束の間の逢瀬
九百年前。
世界は死に瀕していた。春が巡っても花は咲かず、大地は土をむき出しにしたまま。折れた木々は風化して、崩れた建物はただの土くれと化している。
その死んだ世界に、命の春が訪れることはない。
しかし、一か所だけ、変わらず春が訪れる場所があった。
世界図書館。世界から隔絶された場所。
そこで彼女は広い庭先に腰を下ろして空に顔を向けていた。
「いつまでそんな辛気臭い顔をしてるんだい? ロエル?」
エイン・F・オリジン。
「ああ、いや、辛気臭い顔をしてるのはいつもか」
それから横に座る青年の方を向いて楽しそうにくつくつと笑い声を上げる。
青年、ロエル・Voiからの返事はない。
それは特に珍しいことではなく、だからエインはいつものように独り言のように話を続ける。
「ああ、ロエル。僕はね、今凄く感動しているんだ」
とつとつと。
「どうしてだと思う?」
けれど恍惚とした表情で。
「それはね、こんなに傷付いた世界でも空には美しい星が輝いているからだ。こんな世界でもまだこの星空を美しいと思えるからだ」
輝く星々を見据えて。
「だから、僕はこの美しい空をいつまでも見ていたい。見ていてほしいと思う」
伸ばした手が空に届くことはない。けれど、彼女は乾いた風に美しい黒髪をさらしながら満足げに笑う。
「僕の、愛しい愛しいこども達に」
「……良いのか、お前は」
ようやく口を開いた青年の鬱々とした声にエインは驚いた表情をした。
「心配してくれているのかい?」
その顔でじっと相手を凝視する。
「心配、じゃない」
すると、ロエルはさも不愉快だと言わんばかりに眉間に皺を寄せて首を横に振った。
「嫌なんだ」
思わず口をついて出たような言葉。それにエインは眉尻を下げた。
「……久し振りだね。君がそんな風に自分の思いを語るのは」
ドレスにも関わらず、周りの目も気にせず膝を抱えるエイン。膝に顔を埋めながら横目でロエルの方を見た。
「君は昔から口が達者な方じゃなくて、それでも意思の疎通に問題はないから僕はそれをあまり気にしたことはなかったけれど、こんな時ぐらいはちゃんと言ってくれて良いんだよ。いや、こんな時だからこそ言ってよ。ロエル」
思わず本音を漏らした恋人。だからエインも素直にそう言った。
「………………」
「何で黙るのさ」
しかし、相手から言葉が返ってくることはない。エインの顔に苦笑いが浮かぶ。
するとロエルが急に身を乗り出した。そして柔らかい芝生の上にエインを押し倒す。
その勢いのまま唇が重ねられる。
いきなりではあったが、エインは抵抗しなかった。
「は……っ」
数秒。口が離れる。エインの口から細い溜息が零れた。
すぐ近くにあるロエルの顔を見ると真剣な眼差しがそこにある。
「ロエル」
エインの胸が愛しさで痛んだ。彼女はロエルの頬に片手を添えるとまるで言い聞かせるように呟く。
「悲しまないで。大丈夫。ほんの一瞬だから」
その口調からは普段の飄々とした様子は感じられない。ただ真摯な思いが、心のままに口から発せられる。
「君に僕しかいないように、僕にだって君しかいない。君がそのほんの一瞬を耐えてくれるなら、僕はすぐに君の元へ戻ってくる」
信じて。その言葉がロエルにどう響いたのか、それをエインは知ることが出来ない。
でも
「なんで、お前が……」
そう苦しそうに呻く声に、思いが通じたことだけはわかった。
「あの子にはもうやらせたくない。なら、僕がやるしかない」
触れる頬に温もりを感じながら、エインは僅かに唇を噛んだ。
「……元々は僕が身勝手に始めたことだ。そして、彼女はもう十分に『役割』を果たした。もう解放してあげたい」
そして小さな声でそう呟いた。
「勝手に初めて、勝手に終わらせるのか……」
「うん。本当に自分勝手だなとは思うよ」
「それで一体、どれだけのこども達が苦しむと思っているんだ?」
「たくさん。世界中にいるこども達が苦しむだろうね。僕の我が儘に。それに巻き込んでしまうのは本当に申し訳ないと思う」
ロエルがいくら責め立てても、エインは止まらない。むしろ、そうして言われれば言われるほど、状況は進んでいく。
それはロエルだってわかっているはずなのだ。でも、エインが『言って』と言ったから、彼は自分の思いを語る。
それはどこまでも彼らしくて、エインは今にも泣き出しそうな顔をした。
「だけどね――」
それでも、堪えて言葉を続ける。
「今まで散々、あの子達は我が儘を通してきたんだ。そして、それを聞いてあげられなかった僕は全てを彼女に投げてきた。
今にして思うよ。どうしようもない親だったなって。どうしようもない『家族』だったって。
だからもう、彼女に聞いてもらうのはやめる。僕が黙って見ているのをやめる」
止まらないエインの頬にロエルの手が触れた。その手に縋り付くように頬を摺り寄せる。
「……やり方は間違ってると思う。でも、他に思いつかないんだ。これ以外で僕がけじめを付けられる方法が」
ロエルは優しくエインの頬撫でると、その手をゆっくりと離した。
エインは少し名残惜しそうにロエルを見ると、不意に表情を緩める。
「信じてくれないかもしれないけど、僕はね、珍しいことに反省しているんだよ」
そうしてエインは困ったような、無理矢理作ったような笑顔を浮かべた。
「こうして気を張っていないと今すぐにでも泣き崩れてしまいそうなほど、後悔しているんだ」
エインはすっとロエルの頬に両手を添えると、自分の方に引き寄せた。
「ねえ、ロエル」
そして吐息と共に、震える声で囁く。
「今夜だけで良いから、今夜だけは僕を、慰めて」
そして触れるか、触れないか、ぎりぎりのところで止める。
一瞬、濡れる瞳と乾いた瞳が交錯して一歩を踏み出したのはロエルだった。
そして別れを惜しむ恋人達は死した春の空の下。二人きりの夜を過ごす。




