見えない君と、キスをした。
――彼女は準透明人間だった。
転校生が来るらしいと噂になったのは、高校二年の春のことだ。
直接見たクラスメイトが言うには、氷柱からしたたる水滴のような美しさと儚さを併せ持った少女だったという。
噂が立ったあの日から、教室の空気はどこかそわそわしていた。僕自身も、登校の足取りがほんの少しだけ軽くなっていたように思う。
◇ ◇ ◇
当日。
僕は、その転校生が退屈な日常を変えてくれないかと期待していた気がする。あわよくば友達……もしくはそれ以上になれないものかと。
先生の呼びかけで、ガラリと静かに扉が開く。クラス中の視線がそこに注がれ、皆が固唾を吞んで見守っていた。
しかし、開いた扉の先に人影はなく、誰かが入ってくる気配もなかった。もしや、ドッキリか何かなのか?とすら思う。
そんな疑いはすぐに打ち砕かれた。教室がざわつき始めたのだ。転校生がいつまでたっても来ないことへの困惑かと思ったが、どうもおかしい。
皆が同じ方向に視線を向け、男子に至っては頬を赤く染めている。
……皆の視線の先には何もなかった。
まるで、僕だけ見えていないかのように。
そんなことあるはずがない。でも、この空間で異物になってしまった感覚が、少しだけ息をしづらくした。
「なあ、足立。転校生って今どこにいる?」
浅い息をしながら、隣の席の足立に話しかける。彼はこちらを見ずに答えた。
「どこって、そこだろ」
と、足立は空中を指差した。やはり“何か”いるのだ。再び前の方に視線を移す。前方には生徒の姿はない。ただ、一つだけ違いがあった。
……チョークが、独りでに動いていた。風もないのに黒板に白い線が走る。
コッ、コッ、カコッ。まるで意思を持ったみたいに動くチョークは、何やら文字を書いたあとに動かなくなった。黒板には『藤森灯花』という名前だけが残っている。
脈がドッ、ドッ、とジェットコースターのように早まるのを確かに感じる。脳が状況を処理しきれない。これは悪ふざけの類だと言い張りたかった。
ただ、僕の期待は彼女の一言で瓦解した。
「転校生の藤森灯花です。これからよろしくお願いします。ええと、あと「準透明人間」なので、……見えなくても気にしないでください」
店員の呼び出しベルのように、彼女の声はよく響いた。とても綺麗で、凛とした声だったと思う。
……彼女の姿が、どこにも見えないという点を除けば。
「準透明人間」の意味については、後に担任の先生から説明があった。見える人と見えない人がいるそうで、「幽霊人間」と呼ばれることもあるらしい。
◇ ◇ ◇
藤森灯花が転校してきて一週間が経った。
僕以外のクラスメイトには、ちゃんと姿が見えているらしい。彼女の席は窓側の前から二列目――そこに“何か”いるのは分かる。みんながそこに向かって話しかけ、笑い、視線を送っているからだ。
……ただ、僕から見ればそこはただの空席だ。
椅子がぎしりと軋む音や、転がり落ちる鈴のような笑い声が、彼女の存在を辛うじて示していた。
「ねえ、灯花ちゃん。昨日のドラマみた?」
「うん、見た!めっちゃ続き気になるよね」
空席から、少し砕けた調子の声が響く。声は聞こえるのに姿形は見えない。彼女の明るいであろう表情も、その仕草も僕の瞳には映らない。
――見えないというのは、想像以上に気味が悪い。
彼女は、僕に起こった「異常事態」を特に認識していないようだった。これまでも見えない人はいただろうから、その反応も当然かもしれない。
「あの、藤森さん。昨日の数学の課題終わってなくて。……教えてくれない?」
「あ、うん。オッケーだよ」
ここ数日の教室は、明らかに彼女を中心に回っていた。僕だけがクラスの輪から外れてしまった気がして、また息が浅くなった。見えないというだけで、こんな気持ちになるとは思ってもみなかった。
◇ ◇ ◇
その出来事が起こったのは、藤森灯花が来てから二週間目のある日だった。
この日は、週番の日誌を忘れていたせいで、放課後の教室に残ることになってしまった。
椅子のガタガタ音やロッカーが閉まる音が遠のいていって、沈黙が来る。
カッ、カッというシャーペンが立てる音。しばらくはこの音が、僕の世界の主役になるはずだった。
その声さえなければ。
「ねえ、【僕の姓】君。日誌書き終わりそう?」
降ってきた声は、冬の毛布のように優しく、思いやりに満ちたものだった。
僕はその声の主を探して、教室をぐるりと見渡して見る。けれどそこには誰もいなかった。
じゃあ、声はどこから?呼吸が一瞬だけ止まる。
……もしかして、幽霊?
最近の幽霊は、日誌の心配もするのだろうか。
いや、違う。僕の席の前には、西日が引き延ばした影があった。そこには何もなく、あるはずのない影だった。
身長よりも伸びたそれは、時間の経過と「準透明人間」の存在を僕に理解させた。
「ええと、藤森……さん?そこにいる?」
僕は半信半疑ながらも、影がある方向に向かって声を掛ける。彼女の声がなければ、彼女を認識できないのは、幽霊よりずっとたちが悪い。
「いるよ。ていうか、ずっといたよ?」
彼女の答えは、とても平然としていた。まるで、お腹が空いたから何かを食べるみたいに。
「あ、【僕の姓】くんは、私のこと見えないんだっけ?」
彼女は、慣れた口調でそう言った。僕は、鈍器で殴られたみたいな衝撃を受けた。頭は熱いのに、体は急速に冷めていく感覚に襲われる。
なぜバレたんだ?
「だって、転校初日にすごい顔で私のこと見てたでしょ」
彼女からすれば、「自分のことが見えない人間」は面白い存在らしく、笑っている気配がした。やがて彼女は笑い飽きたのか、両手をパンっと合わせた……たぶん。
「それで、何か手伝うことはないの?」
「ええと、……じゃあ黒板を消してもらえるかな」
「オッケー」
そう言うと、僕の周りの空気が動く。どうやら彼女が黒板の方を向いて、その動きが少しの風を生んだらしかった。
……黒板消しだけが、意思を持ったみたいに宙に浮く。トッ、トッ、トッと軽やかな足音が、音のない教室にこだまする。
彼女の気配はいつも曖昧で、僕はいつも大体“そこにいる”ぐらいしか分からなかった。でも今だけは、彼女の動きを把握できる。
黒板がゆっくりと綺麗になっていくのを、僕は西日とともに眺めていた。
何度目を凝らしても、僕の視線は彼女を透過してしまう。この頃になると、僕は彼女が見えないことを半ば諦めていた。
そもそも、世の中には僕の視界に捉えられないもののほうが多いのだから、どうでもいいとすら思った。
だから、彼女の問いかけに、すぐに答えられなかった。
「【僕の姓】くん、自分だけは見えないってどんな感じ?」
その問いは明らかに僕に向けられたものだった。けれど、ほぼ初めての会話でそんなことを聞くとも思えず、僕は後ろを振り返った。
「ねえ、君に聞いてるんだよ?」
ぷにっと僕の頬が押される。目線だけ前に戻すと、彼女の細い指先が僕の頬を刺している。いつの間にか、彼女は黒板の方から僕の席の前まで来ていた。
……そう、彼女の細い指先が見えていた。理由はたぶん、彼女の手についたチョークの粉だ。白い粉が彼女の手の輪郭を映し出していた。
「わ、分かったから、指を離してよ」
「じゃあ、質問に答えてね」
指がゆっくりと頬から離れる。どんな感じ、か。孤独感や疎外感、そういった単語一つで表せるほど、僕の感情は単純じゃない。
例えば、曇った窓ガラス越しに世界を見ているような、ピントが合ってないような、そんな感じ。
……このときの僕に、複雑な感情を言語化することなどできなかった。
「……見えなくたって、どうでもいいよ」
「なにが?」
喉の奥が痛む。言いたいことと違う言葉が出ていく。
「見えないんだったら、存在していないのと一緒じゃないか」
言ってしまったと思った。
その答えは彼女を傷つけかねないもので、若さゆえの鋭さを孕んでいた。
取り繕おうと口を開いてみるものの、僕らの間の重苦しい静寂は、それを許さなかった。
彼女の表情が見えないのが怖い。彼女が沈黙していたのは、ほんの2分のはずだが、2時間ほどに感じられた。
……やがて彼女は口を開いた。
「これでも?」
見えないはずなのに、彼女の気配が濃くなった気がした。
チョークの粉で立体的になった両手が、僕の顎を持ち上げる。
ためらうような風が、僕の顔を掠めた。
ちゅっ。
僕の唇に暖かく、優しい感触が来る。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。心臓が、喉にまで来たのかと思うくらいうるさい。体がサウナにいるみたいに熱かった。
唇が離れた瞬間、二人の間に言葉にできない何かが残った。
「これでも、存在してない?」
彼女の表情が見えないのがズルい。僕はりんごみたいな赤面を晒しているだろうに、彼女のニヤリとした顔すら見えないのだ。
口から言葉が、上手く出てこない。
言葉にならない。出てくるのは、ただの熱い息だけだった。
西日は僕らを見捨てて、とうに沈んでしまっていた。
「あれ、もうこんな時間か。私そろそろ帰るね」
彼女の言葉は、やはり平然としていた。さっきのことなど、なかったかのように。遠ざかっていく足音は、扉の前でぴたりと止まった。
「見えないって言われるの、昔は嫌だったけどね。今はもう慣れたから」
あまりにも軽い調子で言ったその言葉が、実際にはどれほど重いのか。僕には分からない。
「じゃあね、また明日」
そう言うと、教室から僕以外の気配が消えた。
いつも隣にあったはずの沈黙が、やけに寂しく感じられた。書きかけの日誌を書こうとするけど、手につかない。
もしかしたら、今も彼女はそこいらの空席にいるかもしれない。そう思うと彼女がどこにでもいる気がしてしまった。
頬が熱くてたまらない。
僕の世界のどこにもいないはずの彼女が、あの瞬間は“ここ”にいた。
◇ ◇ ◇
翌日。学校に藤森さんの姿はなかった。
姿がないのはいつも通りだけど、軋む椅子も、鈴のような笑い声も、優しいようで寂しそうな言葉もなかった。
先生が言うには、親の仕事の都合での転校らしい。
あまりの早さにクラスメイトたちは驚いていたけど、昼休みぐらいには普通の空気になっていた。元から彼女が見えていなかった僕にとっては、空席が本物の空席になったに過ぎない。
……前と変わったことが一つだけある。僕は今でも、誰もいないはずの椅子に手を伸ばしてしまう。彼女のことを、僕は時々探してしまう。
――見えない君と、キスをしたのだから。




