第7話 崩れ始める自己認識
あれから胸のざらつきについて新たな進展はなかった。
結局、ユリアンとライルのいつもの漫才じみた応酬を最後まで見届け、ひとしきり笑ってから、私は大人しく寮へと戻った。
夕食を済ませ、明日の予習と復習も一通り終える。
机の上は整然と片付き、やるべきことはすべて終えたはずだった。
それなのに、胸の奥だけがどうにも落ち着かない。
静まり返った寮の部屋には、壁掛け時計の規則正しい音だけが淡々と響いている。
一定のリズムで刻まれるその音が、今夜に限って妙に耳についた。
寝るにはまだ早い。
仮に横になったところで、どうせ頭の中はざわついたままだろう。
ならば――ここで一度、今日一日の出来事を整理してみよう。
まずは、ユリアンだ。
姿かたちも、口調も、佇まいも――どこからどう見ても、まごうことなきユリアンである。
それなのに、なぜか今の彼は「殴りたい」という衝動に突き動かされている。
少なくとも、昨年一年間の冷静沈着で友想いだったユリアンからは、到底想像もできない姿だ。
大体、私と彼は幼少の頃からの友人で、よく一緒に行動し、一緒に怒られた仲である。
だからこそ、私は彼の「昔」をよく知っている。
そうなのだ。
幼い頃のユリアンは、今とは正反対と言っていいほど感情的だった。
ゲームに負ければすぐに殴りかかり、警備員の態度が慇懃無礼だと言っては「再教育すべきだ」と声を荒らげ、正門から見える学園の建物がわずかに一直線でないと腹を立てて設計者を呼べと騒ぐ。
そんなことを、来る日も来る日も繰り返していた。
そのたびに私は止め、なだめ、時には一緒に叱られた。
学園に来る前の彼は、本当にすぐに暴力で解決しようとする性格だったのだ。
ただ、今と変わらず腕力より頭脳派なので、殴られてもあまり痛くないのが救いだ。
――――ん?
それなら、今日のユリアンは――あの頃と、何も変わっていないのではないか。
◇
気を取り直し、次はライルについて考える。
今の彼は、花が好きらしい。
付き合いの長い私からすれば、それはどうにも彼らしくない。
騎士団長の息子らしく、武道に関しては学園でも一、二を争う実力者だ。試合後には、よく女生徒から花束を受け取っていた。
一見無骨者に見えるかもしれないが、話してみれば思ったより穏やかで明るい男だ。
そのせいか、女子からはやけにモテる。
だが以前の彼は、花にまったく興味を示していなかった。
貰った花束もすべて持ち帰りはするものの、部屋の花瓶に無造作に突っ込むだけだった。
そう、今とはまるで違っていたはずだ。
――いや、本当にそうだろうか。
よく考えてみれば、花などどうでもいいと思っている男が、わざわざ貰った花を「すべて」持ち帰るだろうか。
無造作に突っ込んでいただけで、本当は彼なりに大切にしていたのではないのか。
花を生ける術を知らなかっただけで、心のどこかでは愛着を抱いていたのではないか。
……分からない。
ライルについては、これ以上思索を巡らせても答えは出そうにない。
ひとまず、次へ進もう。
◇
エリオ。
私たちの一つ下の下級生で、笑顔が愛くるしいと女子たちから黄色い声援を浴びていた少年だ。
気が利き、場の空気を読むのが上手く、いつも先回りしてお茶などを用意してくれる。天真爛漫で、誰に対しても笑顔で優しく接していた。
特に、女子の前では。
――そう、女子の前では。
今思えば、女子以外――つまり私たちの前では、あそこまで愛想がよかっただろうか。
我々しかいない空間では、先日、学園で見たエリオのように隅で気配を消し、ゲーム機ばかり見ていた気がする。
学年は違えど、一緒にいる時間は長かったはずだ。だが、そこに「彼がいた」という確かな手触りが、どうにも薄い。
それは、先日の登校中に出会ったときの物静かなエリオ、そのものではないのか。
一生懸命思い出そうとすると、記憶の隅でぼやけた影のような存在感が揺れる。
だが、いざ掴もうとすれば、焦点が合わない。
あまりにも輪郭が曖昧だ。
これではお手上げだ。
エリオについても、ひとまず後回しにしよう。
◇
次は、クレイン先生。
穏やかで面倒見がよく、私たちの教師であり、学園生活の相談役でもある存在。
授業内外を問わず、常に生徒へ気を配り、私たちやリリアーナを支えてくれていた良き教師だ。
そんな先生の妹君について、私は何ひとつ知らなかった。
先生自身から聞いたこともなければ、匂わせるような話題すらなかった。
あの穏やかなクレイン先生が、そんな大切な家族の話を一切してこなかったという事実だけで、どうしても胸の奥に小さな棘が残る。
そんな先生が、今日になって突然妹君の話をするのは――やはり、おかしいのではないか。
ユリアンから聞いた、先生の机いっぱいにあるという幼子の写真は、本当に妹君なのだろうか……。
これに関しては、下手に深追いすれば、恐ろしいことになりかねない気もする。
妹君については、学園の人事課に、王子である私が問い合わせれば、事実関係はすぐ分かるだろう。
先生の妹発言が怪しいので調べてほしい、と。
……これはさすがに露骨すぎるか。
先生を信じているからこそ調べてほしいと――いや、それもやはり駄目な気がする。
先生が犯罪者ではないと証明したい。
犯罪を起こす前に、疑念を払拭しておきたい。
――――――その場合、一体、なんと問い合わせればいいのだ?
◇
最後は、私自身だ。
最初に胸へ沈んだ違和の種は、妹のクラリッサに向けられたものだった。
彼女は決して、知り合い――ましてやリリアーナを悪し様に言うような無遠慮な妹ではない。
私は二人が楽しげに言葉を交わす場面を、この目で見ている。
実際、リリアーナ本人からも、二人は仲が良かったという証言を得た。
にもかかわらず、あのときのクラリッサの言葉はあまりにも鋭く、冷たく、私の胸に突き刺さった。
そしてその出来事を境に、私に向けられる周囲の視線は目に見えて変わった。
確かに、傍から見れば頼りない王子だと思われても仕方がないのかもしれない。
だが、それでも私は学業も公務も真摯に取り組んできた。
目立たずとも、確かに評価は積み重ねてきたはずだ。
少なくとも、昨年まではこんな扱われ方をした覚えはない。
それなのに――いまの風当たりは、強すぎる気がする。
言われ過ぎではないだろうか。
言われ過ぎだよな? ……だよな?
そして、もう一つ。
どうしても無視できない違和感がある。
私は、リリアーナが好きだ。
疑いようのない事実のはずなのに、気持ちが高ぶるたび、あのチクリとした痛みが走る。
彼女に関してのみ現れる、あの不可解な痛み。
あれは、一体なんなのだろう。
胸に手を当て、ゆっくりと息を吸う。
頭いっぱいに、リリアーナの姿を思い描く。
廊下ですれ違ったとき、こちらに気づいて少しだけ目を細めたあの笑顔。
温室で並んで歩いたとき、花の名前をひとつひとつ確かめるように口にしていた横顔。
授業中、窓の外へ視線を投げ、ふと物思いに沈んでいた静かな表情。
ああ――やはり、彼女を想うと胸が逸る。
彼女が編入してきた日のことを思い出す。
初めて見た瞬間から、目が離せなかった。
きっと、外見が好みだったのだろう。
チクリ。
――やはり出た。
外見が好みだというだけで、こんな痛みが走るほど悪いことなのか。
元々、私は長めのストレートヘアで、意志の強い瞳の女性が好みだった。
ならば彼女に見惚れたとしても、何もおかしくは――――
その瞬間、自分が思い描いていた言葉に、思考が凍りついた。
頭の中が、真っ白になる。
……その像は、リリアーナとは――似ても似つかない。
彼女は緩やかなカーブを描くセミロングの髪を持ち、穏やかな眼差しをしている。
包み込むような柔らかな空気をまとった彼女こそが、私の心を捕らえたのだ。
普段は意識しないのに、こうして考え込むたび、時計の音がやけに大きく響く。
その規則正しさが、今は妙に苛立たしい。
去年の私は、確かに彼女のことが好きだった。
いまの私も、間違いなく彼女のことが好きだ。
だが――
それは、本当に同じ「好き」なのだろうか。




