第4話 乱れ始めた静寂
午後の温室で、私はリリアーナと偶然再会し、他愛のない会話を重ねていた。
穏やかな時間だったはずなのに、胸の奥に芽生えた小さな違和感が思考を奪い、いつの間にか、私は言葉を失っていた。
すると、リリアーナが優しく、それでいてわずかに不安を滲ませた声で私を呼んだ。
「アルノ殿下、やっぱり調子が悪いのでは……」
その問いかけに、私は一瞬、答えを探すように視線をさまよわせる。
自分でも説明できない胸の違和感が、こんなにも居心地の悪いものだとは思わなかった。それが無意識のうちに表情へと滲み出ていたのだと、ようやく気づく。
「いや、すまない。……調子が悪い……のかもしれないな」
「誰が呼んできましょうか」
「いや、大丈夫だ。少しばかり不快なだけだから」
このままでは、リリアーナに無駄な心配をかけてしまう。
せっかく再会できたのだから、もう少しこの時間を楽しみたかった。しかし――ここは一度、教室へ戻るべきだろう。
そう判断し、わずかに後ろ髪を引かれる思いを抱えたまま、私は踵を返した。
その拍子に緊張の糸がふっと緩んだのか、足元が不安定になり、軽くつまずく。
「あ……」
「……リリアーナ」
転びかけた瞬間、リリアーナがとっさに手を伸ばしてくれた。
地面に倒れ込むことは免れたものの、体勢を立て直す間もなく、私は彼女と至近距離で向き合う形になる。
「…………」
「…………」
言葉が見つからないまま、二人の間に沈黙が落ちた。
ほんの数秒のはずなのに、その時間はやけに長く引き延ばされたように感じられる。
リリアーナの胸の鼓動が、わずかに速くなる。
――アルノ殿下とこれほど近いのは、告白の日以来かしら。
久しぶりに触れたアルノ殿下の体温が、じんわりと頬へ広がっていく。
春の遠足で並んで歩いた湖畔、夏に交わした手紙、秋の文化祭の舞台、そして冬の舞踏会。
去年一年の記憶が胸に溢れ、鼓動が追いつかなくなる。
私、やっぱりこんなにも彼のことが――――。
そのとき――高鳴る心とは別に、静かに息をするもう一人の自分が目を覚ました気がした。
『本当に? それは本当に私の気持ちなの?』
冷静な声が、内側から私を見つめる。
気持ちは最高潮に高ぶっているのに、頭だけが取り残されたように冷えていく。
このまま身を預けてしまいたい自分と、これ以上踏み込んではいけないと拒む自分が、胸の内で激しくせめぎ合った。
早く離れなければ、殿下に妙に思われてしまう――そう分かっているのに、体はまだその温もりを手放そうとしなかった。
――リリアーナがそう感じているとも知らず、私は近すぎる気配にわずかに身じろぎする。
温室に満ちた花の香りか、それとも彼女自身のものか。甘く柔らかな匂いが、ゆっくりと鼻腔を満たしていく。
久しぶりに感じるその香りに、胸の奥がふわりと浮き立ち、心が無邪気に跳ねた。鼓動は速さを増し、耳の奥で自分の心音が大きく響く。
私はまだ、こんなにも彼女のことが――。
チクリ。
再び、あの不快な感覚が胸を刺す。
そして、頭の中に浮かぶ選択肢。
『彼女の瞳を見つめ、頬に触れる』
『彼女の視線から目を逸らし、髪に触れる』
――いいや。
私は、そんなことを望んでいるわけではない。
望んでいないはずだ。
どちらを選んだとしても、振られた私がそんな真似をすれば、彼女の負担になるだけだろう。
ならば、どうすればいい。
その不確かさが胸をざわつかせる。理性では抑えきれない焦りが、ゆっくりと全身へ広がっていく。
その焦りを嘲笑うかのように、カチ、カチ、と時計の音が耳に障る。
早く、この状況をどうにかしなければ――。
二人の視線が絡み合う。
どちらからともなく、呼吸が浅くなる。その静かなひとときの中で、アルノーシュの手がゆっくりと上がり、リリアーナの首元へ伸びていった。
その瞬間、背後で枝葉が揺れる音がした。
「ヒヤシンスのダイレクトな香りもいいけど、やっぱりパンジーも、ほのかでいい匂いだよな」
鉢植えの陰で葉ががさりと大きく擦れる。
そこから、可愛い花の鉢植えを抱えたライルがひょっこりと顔を出した。
「………………」
「………………」
「………………」
三人が同時に息を呑む。
赤く染まるアルノーシュとリリアーナ。
対照的に、みるみる青ざめていくライル。
「……俺、何も見てない! 本当に見てないから! だから……二人とも、俺が花を愛でてたことは黙ってて……くれないか?」
視線を泳がせながら、ライルは言葉を選ぶように間を置く。
それでも最後は、どこか真剣な眼差しで頼み込んだ。
その様子に、リリアーナの胸がふっと温かくなる。
「ライルも花が好きなの?」
「なんか……その……春休暇あたりから気になって……近づいたらいい匂いだし、小さくて……か、可愛いかな、と。……笑いたけりゃ笑ってもいい」
「そんなことないわ。嬉しい。私もそう思っていたから、ライルとお花の話ができるなんて、本当に嬉しいわ」
その言葉に安心したのか、ライルの表情が和らいだ。
次の瞬間にはいつもの調子で、いつもと違う花について熱心に語るライルへと切り替わっていた。
肩を並べ、楽しげに話し込む二人。
その光景を眺めていると、胸の奥がゆっくりと温かく満たされていく。
――あの“チクリ”は、顔を出さない。
この二人が仲良くしている様子に、不快感はないらしい。
それは良かった。
うん――多分、良かった。
「私は春休暇の間、王都から離れた実家に戻っていたから、この子たちのお世話ができなくて心配だったの。だから今日、時間ができたので見に来たのよ」
「そうなんだ。今日は来ないってクレイン先生から聞いて心配だったけど、偶然会えて良かったよ」
その言葉を聞いた瞬間、先ほど耳にした女生徒たちの噂話が脳裏をよぎる。
「ああ、そうだ。君の友人が、君を見たとか見なかったとか騒いでいた。帰る前に顔を見せてやるといい」
その言葉に、ライルの隣で話していたリリアーナがこちらを振り返った。
「そうなんですね。教えてくださってありがとうございます。では、殿下もライルも、どうぞお元気で」
「リリアーナ、また花の話しような!」
手を振りながら、教室のある方向へと去っていくリリアーナ。
ライルはその背に向かって手を振り、私は――扉の向こうに消えるまで、目を離すことができなかった。
そんな余韻もお構いなしに、ライルが嬉しそうに話しかけてくる。
「さっきリリアーナが教えてくれたんだ。寮内でも簡単な鉢植えならできるみたいだし、園芸製品も購買部で売ってるって。だから俺、寄ってから帰ることにするよ。アルノーシュはどうすんだ?」
「私は――」
「まぁいいや。じゃあな、また明日」
軽い調子でそう告げると、ライルはひらひらと手を振りながら購買部の方へ歩いていった。
花が好きだという意外な一面を見たというのに、人の話を聞かないところは相変わらずなのだな。
やがて温室には、私ひとりが残された。
先ほどまで確かにあった彼女の気配が、花の香りとともに胸の奥をくすぐる。
笑顔も、心配そうな瞳も、私に向けられた声も――鮮やかに蘇り、簡単には消えてくれない。
その記憶に締めつけられながら、私は静かに悟る。
理屈ではなく、どうしようもなく――私は彼女を、好きなのだと。
私は――今でも彼女が好きだ。
好きなんだ。
そう、胸の奥で何度も繰り返す。
だが、その言葉はどこか宙に浮いたまま、確かな輪郭を持たない。
これほどまで彼女に心を奪われているというのに、なぜ好きなのか分からないことに、今さら気づいた。
微笑んだ瞬間に、周囲の空気まで明るくするようなあの表情なのか。
ただ歩くだけで視線を奪う、凛とした佇まいなのか。
何気ない一言さえ胸に残る、澄んだ鈴のような声なのか。
主席の私の次に当然のように名を連ねる、その圧倒的な才なのか。
たぶん、どれも好きだ。
全部、好きだ。
――それは、いつから?
チクリ。
――彼女の中で一番好きなところは?
チクリ。
私は、彼女のなにを知っていて、なにを知らないのだろうか。




