だからな」
ラルクの言葉に、ケイは糸が切れたようにぺたんと床に座り込んだ。
「そ…っか……」
全ては夢に過ぎなくて。あたしは…カイルにとっては、何の必要も無い存在でしかない、んだ――
「あたし、ここを出なきゃ行けないのかな…」
ぽつりと呟くケイの言葉に、窓から月を見上げていたラルクが振り返った。
カイルがいくら争いは嫌いだっていったって、狼なんかにむざむざと負けるわけがない。だって、彼は吸血鬼なんだもの。とても強くて――
そしたら、ノワールは今度こそカイルのものになる。同じキャットウーマンなら、ノワールの方が容姿もいいし、自分の気持ちを素直にぶつけられる。…あたしは、邪魔なだけ。
マイナス思考ばかりが頭の中で渦を巻く。
「弱くなったものだな、お前も」
ラルクの声に、再びケイは涙目になった瞳を上げた。
「初対面であいつを半殺しにしたヤツと同じとは思えんよ」
言い放つ言葉は冷たいのに――その口調はどこか優しくて。
思わずケイは、ラルクの顔をまじまじと見てしまった。妙なる美貌は相変わらず。だが、
「あまり使いたい手ではなかったが…」
ため息混じりに、ラルクは口を開いた。
カイルの館から一番近い村の、はずれにひっそりと忘れられたように佇む朽ち果てた墓地。その真ん中で、フリートは既に待ちかまえていた。
「へっ、臆病風に吹かれて逃げ出したかと思ったぜ」
赤い月の下、未だ姿は人のままだが、両眼は既に闘志のあまり血光を帯びている。彼は狼。狩りと戦いを本質とする獣だ。人狼である彼と渡り合える者はそうそうおらず、久しく全力を出した喧嘩などしていない。だが今回の相手は吸血鬼。 相手に不足は全くない。今、最高の敵を前にした彼は、ノワールを取り合う…と言うことよりも、思う様戦える喜びの方が大きいのかも知れない。
対する穏健派のカイルは、うんざりした顔と声を隠そうともしなかった。
「俺としては、お前がノワールをかっさらって逃げてくれれば大歓迎なんだけどな」
墓地の中に佇む、漆黒の優美な細い影。その中に潜む、強大な力。今は静かな黒い瞳がひとたび赤く染まれば、それは血を求める。彼は、吸血鬼なのだから。
「へっ、よく言うぜ。人間の血だけ啜ってりゃ良いものを、生憎だがノワールにゃぜってぇ手を出させねぇからな」
「…あのな、今の俺の言葉で、どこをどうひっくり返したらそんな発言が出て来るんだよ」
駄目だ、いくら言っても、この単純バカは納得してくれそうもない。カイルは今夜何度目かの大きなため息をつき、説得を諦めた。元々、話し合いで何とかなるとは思っていなかったが。
「じゃあ…そろそろ始めようぜ」
フリートの両眼がぎらりと光り、肉体がざわざわと変化を始めた。シャツが破れむき出しになった筋肉質の上半身も、荒削りの粗野な顔も、全てが灰色の毛に覆われていく。ばくりと割れた口に並ぶ鋭い牙。
赤い月に向かって、彼は大地を揺るがさんばかりに一声吼えた。それが、変身の終了であり、戦いの合図。
咆哮と共に、狼が頭から突っ込んできた。体格は人身だった時のおよそ1.5倍。それが灰色の弾丸よろしく襲いかかってくるのだ、人間なら自分が何に襲われたのか分からないままその口に噛み砕かれて終わりだろう。
だが相手は人間ではない。狼を超える魔物、ヴァンパイアだ。カイルにはその動きが易々と視える。フリートの牙に捕らえられる寸前、彼はひらりと身を交わした。
勢いの付いた身体は止まらず、フリートは顔面から墓石の一つに激突した。御影石で造られた墓石は、チーズの様にぼろぼろと砕け、破片を辺りにまき散らす。衝突の衝撃の凄さを物語っているが、こんな事で死ぬなどとは思っていない。すぐに彼は身を起こし、再びカイルに向かって飛びかかっていった。
今度はカイルは避けなかった。右手を、跳躍する狼にすいと向ける。
ギャウンッと犬の様な甲高い声が上がった。手を触れてもいないのに鼻面を切り裂かれ、フリートはのけぞった。
これで少しは戦闘意欲がそがれたか…と気を抜いたのは、カイルがやはり甘いせいだろう。その油断を見逃さず、獣は黒い風の様に再び襲いかかった。
「やべっ…!」
凄まじい速さで繰り出された鋭い黒爪がカイルの顔面を襲った。赤い飛沫が、月光の中に舞った。
深追いせず距離を取ったフリートが、離れた場所でぺろりと口元を舐めた。それは、切られた鼻面から垂れた己の血か、それとも――
「…て、めぇ……」
呻く様な声を上げたのは、体制を崩し片膝を付いた姿のカイル。その左頬は片手で隠されているが、指の間から細い筋を描いて流れる赤い血。
「これであいこだろ」
狼の裂けた口が笑う形に吊り上がる。
人の血を求める吸血鬼が己の血を流すなど、何たる屈辱。
カイルはゆっくりと身を起こし、離した左手で頬を乱暴に擦った。血が拭われると、そこには既に塞がりかけて糸の様にうっすらと見えるだけの傷の跡。それでも、彫像の様に美しく白い肌にはとても似つかわしくない。
「そんなに血が見たいんなら、見せてやろうじゃないか。狼野郎」
きぃん、と空気が冷えた。黒から赤へ。フリートの血眼よりももっと濃い、真紅へと移ろったカイルの瞳。掌に付いた自らの血を赤い舌が舐めた。口元から覗く鋭い牙。今そこにいるのは、腰抜けの軟弱な優男などではない。
夜の王――おお、これこそ吸血鬼。
壮絶と言えるその美しさに、フリートの背を戦慄とぞくぞくするほどの歓喜が這い上った。それは初めて手応えのある相手と巡り会えた悦び。弱くない、蹂躙するだけでは無い獲物をこの爪で引き裂けるのだと。
静から動へ。ふっと、黒衣の姿がかき消えた。
「!」
いかな人狼とて夜霧に紛れた吸血鬼の姿を見極めることは不可能だ。それを補う鋭敏な彼の鼻は、匂いが背後に流れたことを嗅ぎ取った。咄嗟に伏せた頭上を凄まじい風が薙いだ。次いで繰り出した蹴りは勢いこそあるものの空を切り、
「ギャンっ」
彼の身体は固められていた。背後から首に回された黒い袖が、この細腕のどこにこんな力が隠されているのかと思うほど締め付けてくる。
唸り声を上げて懸命に振り解こうと暴れてみたが、鋼の様に力は緩まない。
「覚悟はいいか」
耳元で冷たく囁かれた声に、フリートは戦慄した。虫も殺さぬ様に見えたあの優男の本性が、これか。囁かれる甘い死への声。これが、吸血鬼か。
「あばよ」
餞別の言葉と共に、カイルの爪が閃こうとした瞬間
「なーにいつまでバカなケンカやってんのさ」
墓場の周りを覆う木立の上から、嘲る少女の声が降ってきた。はっとカイルの腕が緩み、その隙にフリートは身をかわして抜け出すと、離れた場所から声の主を見上げる。男二人の視線を、彼女は受け止めた。細技の上に座り、二人を見下ろすケイがいた。
「狼さん、黒猫はもう、ここにはいないんだよ。気付かなかったの?」
にまっと笑ったケイの言葉に、フリートは激しく動揺した。カイルにとっても、それは寝耳に水。男二人のぽかんとした間抜け面は、先ほどの死闘の殺気を一瞬で吹き払ってしまった。
「…んだとっ?!どう言うことだ?吸血鬼!!」
「俺に言われたって知るか!」
フリートはカイルの館の方角へと鼻先を向けた。しばらくクンクン鼻を鳴らした後、悲鳴のような吠え声を上げた。
「あ、あの女…!あっちは……東の街か!?」
吸血鬼との戦いは確かに心躍ったが、彼が求めているのはノワールなのだ。
「あばよ、吸血鬼。もう追っかけて来るんじゃねーぞ!」
月に一声吼えると、狼はもはや二人を顧みることなく街道へ続く道を四つ足の姿で走り去ってしまった。…途中、狼狩りにでも遭わなければいいが。
さて、一気に静かになった墓地に残された、吸血鬼と猫娘。
「カイルは追わないの?」
枝から下りようともせず、ケイはカイルに呼びかけた。その口調と表情は、最初に会ったときと同じで、どこか余所余所しかった。―― 痛々しいほどに。
「何で俺が?」
カイルは、風で乱れた黒髪を指で掻き上げた。すでに黒い穏やかな瞳が、ケイを見上げる。
「俺とお前の住む家は、ここだからな」
ケイの表情が揺れた。
「おいで」
あの夜と同じく、手が差し出される。少年の様に、どこか照れた、はにかんだ表情も、あの時のまま。ケイから、意地っ張りの仮面が剥がれ落ちた。
「カイルぅっ!!」
涙と笑顔でくしゃくしゃになった顔で、ケイはカイルの腕の中に飛び込んだ。黒衣の両腕がしなやかな身体をしっかりと抱き留める。
夢と同じ。でも、これは夢じゃない―― !
そんな恋人達の姿を、別の木立から見下ろす影が一つ。彼は、ほんの数刻前の会話を思い返していた。
「どこへ行く?」
「ニャっ!」
唐突に静かな声がかけられ、こっそりと窓から抜け出そうとした黒猫は飛び上がった。
「お前の為に二人の男が争うと言う日に、当人が夜逃げとは」
観念したようにノワールは人型に姿を変え、ラルクと向き合った。
「ふう、やっぱり貴方は誤魔化せないわね」
カイルは既に墓地に向かっている。
「カイルさんはとても素敵だけど……あたしが取ったら、ケイ、泣いちゃうから」
悪戯っぽく、ノワールは笑った。
「それに――あたしは、気ままな野良猫生活も気に入ってるしね」
「お前、フリートの事を、どう思っている?」
唐突なラルクの質問に、ノワールの頬が何故かさっと紅くなった。
「前も言ったじゃない!あんなしつこい男!!」
激しい口調にも全く動じる様子の無いラルクを見て、彼女は怯んだ。
「まあ、いつかは素直になってやるんだな」
その一言で、彼は全てを見抜いてるのだとノワールは分かってしまった。
「……ケイに伝えてあげて」
小悪魔のような微笑を最後に浮かべ、ノワールはウィンクをひとつ彼に披露した。
「男はね、ちょっとくらい焦らした方がいいのよって」
「案外、つまらん終わり方だったな」
誰にも聞き取れない小さな声での、ラルクの呟き。
託されたノワールの伝言。彼としては、戦いの決着が付くまで伏せているつもりであったのだが――
眼下では、寄り添う二つの影。たまには情にほだされるのも、悪くはないか。
ひとり結論付けると、黒衣の輪郭が揺らいだ。思う存分旅の疲れも癒したことだし、出演者も消えた。もう彼がここに留まる理由はない。
「また、新しい狂騒曲のシナリオを待つことにしようか」
館へと歩き出した影達を最後に見て、黒い霧は夜空へと溶け込んでいき、後には誰もいなくなった。