第三章・一話
好きと嫌いの境界線があやふやになり始めたのはいつだろうか、たぶん二次元の恋に恋してる、妄想腐女子になってしまったことが原因だと思われる。
一般の人間に求めることをやめて、許容値を大幅に広げて、自分をごまかした。
だから、人に怒りを覚えたのは本当に久しぶりだった。
「え、花さんと部長は同い年じゃないですよ」
暇な時間に会社の後輩とおしゃべりをしていると、思わぬところで思わぬものを拾い上げてしまった。
我が部の部長はだらしがないというか適当というか、とにかく風変わり。親の七光で部長の座につき、とりあえず仕事を片づけるだけのお飾り、責任は会社が背負ってくれるらしい。万年課長の位置から動けなかった平沢さんがかわいそうだ。
部長の名前は猪頭辰之助。今どきにしてはなんともいかつく古風な名前である。さっきの情報によると年齢は私の一個上で三十三歳。
彼は仕事よりも、職場の仲間と仲良くすることに重点を置いており、新入社員には人気だが、年寄達には人気が無い。かくいう私も彼が嫌いだ。
彼が年齢を偽っていたことについては、推測でしかないが心当たりがある。
それは、私が彼に敬語を使うのをやめないからだった。
「部長、お話があります」
いつもは無表情、年より共からは嫁に行けないぞとけなされる仏頂面が今、阿修羅に顔を変え、部長のデスクを強く叩く。
「な、何ぃ? 怖いな花さん、リラーックス……」
ひきつった笑顔が気持ち悪い。体はプロレスラーのように鍛えているのに、中身がなよなよしている。きっと甘やかされて育ったのだと、今の私は彼をとことん心の中でけなす。
「部長の方が一つ年上と聞きましたが」
「な、何かの聞き間違いじゃないかな? 」
「……申し訳ございません。無駄話は今後控えるように致します。それでは、まだ仕事が山積しているので、失礼します」
怒気に満ちた顔で、部長にそう吐き捨てる。彼はばつの悪そうな顔で笑っている。
久しぶりに怒ってしまった理由は簡単だった。彼が異様に渡しに構ってくるのだ。つまり、他の人間とはコミュニケーションすらとらないから、大した衝突も起きなかったのだが、自分に対して一定以上の好意を寄せて接してきた人間の行為が、人をだますようなものであったことに、悲しみ二割怒り八割の様相を呈していたのだった。
深いため息をもらし、実際午前中にほぼ終わらせてしまった仕事の見直しと、今後の資料の作成にとりかかろうとしたとき、携帯が鳴った。
「そんな季節か……」
美術大学卒業で、私は一般企業に就職した。つまり、芸術の才能は残念ながらなかったといわけだ。
未だに教授とはかかわりがあるし、理論や歴史について、後輩に教えられる部分もあるので、たまに学校にお邪魔している。今回のメールは、夏個展のお知らせだった。
中間発表や、新作発表、そしてチャリティーを兼ねた個展である。
『……それと、同じ会社じゃなかったかな? うちの生徒がそっちに就職したと思うんだが』
最後に名前もかかれていて、本人に了承を得たのか気になった。
「佐藤孝幸……うちの部署じゃないな」
まだ昼休みは少しあった。私は他の部署へと、佐藤孝幸を探しに行った。
世界は狭いとは言うけれども、本当に見つかるとは思わなかった。しかも、運命の相手である。
私の場合彼は、恋人とかそういう目線の相手ではない。私がこの前街で見かけた正真正銘のゲイなのである。
いままでコミックや小説などでしか見たことが無い世界が、いざ目の前に現実としてあらわれると、得も言われぬ興奮を覚える。しかし、私はそれを上手く顔に出せないので、やはりいつもの仏頂面である。
私が誘うと彼は、ふたつ返事で了承してくれた。
何かしらのハプニングを期待しながら、私は先ほどの怒りを忘れていた。